マタイ25:14-30「良い忠実なしもべとして」

2023年11月19日(日)礼拝メッセージ

聖書 マタイ25:14-30, 詩篇90:10-12
説教 「良い忠実なしもべとして」」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。…『おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。』

(マタイ25:21,23,29)

「われらのよわいは七十年にすぎません。
あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、
その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。
だれがあなたをおそれる恐れにしたがって
あなたの憤りを知るでしょうか。
われらにおのが日を数えることを教えて、
知恵の心を得させてください。」

(詩篇90:10-12)
タラントンの例え話 ©こひつじイラスト

おはようございます。寒くなってきましたが皆さまの健康が続けて守られますように。

今朝のCSでは「科学と信仰」というテーマで舜牧師がパワポを使って分かりやすくメッセージを子どもたちにしました。小学三年生の子が「僕は神様は見えないから信じない。神様は科学的じゃない」と言ったことがきっかけでした。一時期は科学者を目指していた舜牧師は何週間かかけて丁寧に準備をしていました。金曜日の夜に私の前でリハーサルをしてくれたのですが、小学校低学年生にとっては難しい内容になっており、私がダメ出しをしたら、本番では更にコンパクトに分かりやすく仕上がっていました。「科学は、①観察をする、②法則を見つける、③実験をして事実を確認すること。この作業を繰り返していくことなんだよ。でも科学で見つけられないこと、証明できないこともあるんだ。これが科学の限界なんだよ。神様は目に見えないかもしれないけど、電波や人の心も見えないよ。見えないからといって科学的でないことはないよ。そして、現実と理論のギャップに気づいたら、理論(自分の考え・勉強したこと)を変えないといけないんだ。」いつもメッセージにいろいろな質問をしたりするこの男の子は、最後に「質問がありますか」と聞かれて「ない」と答えました。メッセージを聞きながら納得できる部分と、新しく学んだことを一生懸命自分なりに消化しようとしていました。今回のメッセージを聞いて思ったことは、私は神の存在や奇跡など大きな疑問や葛藤を持つことなく、信じることができたので、「信仰と科学」というテーマについて深く考えてこなかったなということでした。大人になってクリスチャンになった夫の強みを新たに発見したように思いました。科学者になることを捨てて?信仰の道を選んだことが生かされていく光を見ました。私たちは、今まで学んできたことや、興味のあること、得意な事柄、個人的に取り組んできたことなどは決して無駄にならず、それらが神様の手に委ねられたとき、賜物として豊かに用いられるのだと思います。今日はタラントの話をしますが、それぞれに与えられるタラントをフル活用することで誰かの疑問に答えたり、喜ぶ人がいるなら嬉しいことです。

【終わりの時代を生きる私たち】

いよいよ再来週にはアドベントに入ります。アドベントに入る前の今の時期は、キリストの再臨に関する聖書箇所が礼拝で開かれることが多いのですが、今週も先週に続いてマタイ25章から、イエス様が話された天国の例え話から分かち合って行きたいと思います。

その前にマタイ24章を見ると、「世の終わりのしるし」が列挙されています。

「…また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。…民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。…そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。…また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」(24:6-12)と。これらのことは、今、地球のどこかでの世界で現実に起こっている事柄です。しかも、これらは「すべてこれらは産みの苦しみの初め」(24:8)に過ぎないと聖書は記しています。

先週の参加した賛美集会で就職活動中の女子大学生と知り合いになりました。彼女は日本人ですが、台湾で生まれ、高校生の時に日本に帰国したそうです。彼女は「これから世の中のどうなっていくのか先が見えないので、不安で仕方がない。台湾での就職も考えたけど、不穏な情勢が続いているのでもう台湾には住めない。だからこそ神様に信頼して、神様が私に望む道が開かれるように祈り続けています。」と正直な気持ちを分かち合ってくれました。沖縄の離島にも自衛隊基地が新たに配備された報道を聞き、私たちもこれまで以上に有事の時の対応を考えざるを得ません。イスラエルで学んでいる友人の近所の青年も、ガザ地区に人質として捕らえられたと聞きました。正に私たちは終わりの時代を生きています。聖書は記しています、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24:13)と。世界のあらゆるところで誰かがうめきの声をあげている中で、祈りの手を降ろさず、祈り続けて行きたいと思います。

【能力に応じて預けられるもの】

さて先週は「十人のおとめ」の話から、どのような姿勢で終わりの日に再臨の主を待ち望めばよいのかが語られました。イエス様がいつ来られるか分からない中で、「自分の灯すべきランプの油をしっかり準備し、目を覚ましていなさい」とメッセージを頂きました。イエス様は続けて、別の例え話を通し再度、どのように主を待つべきかを教えてくださいました。聖書で繰り返して語られることは、大事なことだからです。

「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。」(14-18)

 今日のイエス様の例え話を聞いて皆さんはどのようなことが心に残りますか。

先ず当時のお金の単位である一タラントは約六千デナリで、一デナリは当時の一日分働いた賃金に値します。単純計算でもし一日一万円を稼ぐなら、一タラントは六千万円、二タラントは一億二千万円、五タラントを預かった人は三億円を預かったことになります。旅に出る主人がしもべたちにお金の管理を託します。

預かったお金は主人の財産であり、しもべたちのお金ではありません。主人は自分の財産をしもべたちの「それぞれの能力に応じて」分配してお金を預けました。主人はお金を預けた時に「さあ、私が旅に出ている間に商売をしてお金を増やしてみなさい。いついつ旅から戻るからよろしく」とは一言も言っていません。何の命令もありません。しかし五タラントと二タラント預かったしもべたちはすぐに出て行って、商売をして倍もうけてきます(16-17)

