マタイ20:17-28「主イエスの杯」

2025年4月6日(日)受難節 第5主日礼拝メッセージ

聖書 マタイ20:17-28
説教 「主イエスの杯」
メッセージ 堀部 舜 牧師

人の子がきたのも、…多くの人のあがないとして、
自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 17さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、18「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、19そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。

 20そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。21そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。23イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。

 24十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

マタイ20:17-28

神は、苦しみの中にもおられる

ある人が、夜明け前に家を出発して、別の町に住む親友に会いに行ったそうです。朝靄の中で、夜明けの光の中で輝く街並みの神秘的な美しさを見て、彼は美しい世界を造られた創造主の存在を感じました。しかし、移動中、彼の友人の状況を考えるうちに、神がおられるという感動が揺らいだそうです。彼が会おうとしている親友は危篤で、最後の別れをするために、朝早く家を出たのでした。親友は激しい苦痛に耐えているけれど、数日後には死を迎えることが分かっています。親友の苦しみは無意味に思われて、本当に神がおられるのか、疑問を感じました。しかし、彼は、そのことを思い巡らすうちに、間違っているのは自分だと気付いたそうです。「神が共におられるなら、苦しみに遭うことはない」という先入観にとらわれて、苦しみに耐える親友と共に神がおられることが分からなかったことに気付きました。▼彼は面会を終え、その帰り道に考えました。「美しい夜明けのうちに神がおられたのと同じように、親友の苦しみのただ中に神はおられるのだ」。この世界の美しい部分だけではなく、最も暗い事柄のうちにも、神を見出すことを学ばなければならない、と彼は考えました。[1]

神ご自身がおられながら、苦しみから救い出されず、神ご自身が苦しみのただ中におられ、神が苦しんでおられる。それがまさに十字架の出来事で起こったことでした。

聖書:弟子たちの無理解

今日の福音書に出て来る弟子たちも、まもなく主イエスに訪れる十字架の意味を悟ることができませんでした。直前のマタイ20:17-19で、主イエスは3度目の受難予告をされます。▼しかし、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、主イエスがエルサレムで神の国を樹立される時に、より優れた地位につくために、策をめぐらし、主イエスに取り入ろうと腐心します。他の弟子たちも二人が抜け駆けをしたことに憤ります。「誰が一番偉いか」を議論していた弟子たちの、互いを押しのけ・蹴落とし、人より先んじようとする姿がありました。

これに対して、主イエスは何と応じているでしょうか?「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と言われました。二人は「できます」と答えますが、やり取りはかみ合いません。結局、主イエスが言われていることが「分かっていない」のです。

わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」――「主イエスの杯」とは、十字架のことです。弟子たちは、主イエスが通られる十字架の意味を、理解していませんでした。▼後から福音書を読む私たちは、弟子たちを愚かと思うかもしれません。しかし、私たち自身の人生で、神の働きを経験する時、十字架のただ中に神がおられることに、私たち自身が気付かないことがしばしば起こります。信仰の目を開いて頂かなければ、神の臨在と御業を認めることはできないのです。

神は、苦難という十字架のただ中でこそ、私たちに出会われます。苦難のただ中で、愛する独り子を十字架にかけられ、共に苦しまれる神としてご自分を現されます。私たちのために命をも与えて愛された主イエスに倣い、私たち自身の十字架のただ中で愛をもって仕えるとき、主イエスの十字架に現わされた神の愛を体験します。[2]

【1.主イエスが飲む杯】

弟子たちの「期待」と十字架の「現実」

今日の聖書の箇所で、主イエスの左右に並ぶ地位を求める弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません」と言われました。▽「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と言われた時、彼らはそれを一般的な殉教の苦しみの杯だと考えました。彼らは、主イエスの十字架が「死と苦しみの場」であることを理解していましたが、「すべての人の救いのため」の神の御業だとは、知りませんでした。キリストの杯を、自分たちも受けることができる殉教のことだと考えて、救い主ご自身が自分をいけにえとして捧げる、救い主に固有の救いの行為であるとは理解できませんでした。

十字架――歴史の現実

今日の福音書の18-19節で、主イエスが受難を予告されます。

18「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、19そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。

