マタイ13:10-17「もっと豊かに受けるために」
2025年2月9日(日)礼拝メッセージ
聖書 マタイ13:10-17
説教 「もっと豊かに受けるために」
メッセージ 堀部 舜 牧師

10それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。11そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。12おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。13だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。14こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
マタイ13:10-17
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
15この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
16しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。17あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」
【聖書の読み方】 先週の礼拝後にY兄を車でお送りした時に、「聖書を読むのが楽しい」とおっしゃっていました。牧師として一番嬉しいことの一つは、皆さんが聖書に親しんで、聖書を楽しんでおられることです。そして、Y兄が、ご自分の若い時のことを話してくださいました。初めて聖書を読んだ時、奇跡を信じることができなかったそうです。でも、「分からないことは置いておけばいいんですね!」とおっしゃっいました。しばらくするうちに、奇跡のことも、自分の中で消化し納得できるようになったそうです。▼聖書をすべて理解できる必要はありません。隅から隅まで理解するのは、不可能でもありますが、心に響くところを心に留めて読んでいくのが良いと思います。
【聖書の中に住む】 今日の箇所の前後のマタイ13章は、主イエスの有名な「天の御国のたとえ」の箇所です。「たとえ」というのは、「何かの考えを包み込んで私たちに伝える入れ物」ではなく、「私たち自身がその中に住む『家』のようなもの」だと言われます。たとえの中に入り込み、生活をしていると、その家の窓から見えてくる風景があるのです。それが神様の視点、神様の世界を生きることを学ぶことです[①]。今日の聖書の箇所は、主イエスの教えを「どのように聞くか」が教えられています。
【聖書の背景】 マタイ13章では、ガリラヤ湖の岸辺に集まる群衆に対して、主イエスは舟の上から語りかけます。群衆は神の民・イスラエルですが、主イエスはたとえによって話されます。その合間に、舟の上で弟子たちが主イエスに質問したのが今日の箇所です。
【1.天の御国の奥義】
11節に「天国の奥義」とあります。「奥義」というのは、隠されていた真理を、神様が啓示されて明らかに示される、というニュアンスを持ちます。▼神様が明らかにして下さるのでなければ、たとえは抽象的なたとえ話にすぎず、神の事柄は頭の理解にとどまります。しかし、神様が私たちの目を開いて下さる時に、神の事柄が、自分にかかわる実際のこととして経験されるようになります。
聞いて理解したところに従って
16節で主イエスは「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」と言われます。「信仰は、聞くことから始まります」[②]。納得できないものを、盲目的に信じる必要はありません。納得できないものは、神様に祈って、そっと横に置いておき、理解し・納得できた部分に従っていけば良いのです。(もちろん、教会の中での責任に応じて、より深く全体的な理解がなければ、教会に仕える任務を果たすことはできません。しかし)私たちは持っていないものによってではなく、持っている信仰に従って受け入れられます[③]。▼聖霊は、私たちの信仰に応じて、導いて下さいます。だからこそ、「聞いて理解したこと」をないがしろにしてはいけません。聞いて理解した御言葉に従わないなら、それはその人の罪となり、それだけ信仰の歩みは遅く遠回りになります。▽聞いて理解した分に従って、神を信じ・愛するならば、主はその信仰を喜び、恵みによって導いて下さいます。
【2.どのように聞くか】
主イエスは、14-15節で預言者イザヤの厳しい預言を引用します。イザヤが語りかけたのは、主の招きを拒み続けて、心を頑なにして主に背いてきた「反逆の民」に対してでした。
「14bあなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。」
信仰の視力と罪
水が澄んでいれば、透き通って中がよく見えますが、水が汚れて濁っていると、見えなくなっていきます。私たちの内に罪があるなら、心は暗くなり、聖霊の光が差し込まなくなり、神のことが分からなくなっていきます。罪に対して鈍感になり、聖書に対しても無感覚になり、聖霊の促しに対しても鈍感になっていきます。