しかし「しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。」(18)金額の差はありますが、同じように主人からお金を預かり、それらを運用して主人のお金を増やしたしもべと、何もせずにそのまま取って置いたしもべには明らかに結果として違いが生じました。

【いつか訪れる清算の時】

「だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。」(19) 

そしていつ帰って来るのか分からない主人が、いきなり旅から帰って来ました。そして清算をします。五タラントと二タラント預かり、お金を増やした二人は良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(21,23)とお褒めの言葉をかけられています。しかし一タラント預かったしもべは、「悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。」(26-27)と感謝されず、叱責されてしまいます。それだけでなく、与えられているものも取り上げられてしまいます。「さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」(28-30)

一体何が主人をここまで激怒させたのでしょうか。私が追い出されるしもべなら抗議したくなります。「ご主人様、私は何もあなたのお金を盗んでいません。預かった分をお返ししました。どうしてこのような仕打ちをなさるのでしょうか。理解できません。あなたは増やせとか何もおっしゃらなかったじゃないですか。私の何がいけなかったのですか」と。

【主人の心】

しもべたちは一人の主人の下で働いて来ました。違いは何だったのでしょうか。一言でいうなら、前者の二人は、主人が何を意図してお金を預けたのかを察することができたのだと言えます。つまり主人の心を理解して行動したのです。

主人は「それぞれその能力に応じて」お金を預けました。銀行に預けることもできたでしょうに、わざわざしもべたちを呼んで能力に応じて、金額をそれぞれ変えて預けました。ここに主人のしもべたちに大切な財産を託す期待が伺えます。もし期待の心がなかったらそれぞれの能力に応じて預けるという手間がかかることはしなかったでしょう。このしもべはこれだけやってくれるに違いないと託された財産には主人の心と期待が込められていたのだと思います。そんな勝手な期待をされても困ると思う人もいらっしゃると思います。でも親と子ども、上司と部下、先生と生徒、どのような関係であったとしても、期待される関係が多少なりともあるのではないでしょうか。

私が神学生の時、夏のキャラバンで地方の教会に遣わされた時のことです。初めてお会いする教会の牧師夫人が私を見て、「あなたはいろいろできそうね。何かやってくれそう」と言われ、いきなり賛美の奏楽を頼まれたのですが、上手くできなかったので結局は先生がされました(笑)。先生は神学生である私に対して、ある種の期待をもって迎えてくださったのでそのような声掛けをしたのだと思います。奏楽はできなかったのですが、その後の子どもキャンプのゲームで挽回をしたと思います。キャラバンに呼んでくださった先生方の期待する心が十分に感じたひと夏でした。

【主人が期待する忠実さ】

また「わずかなものに忠実であったから」と主人は言っています。一タラントであってもかなり大きな金額でしたが、主人は「わずかな物」と表現しています。つまり金額の大きさ如何に関わらず、主人にとっては「わずかな物」だったのです。金額以上のことがありました。主人がしもべの何を褒めているのかというと「忠実であること」です。主人が近くにいてもいなくても、主人の財産を管理する者としてしっかりと働き、与えられたものを用いるということを心得ているしもべに対して「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と声をかけています。「忠実」とは「ピストス」という「信頼・信仰」という意味のギリシャ語が使われています。主人はお金を預けたしもべに対して、自分の能力を超えてどれだけ、主人の心を信じて応えたかという点に注目しています。主人もしもべたちのことを信頼してお金を預けました。この「忠実さ・信頼」こそ再臨の主を待ち望む信仰であり、イエス様が私たちに求めておられることなのです。

 「主人と一緒に喜んでくれ」と主人は、増えた金額の大きさでなく、しもべの忠実さを見て喜びに満たされています。主人が喜ぶ姿を見て、しもべたちも喜んだと思います。

【忠実さの真逆にあるもの】

 一方で一タラント預かったしもべに対して主人は、「悪い怠惰な僕よ」と言っています。主人はそのしもべの心の底にある「恐れ、無知」を読み取っていました。「ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます。」(24-25)主人の厳しさの前に、このしもべは怖さ、恐れを覚え、何も行動できなくなっていました。忠実さの真逆にあるもの、それは不忠実にさせる「恐れ」ではないでしょうか。怖くなること、恐れることは誰でもあるでしょう。しかしそこで主人を信頼して、失敗を恐れず前進できるかでそこを突破できるか否かがかかってきます。「得ることが」いつも悪いことでなく、「隠しておくこと」がいつも良いわけではありません。

主人は神ご自身で、しもべたちとは私たち一人ひとりを指します。また預けられた財産とは、賜物と霊的権威のことです。パウロが弟子のテモテに言った言葉を思い出します。

「また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」(Ⅱテモテ1:5-8)

パウロはテモテにそこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。」(テモテ2:1,3-4)とキリストの兵士として主人を喜ばせるようにと励ましています。

旅に出た主人は天に戻られたイエス・キリストのことです。いつ旅から戻ってくるか分からない状況は、今の時代のことで、もう一度地上に戻って来られる(再臨される)主を待ち望む時、何もしないで待つのでなく、それぞれの能力に応じて与えられたタラント・賜物と霊的権威を用いること、そして信仰を働かせること、そのために私たちは臆病の霊でなく、力と愛と慎みの霊が注がれていることを覚えたいと思います。主の恵みの管理者としての歩みがしっかりでき、共に福音の喜びに与かることができますように。最後にパウロの祈りをもってメッセージを閉じたいと思います。

「あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。…わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」(ピリピ1:5-6,9-11)

主の喜びを満たす忠実なしもべとしての歩みが共に前進しますように。