主イエスの十字架と復活が、飾り気のない言葉で予告されます。まもなく、弟子たちが直接目撃した、様々な意味や解釈が加えられていない、出来事をありのままに表した言葉です。▼十字架と復活は、美しい言葉や理論ではなく、歴史上に起こった具体的な出来事です。神の御子が十字架にかかり、死なれた。この具体的な事実が、素朴な・むき出しの・荒削りの言葉で表現されています。▼私は、この御言葉を黙想して、以前は、十字架の「意味」が記されていないこの言葉が味気なく、どのように味わえば良いか、分かりませんでした。しかし、今回、この御言葉を味わう中で、十字架の「意味」や「理論」ではなく、十字架の出来事それ自体が、私の心の中に描き出されるように感じました。十字架という具体的な歴史上の出来事を通して、十字架に架けられたキリストご自身が、私の内にご自分を現してくださったと感じました。その、十字架のキリストが心に現れて下さるというひとかけらの経験を、もっともっと深く味わいたいと思います。▼この、十字架に架けられたキリストを通して、十字架の出来事の背後におられる神が、ご自分を示しておられます。

私たちの生活の現実のただ中で

キリストの十字架が、理論や概念ではなく、歴史上の具体的な出来事であることが持つ意味は、「神が私たちの具体的な生活の現実の中にも、入って来られる」ということです。▼今日は、聖餐式が持たれます。目に見えるパンとブドウ液を味わいます。それは、十字架でそのような目に見える現実の肉体が引き裂かれ、現実の血が流されたことを伝えています。▽目の前に置かれるパンとぶどう液が現実のものであるように、神は私たちの現実の生活の中におられます。

冒頭の病床の友人を訪ねた人が、友人の苦しみと共に神がおられることを学ばなければならなかったように、それは信仰を働かせなければできません。マルティン・ルターは、「ご自分を隠される神」と呼びました(イザヤ45:15参照)。自分の感覚や考えによれば、「神がおられない」と思われる状況のただ中で、実は「神は共におられる」のであり、 祈りが答えられず・思い通りに行かないその状況のただ中で、「神が共におられる」のです。▼キリストの十字架が、そのような出来事でした。呪いの十字架という、弟子たちの考えでは「あってはならない」「神から見放された」出来事は、神の御手の中で起こった出来事でした。▼ルターは「神はこのキリストの十字架を通して、ご自分を啓示される」と言いました。私たちが神に出会うのは、まさに十字架という「神がおられない」かのような試練を通してだと言います。▼神は十字架の内にご自分を隠しておられ、十字架を通してご自分を現されます。

私の体験

経験①:試練の中で、恵みを受ける

最近の礼拝でもお話ししましたが、私は以前、信徒リーダーとして奉仕していた時に、身に覚えのない非難を受け、不利益を受けたことがありました。▼その時は「なんでこんな仕打ちを受けるのか?」と思いました。無駄な、本当に空しい労苦を費やすようにさせられたと感じました。▽実際、そういう目に合わないで済むなら、その方が良いですし、回避したり逃れたりできるなら、そうすれば良いと思います。▼しかし、悪意ある取り扱いを受ける時さえも、神様が守ってくださり、何の損失も受けなかったと感じました。そして、むしろ迫害の中でこそ神様をより近く感じ、神様の恵みと愛を豊かに受けることができました。試練や迫害は、私たちの益のために神から与えられているとさえ言えます。

経験②:試練を通して、神の愛を深く知る

学生時代、イエス様への愛によって、イエス様が十字架でご自分を与えられたように、私も兄弟姉妹を愛するように、自分を捧げて仕えることを、聖書を通して教えられました。とても忙しい奉仕の中で、あまり周囲に理解してもらえないと感じ、奉仕に実りが乏しく、深い渇きを覚えた時期がありました。そんな中で、自分の損得を顧みずに、主イエスが愛されたように、私も愛すること・自分を与えることを心掛け続けました。それらを通して、まもなく私が理解していったのは、私がどれだけ愛したか・愛せなかったか、ではなく、むしろ神が私をどれほど愛して下さっているか、でした。周囲の状況はゆっくりとしか変化しませんが、むしろ厳しい中でも神の愛を頂きました。私自身の苦しみの十字架の中でこそ、神様はご自分の独り子を与えて下さったご愛を豊かに表してくださいました。神の十字架のご愛は、自分の十字架を負って神を愛し隣人を愛する人にこそ、身に染みて理解することのできる側面があると思います。

