マタイ4:1-11「試みを受ける時」

2023年2月26日(日)受難節第1主日礼拝 メッセージ

聖書 マタイ4章1-11節、創世記3章1-7節
説教 「試みを受ける時」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

 1さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。2そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
 3すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
 5それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 6言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。7イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
 8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 9言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
 11そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

マタイ4:1-11

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」

創世記3:6-7
イヴァン・クラムスコイ「荒野のキリスト」Wikimedia Commons

先週22日(水)の「灰の水曜日」から受難節(レント)に入りました。日曜日を除いた40日間を経てイースターを迎えます。キリストの十字架を覚えつつ、共に進んで参りましょう。

私は先週はケズィック・コンベンションに参加をして参りました。受付で来場者をお迎えし、皆さんが帰って行く時には喜びに満ちて出て行く姿を拝見できたことは感謝でした。賛美と祈りと御言葉のオンパレードで神様の愛に包まれた時でした。

今日はイエス様の洗礼を受けた後の出来事を見てまいります。

【荒野へ導かれる】

「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。」(4:1-2)

マルコの福音書では、それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。 」(1:12)とあります。私が中学一年生で洗礼を受けた時、周りの先輩クリスチャンから次のようにアドバイスをもらいました。「洗礼はゴールでなく、スタートだからね。神様は洗礼を受けたあなたを訓練するために、試練や試みに遭わせるけど信仰のテストだからね。一つひとつ合格するようにお祈りしているからね」と。小さな池で泳いでいたのにいきなり大海原に漕ぎ出した思いがしました。その日から今日までを振り返ると、確かに洗礼を受ける前の葛藤なども大きかったのですが、受けた後の試みは更に多かったと思います。一つ乗り越えるとまた次の段階の試みが待ち構えているというような連続でした。しかし、主の守りと導きなしには私自身は、今日まで来ることはできませんでした。神の子であるイエス様は洗礼を受けて直後、御霊が容赦なく荒野へと導きました。

以前イスラエルツアーに参加した時、バスで荒野と呼ばれるを通りましたが、そこは人が容易に長時間過ごせるような場所ではありません。ガイドの説明によると日中と夜の寒暖の差も激しく、生き物もろくに住んでいないばかりか、食べ物も家も人もいない、ないない尽くしの場所です。イエス様は荒野で四十日断食をして、悪魔の試みを三度にわたって受けられました。

私たちも「人生の荒野」に導かれることがあるのではないでしょうか。荒野が自分で選択した道でないのにも関わらず、抜け出すこともできず孤独で、もがき続けるしかないのです。荒野はその人の本性をえぐり出すので、素のままの自分自身を発見する場所でもあります。仮面をかぶる必要もなく、どん底に突き落とされた状態で無防備になります。そのような状況に置かれるなら、誰でも自分の命を守ろうと必死になると思います。悪魔はそのような状況に置かれる人に近づいて、どうにかして神様から引き離そうとあの手この手を使い陥れます。悪魔の特徴と共に、イエス様への三つの試みについて見て行きたいと思います。

【イエス様への試み~悪魔の特徴から見る~】

特徴①「私たちの基本的な欲求に訴える」

「そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』。」(2-3)

私は愛知県にある断食道場の二泊三日の断食コースに参加したことがあります。山奥の施設で社会から隔離された三日間を終えて、口にしたお粥の味の美味しさを今も覚えています。その道場には実際に四十日断食に取り組んでいる方もおられました。しかしイエス様は断食道場のような施設でなく、荒野で野宿をされながらのことでした。荒野でイエス様の周りには石が無数にあったでしょう。悪魔はイエス様が「本当に神の子ならそのくらい簡単だろう」と嘲笑い、神の子に挑戦したのです。イエス様は神の子ですが、人間と同じ姿になられ断食後に空腹を覚えられたのですから、パンを食べたいと思ったと思います。しかし、今は石をパンに変える時ではないと思われたと思います。はっきり悪魔に返答します。

「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある。」(4)