それは私自身も経験します。神様への献身が退いている時、たとえば、自分の意志を脇に置いて神に従うことをしていない時。経済的なことや人間関係のことなどで思い煩う時。神の言葉より人の言葉を恐れる時。神の教えに気付いていながら従わない時。そんな時には、神の御声がクリアに聞こえず、心に響いて来ないのを経験します。聖書を読んでも面白くなくなります。私がそれに気づいて、神の前で自分を捧げ直した時、そのことがはっきり分かります。それまで心に響かなかった御言葉が、恵み深く豊かに感じられ、神の働きを力強く感じるようになります。
このように、罪は神様からの恵みと慰めの流れを止めて、私たちの心を渇かせます。▽イザヤや主イエスが預言した人々のように、罪が習慣となり、心が鈍くなると、神への恐れを失います。しかし、罪はやがてその代価を払う時がきます。それは思いがけない時に来るかもしれません。主イエスを受け入れなかった群衆もそうでした。彼らは聖書の教えに自分自身をあてはめて、聖書という家に入って生活しませんでした。神の視点から見て、神と共に生きることがなかったので、主イエスが来られた時に、そこにまことの神の教えがあり、まことの神の子が来られたことに気付きませんでした。▼神は全ての時代に生きて働かれ、預言者や聖書を通して語りかけておられました。もしも、生きて働く神の働きに目が開かれていたなら、主イエスのうちに働く神の力に気付くはずだ、と主イエスは言われました。
適用:時代を見分ける

時のしるしを見分けることができないのか」
同じことは、私たちの時代にも言えないでしょうか。私たちは、この時代に働いておられる神の御業を見分けているでしょうか? それは簡単ではありません。▽しかし主イエスは、マタイ16章で「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか」と、今の時代を見分けることを求めておられます[④]。自分自身で判断することを、人々に求めています。現代の私たちにも、同じように言われるのではないでしょうか。▼この時代に働かれる神の働きを見分けるためには、信仰の目が必要であり、信仰の目が澄んでいなければなりません。個々の事柄に働く神の御業を、すべて正確に見極めることができるわけではありません。(普遍的なもの以外で)顕著な形で神の働きだと断言できる事例は、少数かもしれません。しかし、神の御心に従って生きるためには、実際の私たちの身の回りで、何が御心で・何が御心でないか、神が現代にどのように働いておられるか、ある程度まで正しく見分ける判断力が必要だと思います。それが曖昧であるならば、それだけ、神の御心を理解することができなくなります。▼「何が神の御心か分からない」というところから、「これが神の御心だと思う」と言えるまでには、知恵と、祈りと、勇気が必要です。ここに、祈りの必要があり、聖書を深く理解し、その言葉と背景を深く理解する必要があります。▼聖書で主イエスが教えるたとえの中に私たちが住み、その中から世界を見る時、それは私たちに「神の視点」を教えます。その時、私たちの日常の中に働く神の御業を見分ける、信仰の目が養われていきます。
【3.あなたがたは聞いているから幸い】
礼拝に参加される方は、神の言葉を聞くため・神の恵みに与かるために、集っておられます。主イエスは「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」と言われます。この恵みにおごり高ぶることなく、へりくだって、主を恐れかしこんで、主の言葉に聞き従いましょう。
祈りつつ聞く
御言葉を聞く姿勢についてですが、祈りつつ聞くことが非常に大切です。私は信仰を持った最初の頃に言われたのは「何をする前にも祈りなさい」でした。当時大学生で、勉強をする前に「良く学ぶことができるように」と祈り、毎朝聖書を読むデボーションの前に「神様の思いをよく理解して従うことができるように」祈りました。▼聖書を読んでいて分からないことがあった時にも祈りました。自分の罪が分からないと祈った時に、聖書を通して、分かるようになっていきました。神様が共におられることが分からないと祈った時に、いくつかの形で不思議と神様がおられると感じられる出来事が重なりました。信仰と科学のことで悩んだ時も、祈っておゆだねしてから、10年以上の時間がかかりましたが、当時抱いていた鋭い葛藤は、なくなりました。聖書を読んで疑問を抱いた時に、神様に祈ると、それほど時間がかからずにその疑問が解消することは、しばしば経験します。クリスチャンにとって、祈りつつ聖書を読むことは、聖書を読む秘訣です。優れた神学者ほど、聖書を読む時に、祈りつつ読むことを重んじるものです。▼聖書を理解させてくださるのは、聖霊です。信仰の道に進めば進むほど、聖霊により頼み・祈りながら御言葉を聞くことは、熟達していくべき、信仰のスキルです。
主イエスのアイデンティティ
主イエスは、ご自分の教えを聞いて従う弟子たちに言われました。