【2.私たちが飲む杯】

ヤコブとヨセフの言葉を聞いて腹を立てた10人の弟子たちを、主イエスは諭されます。

25…「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

謙遜な愛

教会を導くリーダーとなる弟子たちは、キリストのようであり、キリストが歩まれたように歩まなければなりません。「26bあなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」――キリストが給仕する者のように、身分の低い者のようになって人々の必要に答え、最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったように、互いに愛し合うように。そして、主イエスが、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられ…、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ように(ピリピ2:7-8)、へりくだった愛の心で互いに仕えることを命じられました。

これは確かに、クリスチャンの倫理的な模範ですし、組織の円滑な運営の面でも大切な心構えです。しかし、主イエスの招きは、倫理的模範や組織運営上の事柄以上の、いのちの祝福への招きです。▼いつも言うように、謙遜は霊的なきよさと成長の土台です。そして、このキリストに倣って、愛によって仕えることを通して、主イエスご自身のいのちにあずかる者となるのです。

弟子たちにとって、十字架はキリストに相応しくない出来事でした。しかし、その十字架を通して、弟子たちはキリストが何者であるかを理解していきます。

十字架を通して神の愛があらわされる

むごたらしい十字架で現わされたのは、神の愛でした

28人の子がきたのも、…多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

私たちの十字架を通して、愛の神に出会う

主イエスの十字架は、私たちを友と呼んで、私たちのために命を与える愛の犠牲でした。そして、私たちも同じように、愛をもって互いに仕えるように命じられました。▼この「私たちの十字架」を通して、神がどれほど私を愛して下さったかが実感されるようになります。

主イエスと「同じようにしなさい」という招きは、単なる模範や倫理的基準の教えではありません。それ以上に、主イエスと一つになり、主イエスと共に生きることへの招きです。

私たちは、主イエスのように誰かを救うことはできないけれど、私たちも愛の心・無私の心で人々に仕えるように招かれています。それは「自分の十字架を負って生きる」ことです。私たちは、自分自身の十字架を負って生きる時に、その十字架のただ中で主イエスご自身に出会い・主イエスの愛を知ります。

【あなたの十字架とは?】

私たちの現実の生活において、神が答えておられないと感じる領域はあるでしょうか?その場所で、神はどこにおられるでしょうか? ▼私の生活において、神がご自分を現されるカルバリの丘は、どこでしょうか? ▼私たちが、神の要請に応えることができずにいた事柄はあるでしょうか?まさにそのところで、私が主イエスに倣って愛をもって仕える一歩を踏み出す時、神はご自身を表わしてくださらないでしょうか。そのようにして、私自身がキリストと共に生き、キリストをより深く知り、キリストの愛により深く根差して生きる者にしてくださいます。

18「…人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、19そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。

26bあなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

キリストの十字架を通して神に出会い、より深く神を知る者とならせて頂きましょう。


[1] A. E. マクグラス「十字架の謎 キリスト教の核心」p47-48

[2] A. E. マクグラス「十字架の謎 キリスト教の核心」5 十字架につけられた隠された神。A. E. マクグラス「ルターの十字架の神学」第5章 十字架だけがわれわれの神学である。


【神学的背景:マルティン・ルターの十字架の神学】

マルティン・ルターは、宗教改革が起こった翌年1518年のハイデルデルク討論で、十字架の神学を説明している。命題20で出エジプト33章を暗示している。モーセは神に一緒に行って下さるよう願ったところ、神はモーセに顔を見せず、ただ後ろだけをお見せになる。必死の願いに対して、モーセが「神の後ろ姿」だけを見たことは、神の不在を感じ、神に見捨てられたという絶望と苦悩、すなわち十字架を意味するのだと、ルターは解釈した。ルターによれば、神は敗北や悲しみ、痛みや苦悩、失敗や罪や死にもかかわらず、なぜか存在する、のではない。神ご自身が、敗北や悲しみ、痛みや苦悩、罪や死を通して、その中で、私たちに向かい、私たちの近くにいて下さる。 神は、私たちの自惚れと無知を打ち砕くために、十字架においてご自分を現すことを決断される。神は、キリストの十字架の中でご自分を現される。しかし、私たちが「神はこのように働かれるはずだ」という先入観のために、私たちは十字架の中にご自分を現される神を認めることができない。それゆえ、神は「ご自分を隠される神」(イザヤ45:15)と呼ばれる。その先入観は、私たちの苦難という十字架の中で、打ち砕かれなければならない。そのようにして、十字架こそ神がご自分を啓示される場となり、十字架は私たちが神と出会う場となる。