マタイ11:2-11「荒野に叫ぶ者の声」

2025年12月14日(日) 礼拝メッセージ

聖書 マタイ11:2-11
説教 「荒野に叫ぶ者の声」
メッセージ 堀部 舜 牧師

ヨルダン川 Photo by someone10x, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

2さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、3イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。4イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。5盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。6わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

7彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。8では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。9では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。10『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』 と書いてあるのは、この人のことである。11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

マタイ11:2-11

主役は誰?

私が別の教会にいた時のことですが、夏の屋外イベントに岩淵まことさんが来られました。著名なシンガーソングライターとして、岩淵さんの歌を目当てに、通りがかりに足を止めた方も多かったと思います。ひとしきりの讃美の後に、メッセンジャーの牧師にバトンタッチするのですが、その時に岩淵さんは、「これから真打が登場します。私の後の聖書のメッセージが、今日の一番大事なお話しですから、私の歌が終わっても帰らないでくださいね」と言って、メッセンジャーにバトンタッチされました。集会の目的をよく理解した、謙遜な言葉が印象に残りました。▼落語で言えば、真打の前に登場して場を温める前座のような役割。相撲で言えば、横綱の前に土俵に入る露払いの役割。ペンキ塗りであれば、ペンキを塗る前に、下地にやすりをかけて、きれいに平らに整える前処理のような働き。これが聖書で言われている洗礼者ヨハネの働きです。後から来るキリストのために、準備をすることでした。

【アドベント】 今日はアドベントの第3主日です。アドベントは主イエスの到来を記念して、再び来られる主イエスを待望する季節です。聖書日課では一般的に、アドベント第1週に旧約聖書のキリスト預言を読み、第2・第3週には、主イエスの到来の先駆けとなる洗礼者ヨハネの記事が読まれ、第4週のクリスマス礼拝で主イエスの降誕の記事が読まれます。私たちも今週は洗礼者ヨハネの記事を読んで参ります。

1.洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネは、気骨のある預言者でした。彼は、人の住まない荒野に住み、自分の手で集めた野生の食べ物を食べ、毛皮の衣を着て、まるで古い時代の預言者の再来のように、非常に厳しい生活をしていました。▼彼は「風に揺らぐ葦」のように、どこにでも見られる平凡な人間ではなく、この世の風潮や人の意見によって、右に左に押し流されるような、軟弱な人物ではありませんでした。また彼は、人々が顔色を伺い、彼らの好意を得ようとして媚びへつらうお金持ちの貴族でもありませんでした。

誰をも恐れない気骨のある預言者でした。彼は、救い主キリストが来られる前に、その準備をするために、遣わされた者でした。▽キリストの到来の前に、人々の心を神に向けるために、群衆には食べ物や持ち物を持っていない人と分け合うことを教え、取税人には定められた以上に税を取り立てないように命じ、兵士たちには奪ったり脅したりしないように命じ、宗教指導者たちにも悔い改めて正しく生きることを教えました[1]。▼社会は、不正や抑圧、悪口やごまかしに満ちています。そうした悪を行っているなら、悔い改めるべきです。悔い改めとは、心を変えることですが、もし心を入れ替えるなら、そうした外側の行動が当然変わってくるのです[2]

罪の中に浸って、自分を正当化している間は、自分自身を欺いているのであって、信仰の目は深い闇に閉ざされて見えなくなり、何が正しいことか分からなくなります。自分自身を欺いているのですから、真理に目を向けることなどできません。自分の利益にならず、自分の意に沿わない教えは退けます。そんなところに真の救い主が来たとしても、その人はそれが救い主だとは分からないのです。自分にとって得かどうかを基準に考えるので、真理かどうかではありません。そうすると、革新的な主イエスの教えのスピリットが、本当に神の御心に一致しているかどうか、正しく判断することができないのです。▼だから、ヨハネはまず悔い改めて=心を改めて、主に従うことを選ぶことを命じます。もし私たちが何か盗みとかいじめとか、悪口のような言葉の罪とか、そういったドロドロの罪の泥沼に捕らえられているなら、まずそれに気づいて、そこから抜け出そうとすることが大切です。そうして初めて、私たちは救い主の必要を知ります。自分の力では抜け出せない泥沼にいることに気付いた時に、そこから引き揚げてくれる救い主の力に頼るのです。