「16しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。17あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」
この言葉は、主イエスが救い主・キリストとして来られたことを示しています。「救い主であるこのわたしを目の前に見ているあなたがたは幸いです」「救い主到来の知らせを聞き、その教えを聞くあなたがたは幸いです。」「旧約聖書の預言者たちが待ち望んでいた救い主・キリストはこのわたしである」「預言者たちは、わたしの到来と、救いと回復と癒しの時を見たいと願っていたが見られず、今、あなたがたが目の前で見ているのだ」。
キリストに出会うこと
年末に高校の同窓会に行きました。親しい友人が外科医になっていて、キリスト教系の学校に通っている娘さんと一緒に毎週礼拝に出て学んでいるそうです。職業柄、しばしば人の死に接することがあり、自分が信仰を持つということではないけれど、人の死に接する仕事柄、聖書の教えに真剣な関心を寄せていました。彼の家は仏教と繋がりが深いそうで、彼が使った「イエスの教え」という言葉から、考えたことがありました。▼仏教とキリスト教の比較を通して、キリスト教の特徴をお話ししたいと思います。仏教は、「悟り」の宗教であり、教えを聞いて悟りを開くことを目指します。仏教は非常に多様ですが、インドに発するルーツをたどれば、仏教は本来、自力本願であり、教えを受けて自分で悟りを開くものだと思います。▽それに対してキリスト教は、「救い」の宗教であり、「教え」ではなく、「救い主」という存在が核心にあります。キリスト教は、「教えを聞いて悟りを開く」のではなく、「救い主と出会い」、「救い主と共に生きる」ことを目標にします。▼「イエスの教え」は、「イエスご自身」を指し示し、「イエスご自身」に至る信仰の道に導くもので、「教え」の役割はそこで終わります。キリスト教で救いをもたらすのは、イエスの「教え」ではなく、「イエスご自身」です。▼このように、「イエス・キリストに出会う」ことが目的であるならば、この地上で、何らかの形で、「主イエスとの出会い」を経験し、「主イエスとの交わり」を経験することができるはずです。▽「死を越えた永遠のいのち」=「復活のいのち」は、目に見えず・感じることのできないものです。それは、この地上で経験できる「主イエスとの出会い」に基づいて、信仰によって受け止められるものであるはずです。死を越えて、力ある神が生きて働かれるなら、この地上の生涯においても、神は生きて働く方であるはずです。
神の招き
「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」。私たちは、神様の恵みの御声を聞いています。▼昨年赤ちゃんが生まれたご夫妻のお宅を、先週訪問してきました。生後4カ月余りになった赤ちゃんに、初めて会うことができました。その子は、ママに抱っこされて笑顔を見せながら、初対面の私たちの顔を不思議そうに見つめていました。ママを離れて里子牧師が抱っこすると、初めは頑張っていましたが、だんだん不安になって泣きそうになり、お母さんのところに戻っていきました。パパが高い高いをすると、本当にうれしそうな笑顔を横から見ることができました。子どもは、父親・母親を見分けて、自分の親のところで安心します。▼神と神の子の関係も同じです。神の子どもは、神の霊を見分けて、神のもとに行くと安心をします。神の民は、神の声を聞き分けて、神の声に聴き従います。

わたしのものは、わたしを知っています。(ヨハネ10:14)
神に立ち帰る
信仰をもって「神に立ち帰り」、クリスチャンとして「神に従って生きる」ことは、頭で考えると美しいですが、現実には多くの障害や葛藤があります。多くの内なる戦いがあります。自分の意志を抑え、神の御心に従うには、自分の意志を従わせる戦いがあります。▼納得できないことがあるならば、「教えて下さい・理解させてください・納得させてください」と祈ることが大切です。心に抵抗感があるならば、「変えて下さい」と祈るのです。▼神が心を柔らかくし、従順な心を与えて下さるのでなければ、誰も神に従うことはできません。
14-15節のイザヤ書の言葉は、裏返せば、「聞いて悟り、見て知り、心で悟り、立ち帰って癒される」ことを、神が私たちに願っておられます[⑤]。▽「悟る」とは、神が下さる知恵によって、御心を知り、自分の人生で神の祝福の道を歩むことです。▽「知る」とは、人間性の全人格で神を経験し、神との親密な愛の交わりに生きることです。▼このように、神の教えを聞くことは、神と人格的に出会い、神と共に生きることへの招きです。▽神様は、イザヤの時代にも主イエスの時代にも、生きて働き・人々に語られました。同じように、現代にも生きて働き・語りかけておられる神を、私たちが見出すことを、神は願っておられます。
【4.持っている人は、もっと豊かに】
