マタイ2:13-23「キリストと共にある試練」

2025年1月12日(日)礼拝メッセージ

これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

聖書 マタイ2:13-23
説教 「キリストと共にある試練」
メッセージ 堀部 舜 牧師

13彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。14そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、15ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

16さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。17こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。18「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。

19さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、20「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。21そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。22しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、23ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

マタイ2:13-23

【戦後の引き上げの苦悩】

8年ほど前に、親しくして頂いていたご婦人から、戦後の引き上げの話を聞きました。その方は今のソウルで生まれて、中学生の時に敗戦で東京に引き上げたそうです。着の身着のまま、命からがら引き上げた時の惨めさ、東京の親戚を頼ってひもじい生活を耐えたことを話してくれました。その記憶はご高齢になっても鮮やかで、(8年ほど前の)当時、シリアで膨大な数の難民が発生していたのですが、彼女は難民の話を聞くと、昔を思い出して、他人ごとではなく心が痛んだそうです。▼今日の聖書のエピソードは、幼い主イエスを連れたヨセフとマリアの一家が、エジプトに逃れる場面です。短い箇所ですが、まさに着の身着のまま、その日のうちに外国に逃れた姿は、亡命者・難民と同じような苦難の生活であったに違いありません。

【聖書の背景】

今日の聖書の箇所は、マタイ福音書にだけ記されていて、礼拝で読まれることは少ないかもしれません。しかし、主イエスとその一家を守った力強い主の御手が描かれています。▼マタイ福音書では、降誕のエピソードは父ヨセフを中心に導かれていきます。今日は、ヨセフの視点から見ていきます。

今日の聖書の箇所は、東方の博士たちが主イエスを訪ねて、礼拝した記事に続いています。博士たちは、ヘロデ大王から幼子のキリストを見つけたら知らせてほしいと言われていましたが、警告を受けて、帰り道にあるエルサレムをあえて通らずに、別の道から回り道をして帰っていきました。

■【1.エジプト逃亡】

13彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。

危機の中におかれた主イエスの一家を、神様が不思議な方法で導きます。▼主イエスを守り、一家を導くのは、父親のヨセフでした。ヨセフに対して、神は繰り返し夢によって導かれます。

 ▼ヨセフは、すでに不思議な導きを繰り返し経験していたので、突然の夢による導きに、心の備えができていたかもしれません。▼もし私たちがヨセフの立場だったら、どうでしょうか。特別な形で特別な子どもを授かり、その子どもが時の権力者から命を狙われています。そして、突然母国を離れて外国へ逃れなければなりません。▼当時、エジプトのアレクサンドリアには、ユダヤ国外で世界最大のユダヤ人コミュニティがありましたので、ヨセフ一家はここに滞在したと思われます。しかし、古代の世界では、自分の国と親しい人々を離れて、見ず知らずの土地で生きるのは、非常に困難でした。幼子や女性を連れた旅も危険でした。いつ帰れるかも分からず、先の見えない不安な移住でした。

しかし、ヨセフは迷いませんでした。

14そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、15ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。

ヨセフは自分の意志で立ち上がり、行動に移します。▽「夜の間に」とは、直ちに行動したことを表します。▼ヨセフの一家が、まとめるほどの家財道具も持たずに、夜のうちに母国を離れて、外国に逃れたのは、孤独で寂しさ、不安を感じたに違いないと思います。しかし、ヨセフはこれまで経験した神の導きを思い起こし、夢で御使いが告げた言葉を思い起こして、勇気を奮い起こして、主に祈り、主に従って進みました。

クリスチャンの試練と使命

ヨセフの歩みを見る時に、試練について考えずにはいられません。ヨセフは、もし幼子の父親にならなければ、このような苦しみに遭うことはありませんでした。ヘロデの追手に命を狙われることも、エジプトで苦労することもありませんでした。▽ヨセフの試練は、キリストと共にいるがゆえに起こった試練でした。▼ヨセフにとって、キリストとの出会いは、安息をもたらしたどころか、多くの苦しみを伴いました。