洗礼者ヨハネの位置づけ

今日のマタイ福音書11章の7節以下で、主イエスは洗礼者ヨハネについて人々に教えます。ヨハネは、ちょうど旧約と新約の時代をつなぐ境目にいる人物です。11節は、いくつかの異なる解釈がありますが、主イエスが見たヨハネの位置づけが表れています。

マタイ11:11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

洗礼者ヨハネは、預言者の中の預言者、キリスト到来の前の先駆者・露払いとしての使命を受けた偉大な人物です。しかし、そのヨハネも、主イエスの十字架と復活がもたらしたペンテコステの聖霊降臨を知りませんでした。新約の時代の私たちクリスチャンが経験する、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さり、キリストの十字架によって全ての罪が赦されるという恵みを、私たちが経験しているようには経験しませんでした。

2.おいでになるはずの方

【来るべき者】 7節以下の主イエスの言葉で、主イエスは洗礼者ヨハネのことを述べる形を取りながら、ヨハネの使命である救い主の先駆けとしての使命を述べて、ご自分が何者であるかをほのめかしておられます。ご自分こそ、ヨハネが証しした来るべきキリストであることを暗示されました。

3節で、洗礼者ヨハネは、弟子たちを遣わして尋ねました。

マタイ11:3 イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。

まさに、すべての人が問うべき質問がこれです。「主イエスは何者なのか?」▼主イエスは、旧約聖書が預言したメシアの奇跡――目の見えない者の目が開かれ、足の不自由な者が歩けるようになり、病気が癒され、耳が聞こえるようになり、死者が生き返り、貧しい者に福音が伝えられているという事実を挙げて、ご自分が救い主であるしるしとして示します。

マタイ11:6 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

主イエスとどのような関係にあるか。これが最も大切なことです。

マタイ11-12章では、洗礼者ヨハネから始まり、いろいろな人びとが登場します。①多くの奇跡を行っても主イエスを信じず、裁きの宣告を受けたガリラヤの町コラジンとベツサイダ。②幼子のように主イエスを受け入れる弟子たち。③12章では、安息日に病人を癒した主イエスを非難したパリサイ人たち。④また、主イエスにしるしを求めた律法学者とパリサイ人。⑤そして、主イエスを家に連れ戻そうとした主イエスの兄弟たち。

わたしにつまずかない者は、さいわいである」と言われた主イエスへの態度が、彼らの間をはっきりと分けました。

S先生の信仰

先日、里子牧師の大学時代の恩師の一人のお宅を30年ぶりに訪問して来ました。ドイツ語学科の教授を退官された先生で、先日里子牧師がお話ししたのとは別の先生です。洗礼は受けておられないのですが、障害者福祉に深い関心をもっておられて、ドイツの大学で教えておられた時期に、以前ご紹介したナチスの障がい者を虐殺する政策から6000人のてんかん患者などを守った、ボーデルシュヴィング牧師親子の研究をライフワークとして、彼の著作を何冊も翻訳しておられました。里子牧師が大学卒業後に牧師になったことを知っておられて、年賀状のやり取りで里子牧師に「キリスト教のお教えを頂きたい」という言葉を頂いて、別の教授を通して道が開かれて、私も一緒にお会いしに行ってきました。とても温かい心の交流と、学びの時になりました。ご自分たちの信仰の現在位置も教えてくださいました。

奥様は、幼児期にお祖母さまに連れられてカトリック教会に行ったことがあるそうですが、若い頃には友人に誘われてペンテコステ教会に2年ほど通われたのですが、穏やかで頭脳明晰な奥様で、信仰信仰というあり方についていくことができず、いろいろな教会を巡られたけれども、自分なりの信仰のあり方を見つけることができなかったそうです。ご主人の退職後に、ご主人が翻訳した説教集のデータ入力を奥様がされたそうです。そうして説教集を丁寧に読む間に、奥様は初めて、「イエス様が目の前に描き出されるように感じ」て、「やっと自分の信仰のあり方を見つけた」「これでいいんだと思えた」とおっしゃっていました。洗礼はまだ受けておられませんが、すでに信仰の歩みをしっかりと歩み始めておられると感じました。▼ご主人先生も、ご自分の信仰の現在地をメモにまとめて準備しておられて、ベーテルの墓地の門に掲げられていた主イエスの言葉「わたしはよみがえりであり、いのちです」という言葉が深く心に刻まれたこと。ボーデルシュヴィングの説教を通して、十字架と復活のリアリティのある言葉に心を動かされ、翻訳の過程で奇跡的に道が開かれていったことを、神様の導きとしてとらえておられ、神様の恵みにしきりに感謝しておられました。里子牧師や私との出会いを、懐かしい教え子との再会という以上に、主の牧会者との交わりの時として感謝してくださり、交わりと共に、信仰の導きを求めておられたことを感じました。