16節に「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになる…」とあります。私たちは、すでに恵みを頂いているでしょうか。「すでに頂いているから、それで満足!」とはなりません。「いよいよ豊かに」されることを求めてまいりましょう。私たちは「すでに捕らえた」のではなく、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」[⑥]。「いのちと信心とにかかわるすべてのこと」を与えられて、栄光と栄誉へと召して下さっているのですから、「あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」と言われています[⑦]。▼このように努力をして善い行いを獲得するのではありません。私たちが頂いている恵みは、これらのあらゆる良い業が相応しいのです。そしてこのように熱心に良い実を求めて歩もうとする時にこそ、神は私たちの心をきよめて愛で満たし、真の喜びをもって神と人に仕える者としてくださいます。
御言葉をどのように聞くか
「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになる」ために、私たちは御言葉をどのように聞くことができるでしょうか。
◇①「キリストへの信仰によって聞く」こと。キリストに結ばれていなければ、何の良い実も結びません。私たちの信仰のいのちは、キリストとの人格的な関係から流れてきます。▼一日の始めに・終わりに、私たちの心にあるのはどんなことでしょうか。そのことのために、キリストに信頼して、祈り求める時に、不思議な形での解決が、物事を円滑に進める知恵と穏やかな心が、与えられます。「あれをしなければならない、これをしなければならない」というだけでなく、「神様がなさせてくださる」「神様の恵みが共にある」ことを感謝して、信頼して進む時に、物事が動いていきます。頭を悩ませている事柄の中に、神の御手を認めて、主のご臨在と共に、歩んでまいりましょう。
◇②「私に対する神の御心」を尋ね求めながら、御言葉を聞くこと。――私たちが直面している困難の中で、神は私に何を求めておられるでしょうか?試練の中でどのようにふるまい、私がどのように成熟することを願っておられるでしょうか?神は私の前に、どのような道・計画を持っておられるでしょうか?このことを通して、神は私をどのように導かれるのでしょうか?
◇③「御言葉を聞いて、行う人になる」こと。――主イエスが山上の説教で教えたように、私たちは祝福を頂くのは、御言葉に従う時です。信仰をもって従うライフスタイルを身に着ける時、自分の力を越えた神の力が自分の生涯に働いて、後で振り返って「神が共にいて下さったのだ」と気付きます。これが、「天の御国」=神の支配の中に生きるということではないでしょうか。私個人の具体的な日々の人生にある神の御心を知って従う人が、この神の支配を経験して、より深い、もっと豊かな神の恵みを経験します。
◇④「今立っている場所」から神に聞き従うこと。――誰も「自分は恵みを頂いていない」と言ってはなりません。どんなに小さくても、神に従いたい、祝福を頂きたいと願うなら、それは神の恵みを頂いているしるしです。その願いを実行するのです。▼大きな素晴らしい証しを聞いて、自分にはできないとか、それとは距離を置いて生きるのは、知恵がある生き方ではありません。大きな証しは、小さなことの積み重ねの上で起こります。▽今週、今日、与えられている自分の具体的な使命――家庭で・職場で・教会で・地域で・友人知人に対して、行う一つ一つの歩み・言葉・仕事・奉仕・態度の中で、主に祈りつつ、主に仕えるように、心を込めて取り組んでいくなら、思いもよらない豊かな出会いや交流や実りを経験することができるでしょう。全ての栄光を主にお返しして、主に感謝して、讃美して歩む時に、ますます主の恵みの深さを経験することができるでしょう。
「12おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
「16しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。」
【祈り】 天の父なる神様。神を知らなかった私に語りかけ、信仰の目を開き、主を知る者としてくださったことをありがとうございます。「あなたがたの耳は聞いているから幸いです」と言ってくださることをありがとうございます。あなたの言葉を、恐れと感謝をもって聞き、あなたに祈り、あなたに信頼し、あなたに応えて、今ある所から、あなたに従っていくように、今日の歩みを守り導いて下さい。あなたを愛し・喜び、人々に仕え、あなたに喜ばれる者として歩ませてください。あなたの恵みを「もっと豊かに」味わう者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[①] ケネス・E.ベイリー「中東文化の目で見たイエス」第21章「イエスの語った譬え話への序説」
[②] ローマ10:17
[③] ピリピ3:15-16
[④] マタイ16:3、ルカ12:56
[⑤] マタイ13:14-15「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。」
[⑥] ピリピ3:13-14
[⑦] 2ペテロ1:5-6、※1:3新改訳2017別訳参照