ここでの「パン」とは、「日ごとの糧」を表します。もちろん肉体の健康維持に日ごとの糧はなくてはならない物です。しかしイエス様は空腹のギリギリの状態で、日ごとの糧以上に大切なものがあることを示されました。かつてのイスラエルの民は荒野でパンと肉がないと神様につぶやきました(出エジプト記16章)。パウロは私たちに、見える物質的なことは朽ちて行き、一時的なものであると示唆しています。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(コリント4:18)

一時的な空腹を満たすための食べ物以上に、イエス様は永遠に続く神の言葉を選び取る信仰を指し示してくださったのです。預言者イザヤは荒野で叫びました。

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。」(イザヤ40:8)

私たちもこのレントの期間、自分自身の欲を横に置いて、普段以上に永遠に続く神の言葉に耳と心を傾けたいと思います。

特徴②「悪魔も御言葉を用いる」

「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから』。」(5-6)

次に悪魔は、平地から高いところに建っている神殿の屋根にイエス様を連れて行きました。そして悪魔は御言葉で応答したイエス様に、自分も詩篇91:11-12を引用し、「神の子なら飛び降りたらどうだ。お前が神の子なら天使が助けるだろうから」と迫りました。少し場所の説明をしますと、ヘロデ神殿にはソロモンの廊があり、そこに「神殿の頂」と呼ばれた展望台がありました。エルサレム全体が見下ろせる最高の場所だったそうです。イエス様の時代、そこは「ラッパを吹く所」とも呼ばれ、安息日と月の第一、そして新年に祭司たちがラッパを吹きました。

悪魔は一度目も二度目も「あなたが神の子なら」と言い、父である神さえも侮ります。それは悪魔自身の身勝手な支配下に引き入れようとする試みに他なりません。ある注解者はこの悪魔の巧みな言葉を「傲慢さへの招き」と記しています。出エジプトしたイスラエルの民は、荒野でこの点を失敗しました。(出エジプト17:1-7)

「イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」(7)神様を最後まで頼り、神を信頼する者に約束された守りと助けを待ち望みたいと思います。

特徴③「悪魔は非常にしつこい」

三度目も悪魔はイエス様に迫ります。一回目の試みは平地で、二回目は神殿の上で、三回目は山の上でとどんどん高くなっているように、悪魔の試みも執念深さと強さを増しています。

「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』。」(8-9)このしつこさはストーカーのようです。「するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」(10)とイエス様は三度目も御言葉の剣で防御しました。この世のすべての王国と栄華を悪魔は自分のものであり、私を拝めとイエス様に挑戦したのです。これは神の国に関する挑戦です。イエス様は正に悪魔からこの世を奪還し、神の国を完成されるために来られました。悪魔はそれを阻止しようと必死です。

「原罪」と言われる、最初に罪を犯してしまったアダムとエバの記事を見て見ましょう。蛇とのやり取りの中で、エバは神様が食べてはいけないと言われた木の実を実際に見た時、心が動いて行きました。最初は食べようとは思っていなかったと思います。英語で「I see」 と言う時、「私は分かります」という意味で使われます。分かるということはその物事に対して、見ている以上のことをもたらして行くのではないでしょうか。見えるものに惑いやすい私たちは少しくらい、このくらいなら大丈夫かなと何度も迫られると隙が出て来るものです。

目から入ってくるものに心を奪われてしまい、徐々に罪に陥って行くという段階の最初が「見る」なのです。蛇もしつこく巧みに言葉で操り、木の実を見たくなるようにそそのかしました。

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記3:6)

しかし、イエス様は「「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」(10)と悪魔の策略にひっかかることはありませんでした。ヤコブの手紙に次のように書かれています。

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」(ヤコブ1:12-15)

 目の欲が大きくなると罪を生み、最後は死なのだと聖書ははっきり記しています。悪魔に対してNOと言うだけでなく、NOの理由は聖書にあることを私たちははっきり覚えたいと思います。これこそ神の言葉を信じる信仰者の歩みなのです。

ブリトン・リヴィエール「荒野の誘惑」 Wikimedia Commons

【神の子としてのアイデンティティー】

試みが自分にやって来る時、自分を治めることができないなら敗北してしまいます。イエス様は洗礼を受けた時、「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」との父なる神様の声を聞きました。これは父である神から与えられたイエス様のアイデンティティーでした。自分が何者か、どこに属しているのか、愛されている存在か、土台となるアイデンティティーが揺らぐと、人生も揺らぎます。自分に確信がない人は、神様に対しても、使命に対しても確信を持つことが難しいです。