▼しかし、その苦しみの中で、絶えず主が導き続けられました。その苦しみの中で、ヨセフは神の力を知り、神が与えて下さったキリストが何者であるかを知っていきました。 ▼ヨセフの生涯には、気の休まる時はありませんでした。しかし、神様はこの忠実なヨセフの手に、幼いイエス・キリストの命を預けられました。もしヨセフがエジプト行きをためらっていたら、どうなったでしょうか。ヨセフという貧しく無名であった信仰者の従順によって、神はキリストの命を守られました。 ▼ここに、ヨセフに与えられた使命があります。マタイ福音書にしか記されていない目立たない記事ですが、主イエスの幼少期を守り育てたヨセフは、非常に大きな責任を全うしました。

使命に生きる:樋野興夫教授

試練の中で与えられた使命に生きる、ということについて、がん患者の苦しみに寄り添う働きをしているがん哲学外来の樋野興夫教授のエピソードを思い起こしました。

ある日の面談で、強い孤独感を訴える患者さんがいました。「がんになってから、周りの人がみんな急によそよそしくなって、私を避けているんです。・・・」地域活動や趣味の習い事でも、リーダー格として活動を盛り立ててきた自負がある分、ショックも大きかったようです。自分の殻に閉じこもってしまったような患者さんに、私は言いました。「あなたは、明日死ぬとしても、今日は花に水をやりますか?」「え?そんなことしませんよ。だって、私はその花をもう見ることはできませんよね。」でも、あなたが水をやらなければ、その花はそのまま枯れてしまうとしたらどうでしょう。」患者さんは、考え込みながら、枯れてしまった花を想像したのでしょう。意を決したように言いました。「先生、やります。たとえ、明日死ぬとしても、水をやります。」

樋野興夫「いい覚悟で生きる」p156-163

その花は、患者さんの周囲の人と同じです。患者さんが自分のことで精いっぱいになると、花に水をやる余裕がなくなることがあります。患者さん自身の気持ちが周囲に向かなくなり、周りの人が離れていったと感じたのかもしれません。がんになったことを知られたくないと思って、自分自身が無意識に周りの人を遠ざけていたのかもしれません。

「花に毎日水をやるように、あなたが周りの人のことを忘れず、慈しむように接するなら、たとえあなたが明日いなくなっても、あなたのことを5年先、10年先に思い出す人がいますよ。あなたのその生き方そのものが、周りの人への贈り物になるのですから」

樋野興夫「いい覚悟で生きる」p156-163

樋野先生が引用する内村鑑三の有名な言葉があります。「後世へ残すべき最大のものは、お金、事業、思想もあるが、誰にでもできる最大のものは、勇ましい高尚な生涯である」。試練の中でも変わらない毅然とした生き方こそ、周りの人たちへの最大の贈り物なのだと、樋野先生は教えています。[①]

神の導き

聖書に戻ります。マタイは、そのようにヨセフたち主イエスの一家に起こった出来事のうちに、神の計画の力強い成就を見ています。

15bそれは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

神の子イエス・キリストがエジプトから上って来る様子は、モーセの時代に神がイスラエルをエジプトから導き出した出来事を連想させます。主イエスは、契約による神の子どもであるイスラエル民族を代表して、その救いを完成させるために来られました。主イエスに起こったこれらすべての出来事の中で、神の御手がすべてを支配しています。

■【2.幼児虐殺】

主イエスの一家が逃れた後のベツレヘムで、悲劇が起こります。

16さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。

当時のベツレヘムの人口は1000人以下で、殺された幼子は10-30人くらいと言われます。可能性のある子どもを皆殺しにしたところに、ヘロデ大王の残酷さが現れています。

キリストは何者か?

時の権力者が、そこまでして必死になって始末しなければならなかったキリストとは、何者なのでしょうか? ヘロデ大王を突き動かした暗闇の力が、必死になって殺そうとした幼子は、いったい何者なのでしょうか?

【現代では?】 私たちの現代社会では、この幼子はどこにいるのでしょうか? そして、暗闇の力は、誰を破壊しようと狙っているのでしょうか? どのようにして、それをなそうとしているでしょうか?キリストは教会のうちにおられ、私たち信仰者のうちにおられ、悪魔は教会を破壊し・信仰者を破壊しようと狙っているのではないでしょうか。

【神の力】 この世の権力者が、力と知恵を尽くして幼子の命を狙ったとき、彼は目的を達成したでしょうか?暗闇の力から幼子を守ったのは、何の力だったでしょうか?私たちは、この暗闇の力に対抗して、どのように立ち向かえば良いのでしょうか?