『きたるべきかた』はあなたなのですか。」――「わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

若い頃から求道をされながら、なかなか自分なりの信仰のあり方を見つけることができなくても、主を求め続けた長い年月の末に、説教の翻訳を通して、主イエスが目の前に見るように感じられるような経験をされた――忍耐の末に、主の恵みを受け取られました。それは、自分の知恵や努力によるのではありません。神が示して下さるのです。

マタイ11:25 「25…天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。26…27 …子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

主イエスのところに来て、主イエスのくびきを負うのです。魂のやすらぎは、主イエスと共にあることにあるからです。

3.洗礼者ヨハネの期待と失望

洗礼者ヨハネは、人の顔色を見ずに神の言葉を語ったために、領主ヘロデの怒りを買って投獄されました。荒野で生きてきたヨハネにとって、暗く狭い地下牢での生活は、辛いものだったはずです。

ヨハネは苦しみの中で、自分の後に来る救い主に希望を置きました。キリストは敵を滅ぼし、イスラエルを解放し、正義を回復し、勝利を与えて下さるはずでした。ヨハネは、来るべき救い主が外国人である領主ヘロデと戦い、打ち勝って王となり、ヨハネを牢屋から解放して正義を回復されると期待したでしょう。しかし、主イエスの働きは、彼が想像していたものとは違っていました。

【適用】 現代の私たちも、しばしばこのようなことを経験します。イエス様に出会い、イエス様が共にいれば、神様が祝福の内に導いて下さると思っていたのに、思いもかけない試練に襲われて、時には多くの人が経験しない苦しみを経験して、「なぜですか」と問うたり、神様の前で苦しみもだえて嘆いたりします。▼私自身もこれまで、「なぜですか、どうすればよいのですか」と問う苦しい状況が何度かありました。そのような時、私自身は、あらゆる努力を尽くすとともに、主に祈り求めます。ほとんどの状況は、それによって打開されるのですが、それでも解決しない問題にぶつかる時があります。そんな時、自分の力で状況をコントロールすることをやめ、問題を自分で処理しようとすることをやめて、屈辱的な状況でもへりくだってそれを受け止めるのです。自分を攻撃する人を変えようとするのをやめて、混乱した状況の中で静まり、私を見下す言葉の中でも沈黙し、ただ神の前に身を低くしてへりくだることを学びました。

マタイ11: 28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

人の言葉や環境の変化の嵐の中で、神の前に沈黙して静まることを学んだ時に、心の静かな安らぎを頂きました。そうして嵐の中で、神様から平安を頂く時に、状況は次第に変化し、半年から数年の内に、状況は変化していきました。▼このような経験をいくつか通るうちに、どのように神の内に安らぎを得て、神と共に、神に信頼して歩んでいくのかを、経験として学んできました。その時、私たちに与えられた苦しみは、私たちを押し込めている「枠」が取り除かれて成熟するために、神様が許され・備えられた試練であったと感じるのです。

1.感謝します 試みにあわせ鍛えたもう主の導きを
感謝します 苦しみの中に育てたもう主の御心を
しかし願う道が閉ざされた時は目の前が暗くなりました
どんな時でもあなたの約束を忘れない者としてください

2.感謝します 悲しみの時にともに泣きたもう主の愛を
感謝します こぼれる涙をぬぐいたもう主のあわれみを
しかし願う道が閉ざされた時は目の前が暗くなりました
どんな時でもあなたの約束を忘れない者としてください

3.感謝します 試みに耐える力をくださる御恵みを
感謝します すべてのことを最善となしたもう御心を
しかし願う道が閉ざされた時は目の前が暗くなりました
どんな時でもあなたの約束を忘れない者としてください