最近、「トー横キッズ」と呼ばれる青少年たちのインタビュー記事を読みました。彼らが家に帰らず、ある特定の場所にたむろする理由は「どうせ家族は自分がどうなっても心配しない、私のことなんか気にしていない。自分のやりたいことをして何が悪いの。」でした。自分の帰るべき安心する場所、心の居場所が確立していない青少年は寂しさ故に自分のことを愛してくれる人を見つけるために、迷走するのだなと思い、心が痛くなりました。

アメリカのある牧師の息子が非行の道に走ってしまい、人生のどん底に落ちました。親に愛されていないと思い、わざと親の気を引くために反対のことをし続けていたら、罪の泥沼にはまってしまったのです。自暴自棄になり窃盗、薬物、同性愛など殺人以外のありとあらゆる罪を犯したそうです。しかし、ある時もうだめだ死ぬと思った時、家に戻りお父さんに言いました。「お父さん、私はあなたが必要です。助けてください」するとお父さんは言いました。「息子よ、お前が必要なのはイエス・キリストだ」と。そしてお祈りをし、次の日父は息子に洗礼を授けました。その日からその息子は見えるものすべてが新しくなり、不思議に内側から喜びが溢れ、誰にでもイエス様の話をしたくなったそうです。その方は、今ではイスラエルでユダヤ人伝道の働きに携わっておられます。彼は牧師の息子でしたが自分のアイデンティティーを喪失していました。しかし方向転換をして、父の家に戻り、神の子であるアイデンティティーを回復したのです。

【神の武具を身に着けて戦う】

イエス様の行動基準は、御言葉でした。イエス様が御言葉によって悪魔の誘惑に打ち勝ことができたのは御言葉を知っていたからです。悪魔はイエス様が御言葉による明確な答えを聞くと、自分の目的を達成できずに去って行きました。悪魔は交渉する相手でなく、敵なのです。私たちは誘惑を拒むことが難しいと思う時もあるかもしれません。しかし、日頃から御言葉で武装して心を守るなら、打ち勝てない誘惑・試みはないと言えます。

「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」(エペソ6:11-13)

 神のすべての武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣、すなわち神のことばです。

 昨日のケズィック青年大会でも、この世の中でいかに悪との闘いがすさまじいかが語られ、御言葉を握り、固く立つようにと語られました。武器なしに戦うことは死を意味します。私たちは神のすべての武具を取って戦いに備えたいと思います。

 アメリカ・ケンタッキー州にアズベリー大学というミッションスクール大学があります。そこで最近起こっているリバイバルについて話したいと思います。学内の祈りのグループがありました。2月8日のチャペルの時、突然聖霊の臨在が強く臨み、チャペルは終わりませんでした。何もプログラムがないのに賛美が続き、順番に講壇に来て御言葉を朗読する者、証しをする人、お祈りをする人が出てきます。学内にその恵みが拡がり、地域の方々も来るようになり、礼拝堂に人が入りきらず、外でも共に礼拝する者たちでいっぱいになりました。人が入れ替わり立ち代わりですが、今でも賛美と祈りが続いていて、ライブ配信でその映像が見れます。一日で100名の人が信仰告白をしたそうです。また多くの若いクリスチャンが次々と主に献身を表明しています。無名の学生たちの中に聖霊が臨み、豊かに命の水がそこから流れ出し、世界が注目しています。

 世界の中で戦争があり、大地震があり、痛みと苦しみ、試みが多い中、アメリカの小さな大学の祈りグループの祈りに神が答えられ、リバイバルが起こっています。神の言葉と臨在のあるところに悪魔は居られません。聖なる流れに押し流されてしまいます。イエス様を三度試みた悪魔も太刀打ちできないと観念し、離れ去って行きました。

「そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。」(11)

 パンや世の中のどんなものよりも神を第一とする人は、神の子です。神の子は神を信頼し、神の助けを待ち望み、御言葉に従います。試みに打ち勝つ人生を共に全うさせて頂きたいと思います。