神の力と祈り

最近の私が使っているデボーションガイドのリビングライフに、次のような文章がありました。

牧会者は、共同体で課題葛藤が起こったとき、すべての信徒がキリストの御前に進み出るようにしなければなりません。問題ばかり見つめているなら、問題はさらに大きくなり、解決するどころか、もっと複雑になっていきます。葛藤が起こった時の基本的な態度は、神様だけがこの問題を解決できるということを認めることです。しかし、一般的に、教会は問題が起こると会議を開きます。・・・しかし意見はまとまらず、問題はさらに大きくなります。

私が仕えている教会には、不文律のようなものがあります。「問題が起きたら神様に祈る」ことです。教会におけるリーダーシップの役割は、信徒たちが祈り、みことばにさらに親しむようにすることです。問題からキリストに視線を移さなければなりません。キリストを黙想し、キリストに尋ね、問題を解決されるキリストの方法を学ばなければなりません。キリストは全ての疑問に対する答えです。・・・キリストの御前に進み出れば道が開かれます。・・・共同体全員にとってキリストだけが王となるなら、問題は自然に解決します。生活と牧会の場に最後に残るのは、キリストの尊い御名でなければなりません。キリストがあがめられることが結論とならなければなりません。[②]

神の導き

マタイは、ベツレヘムの幼児虐殺の背後にも、神の摂理を見出しています。

17こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。18「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。

「ラマ」はベツレヘムに近い町です。ラケルは、ベツレヘムにゆかりの人物で、イスラエルの母を象徴します。預言者エレミヤは、この預言の中でイエス・キリストがもたらす「新しい契約」を預言しています(エレミヤ31章)。▼「新しい契約」という決定的な預言の言葉に結びつけられて、福音書記者のマタイは、エレミヤの時代と主イエスの時代に、同じベツレヘム近郊で起こった嘆きに、神の一致を見出しました。▽マタイはこの悲劇のうちにも、神の測りがたい摂理の支配を認めます。

■【3.イスラエル帰還】

聖書学者たちによれば、エジプト滞在の期間は1年にも満たなかったかもしれません。[③]

19さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、20「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。21そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。

ヨセフは、彼はただ神の導きに従い、神にのみ信頼しました。単純な言葉の中に、ヨセフの神へのコミットメントと信頼が現れています。▼妻のマリア以外に、このことを理解できた人は一人もいませんでした。▽周囲の人々の目から見れば、なんと不安定な生活でしょうか。外国に移住し、再び帰国し、生活の基盤の定まらない生活です。神の導きに従う生活は、はたから見れば、地に足のつかない歩みのように見えたでしょう。誰からも理解されなかったでしょう。▼しかしヨセフは、目に見えるものにではなく、神の導きに信頼して従うことに心を定めました。移住の続く不安定な生活にも、誰も理解者のいない孤独にもひるむことなく、むしろそれを機会として神の言葉に耳を澄まし、へりくだって神と共に歩みました。

【適用】 どんな信仰の勇者でも、試練や危機の中で不安や恐れを感じないことはありません。しかし、そのような暗闇の中でこそ、信仰は養われ、神だけを見上げて歩む訓練となります。▼神は私たちをご自分の近くに引き寄せるために、私たちが経験したことのない試練を通されます。試練の暗闇の中で、誰しも不安や恐れや渇望にあえぎます。▽目の前の出来事に心を奪われて、不安の中で思い煩っている間は、信仰に立つことはできません。しかし、聖書の言葉に励まされて、腹をくくって神に信頼し、勇気をもって自分の道を主に委ねれば、すべての理解を越えた神の平安が心を落ち着かせ、守ってくれます。▼不安は何度も何度もぶり返してきます。そのたびに、神に信頼し、自分自身を捧げて、神の導きに従い、日々のわざに打ち込みます。ここに、信仰の戦いがあります。そのようにするなら、次第に信頼と平安が安定してきます。

21そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。

シンプルな迷いのない服従の言葉に、ヨセフの練り鍛えられた信仰の姿が表れています。▼試練の中でヨセフの信仰は鍛えられ、神の御手が彼らを導いていました。

■【4.ガリラヤへ】

ヘロデ大王の跡を継いで、ユダヤを統治したのは、ヘロデ大王の息子のアルケラオでした。このアルケラオも非常に残忍な人物でした。

22しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、23aナザレという町に行って住んだ。

神の御手は、ここでもヨセフ一家を守り、もう一つの夢をもって導きました。ヨセフとマリアは、彼らがもともと住んでいたナザレの村に住みます。

マタイは、この出来事のうちにも、神の摂理の導きを見出します。

軽蔑されたキリスト

23bこれは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

彼はナザレ人と呼ばれるであろう」という言葉そのものは、旧約聖書にはありません。「預言者たち」と複数形を使っているように、複数の預言の趣旨をまとめてマタイが言い表した言葉です。いろいろな解釈がされますが、

【①軽蔑された者】ナザレという村は、旧約聖書には出てこない、人口数百人の取るに足りない村でした。ヨハネ福音書で「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われたように、「ナザレ人」という呼び名には、軽蔑のニュアンスがありました。

【②若枝】 同時に、「ナザレ」という言葉は、ヘブライ語の「ネツェル」若枝という言葉と似ています。この言葉は、有名なキリスト預言で使われた、キリストの称号です(イザヤ11:1)。

【軽蔑されたメシア】 つまり、「彼はナザレ人と呼ばれる」とは、「ネツェル(若枝)」と呼ばれるキリストが、歴史的にも宗教的にも取るに足りないナザレの村の出身であり、見るべき姿や見栄えもなく、人々にさげすまれるようになることを述べていると言えます。

ヨセフ一家が、自分の意志を越えてベツレヘムで主イエスが生まれ、状況に迫られてエジプトに滞在し、再びイスラエルに戻り、何の見栄えもしないナザレの村で育たれた、その一つ一つの歩みに、神の導きと摂理があったことを、マタイは教えています。

見るところのないナザレの村で、キリストは育たれ、へりくだって神と共に歩み、父と母に仕え、大きな運動を起こしますが、人々の反対を受け、やがて捕らえられて嘲りと侮辱をうけられ、人々の罪の罰を負うために、十字架につけられました。虐げられ・軽んじられたキリストこそ、救いのために備えられた神の計画でした。

苦しみの目的と使命

私たちの歩みはどうでしょうか? 苦難の中を通っておられるでしょうか? ヨセフは、苦難を通して、神だけを見上げて、神だけを信頼し、神と共に生きることを学びました。苦難は、神が私たちを引き寄せる道具です。

そして、キリストご自身の生涯が、苦難の連続でした。避けることのできない必要悪という事ではありません。苦難のうちに、神の御心があることを教えています。キリストは、苦難を通して謙遜を学び、謙遜を生きられ、ひとの苦しみを理解し、ひとに寄り添って共に生きられました。私たちも、苦難を通して、キリストが喜ばれる、キリストに似た者とされることを感謝しましょう。

それだけでなく、苦難は、私たちがキリストご自身と一つになるための通路です。私たちが、避けることのできない苦難=神の測りがたいご計画によって与えられた苦難を、信仰をもって受け止める時、私たちは、キリストご自身の苦難を共に経験するのだと聖書は教えます。苦難の中で、キリストだけを見上げることを学び、苦難の中でキリストと一つになり・キリストと共に歩むことを学ぶのです。 ▼それは、神の御言葉に従い、今与えられている苦難を、神から与えられたチャレンジとして・愛の共同訓練として受け止められた時に、急速に信仰は成長していきます。

ヨセフがすべての重要な局面で神の導きを受けて、守られ・導かれ、幼いキリストを守り育てる使命を全うすることができたように、忠実に従う一人一人の貧しく無名な信仰者である私たちを、神は忠実に守り・導き、価値のあるそれぞれの人生の役割を全うさせてくださいます。  ▼すでに頂いている神の導きに信頼し、委ねられている主のわざに、一日一日、励み取り組んでまいりましょう。


[①] 樋野興夫「いい覚悟で生きる」p156-163

[②] リビングライフ2025年1月10日「みなの視線をキリストに」

[③] 博士たちが見た星が、紀元前6年の惑星接近だったという説が比較的有力です。ベツレヘムの幼児虐殺は、それから2年以内に起こりました。ヘロデ大王の死は紀元前4年と知られています。この推測によれば、ヘロデ大王は、幼児虐殺からまもなく、1年も経たないうちに、死んだことになります。ヨセフ一家のエジプト滞在も、1年以内だったかもしれません。