これは、何か自分を言い聞かせ、信じ込ませて、敗北を勝利だと思い込むことではありません。状況の改善をあきらめて、現状に甘んじる奴隷根性でもありません。

現実逃避ではない

無気力なあきらめと自暴自棄の態度を、ある友人が小説家魯迅の「阿Q正伝」にちなんで「阿Q精神」と呼んで批判していました。この小説は、20世紀初めの中国社会への批判として、阿Qと呼ばれる架空の主人公が、失敗や屈辱の現実から目を反らして、心の中で「自分は勝った」「わざと負けてやった」と考えて現実逃避して、自分の心を守る態度だそうです。

このような、失敗や屈辱の現実を認めない現実逃避は、クリスチャンの生き方とは正反対です。▽勤勉な努力が万策尽きた後にもなお残る、神ご自身への信頼と希望があります。現実を受け止めて、でも目の前の苦しみに心を奪われている状態から目を上げて、神が共におられることに目が向き、心がホッと一息つく時に、私たちは客観的に状況を見つめて、感情の嵐に支配されずに、最善の対応をすることができます。そのために、目の前の屈辱や失敗をもへりくだって静かにすべてを受け止めて、神が引き上げて下さるのを信頼して待ち望むのです。そうして私たちの視野が開かれ、祈りが変わり、神に信頼しするときに、私の力を越えた領域から神の助けがやってきます。そして、神様が送って下さる聖霊の風に乗って、何倍ものスピードで進むことができるのです。

期待と違う時

洗礼者ヨハネは、試練の中で、主イエスの働きが自分の期待と違っていた時、どうしたでしょうか?弟子を遣わして、主イエスに尋ねました。――私たちも、期待と違う、「どうしてこんなことになったのか」という状況の中で、主に尋ね、主の前にひれ伏して尋ねましょう。▼主はヨハネに答えて下さいました。私たちも、主ご自身の答えを頂くまで主の前にひれ伏して、戸をたたき続けましょう。

主イエスはヨハネに何と言われたでしょうか。主は、ヨハネが期待したようにではなく、ご自身の方法で、しかもヨハネ自身が認めることのできる、いくつもの確かな形で、ご自分が生ける神の子であることを表しておられました。

マタイ11:5 「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。6わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

主イエスのような目を見張るような奇跡でなくても、私たちの祈りの答えとして、また日々の出来事の中の聖霊の導きの中に、主を信じる者同士の交わりと出会いの中に、御言葉の語りかけの中に、聖霊が下さる平安と喜び、信仰と希望と愛の満たしの中に、主イエスがいつも共におられる方であることを教えてくださいます。

▼私たちは、「神様はこうして下さるに違いない」「○○さんはこうしなければならないのに、しなかった」「私はこう振る舞わなければならない」という枠を外して、人と自分のありのままの姿を見ていきたいと願います。神様がどのように働かれるかの視野が広がり、新しい視野で人と物事を見ることで、私たちの祈りが変わり、態度が変わり、人間関係が変わり、状況もやがて変わっていきます。私たちの信仰の態度と祈りが変わる時、主の御手が動き出すのです。

こうして自分の力を越えた神様の働きを経験することを繰り返すうちに、神に信頼することを学び、神に希望を置いて待ち望むことを学び、人との関係においても成熟することを学ぶのだと思います。

私たちは主イエスを信じたら終わりではなく、むしろそれが始まりです。クリスチャンは皆、神の国を神と共に建て上げる働きに召されています。ヨハネも主イエスも経験したように、全てのクリスチャンには苦難があります。その中で、私たちの使命と御心を知り、己に頼らず神に信頼することを学び、主の御手に委ねる時に、それまで気付かなかった御業が見え、状況に目が開かれ、私たちの信仰と祈りが変わるとともに、主の御手は動き、道を開いてくださいます。

『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。

マタイ11:4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。5盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。6わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

このアドベントの期間、ヨハネが主のために民の心を整えて神に向けさせ、主イエスを証しし、主イエスを信頼する模範を示したように、私たちも悔い改めをもって、主イエスに信頼して、従う者として、私たちのもとに来られた主イエスを祝い、再び到来される時を待ち望みつつ、歩ませて頂きましょう。

 


[1] ルカ3章

[2] 金子晴勇氏インタビュー「信仰の洞察力」としての霊性 ミニストリー 特集「あなたの知らない宗教改革」2017年5月