マタイ5:13-16「地の塩、世の光として」

聖書 マタイ5:13-16
説教 「地の塩、世の光として」
メッセージ 堀部 舜 牧師

13あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。14あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。15また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

マタイ5:13-16

高齢者施設の職員の体験

私たち夫妻は毎月、キリスト教の高齢者施設のキングスガーデンで礼拝の奉仕をしています。去る火曜日に、年に一度の懇談会に出席して来ました。普段はお会いしない牧師同士の交わりが持てました。報告の中で、親しくして頂いている職員のお一人から、とても良いお証しを伺いました。

先週の金曜日の夜の帰宅前に、呼吸が苦しい入居者さんがおられると連絡がありました。血中酸素濃度を測ると89-90%とかなり下がっていました。医師に相談して酸素吸入をしましたが、なかなか血中酸素濃度が上がりません。入居者さんは息苦しいのが続いていますが、この状態で救急車を呼んでも帰されてしまう。といって、この方をこのまま夜勤のヘルパーさんに引き継ぐには、あまりにも不安。その方は「どうしよう」と思い、「祈ってもいいですか?」と尋ねました。入居者さんご本人もクリスチャンで、一緒に祈ったそうです。とても喜んで下さいました。ご本人も息苦しい中でお祈りをしたいと言われて、血中酸素が下がらないように短くお祈りをして頂いたそうです。「多くの高齢者施設がありますが、キングスガーデンは、肉体のケアだけではなく、スピリチュアルケアもできる施設なのだと改めて思いました」とおっしゃっていました。

「あなたがたは、地の塩である」「あなたがたは、世の光である」という今日の聖句のように、非常に日常的な場面で、愛による行為が、実際的な助けとなり、心の支えとなった、良い証しだと思います。

地の塩・世の光――神の民の身分

ここ何回かのメッセージで、「神の民の身分」についてお話しをしてきました。今日も、同じような私たちのアイデンティティに関するお話しです。「地の塩」「世の光」という言葉を聞くと、まるで「地の塩<になりなさい>」「世の光<になりなさい>」という声が、自分の心の中に聞こえてきそうです。「もっとがんばって人のために愛しましょう、努力しましょう」と。▼しかし、主イエスはこの箇所で「あなたがたは(今すでに)地の塩です/世の光です」と、私たちが何者であるが、そのアイデンティティを教えておられます。

今日も、「私たちが何をなすべきか」を見る前に、まず、「神が何をして下さったか」に注目するところから始めたいと思います。

1.幸いの教え:マタイ5:3-12

今日の「地の塩」「世の光」という宣言は、直前の「幸い」の教えから続いています。

天の御国/神の支配

3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

この言葉は、単なる格言や一般的な真理を表す言葉ではありません。むしろ、天の御国の到来の、歴史的な「宣言」です。▼一般的な常識に従えば、「心の貧しい者」「悲しむ者」「義に飢え渇く者」「迫害されている者」は、普通は幸せではありません。でも、主イエスはそのような人たちに、「その人たちは幸いである」と宣言されます。「神は働いておられ、神の国は到来しているのだ」と。

天の御国」とは、神が支配しておられるということです。主イエスが地上に来られたことは、神様が力強く働いておられることを意味しています。▼これは主イエスの宣言です。今から後「わたしはこれらの人々を祝福する」と。

3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
 彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、
 彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
 彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
 彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、
 彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。

これが、「天の御国」(すなわち「神の支配」)の宣言です。[i]

神の支配と「導き」

【適用】 現代の私たちにとってはどうでしょうか?神の支配は、聖霊によって、私たちにも及んでいます。▼私たちは、それをどのように経験するでしょうか?神様の支配は、現代の私たちにも及んでいます。

先日里子牧師の大学時代の恩師の一人で、ドイツ語学科の元教授ご夫妻が教会に来てくださいました。先生方は、若い頃に洗礼を受けた後、教会から離れておられましたが、ライフワークであるドイツのある牧師の著作の翻訳を通して、信仰を深められました。何かのきっかけで、元教え子であった里子牧師とやり取りをするようになり、先日、初めての聖餐式を共にさせて頂きました。聖書の理解を整理して頂ければと思い、短い学びをさせて頂いたのですが、それを終えた時、奥様が「私は自分が『神の子』だなんて、考えたこともありませんでした」と言われ、「でも、『神の子』とさせて頂いていると考えると、とても嬉しいことですね」とおっしゃっていました。先生方は、ライフワークとしたドイツの牧師との出会い、研究途上での導き、里子牧師や一つ一つの出会いと導きのうちに、神様が働いておられるのを感じておられます。

天国は彼らのものである」――「天の御国」すなわち、神の支配の御手は、現代の私たちの身の回りで働いていることを、心に留めたいと思います。

【適用】皆さんは最近「これは神様の働きだ/神様の導き/助けだ」と感じた出来事はあったでしょうか?大きな出来事や変化である必要はありません。主は今も、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言って、弱い者・貧しい者のために立ち上がり、ご自分の力を表してくださいます。

招きに答える――神の支配に応答する

それは「神の支配の中で起こった出来事」です。神様は、私たちに、ご自分の支配を表して、その支配の中で生きるようにと招いておられます。

3-10節の前半は、次第に神の御心に沿って、歩みが深まっていっているようにも見えます。▼「こころの貧しい人たち」(3節)、「悲しんでいる人たち」(4節)は、ただ神だけにより頼み、神の他には何も頼る者がない姿です。「柔和な人たち」(5節)は、神を待ち望む信仰の姿を見ることができます。「あわれみ深い人たち」(7節)は、神が憐れみ深いように、自分自身も憐れみ深く歩むことを学んだ者の姿です。「心の清い人たち」(8節)、「平和をつくり出す人たち」(9節)も、神に似た品性を身に着け、その神の御心の道に共に歩もうとする人の姿です。「義のために迫害されてきた人たち」(10節)は、神の御心に従うために、自分の不利益をもかえりみずに、迫害をも耐え忍ぶ人です。▼こうして、私たちは神の御国の現実に応答して、神様の御心に共に歩む者となっていきます。

それは、イエス・キリストご自身の姿でもあります。「こころの貧しい人」「悲しんでいる人」「柔和な人」「義に飢えかわいている人」「あわれみ深い人」「心の清い人」「平和をつくり出す人」「義のために迫害されてきた人」。主イエスご自身が、自分自身には頼らず、神様だけに頼る者になり、神様が憐れみ深く・聖であり・義と平和の神であるように、主イエスも憐れみ深く、聖さと義と平和を追い求められました。そのようにして、神に従う者が歩むべき道を、自ら全うしていかれたのが主イエスでした。

ここにこそ永遠の御国に至る道があります。私たちは、信仰によってイエス・キリストと一つになって、主イエスが歩んだ道を、主イエスと共に歩み、その教えに従って行く時に、このキリストに似た姿に変えられていきます。

それは、神の力/支配(神の国)の内に生かされる、ということです。

2.神の民の使命:地の塩・世の光

そのように、神が働いておられる現実の内を、神に向かって生きる私たちに、神様が委ねられた使命が、「地の塩」「世の光」です。

16…人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」――これが、神の民の役割です。

塩・光

それは、「地の塩」「世の光」として、神の民以外のすべての人々に対するメッセージとなることです。

私はよく卵焼きを作る時に塩を入れ忘れて、妻に「味がない」と言われて気付きます。少量で大きな違いをもたらすのが塩です。塩は、味のない食べ物に味をつけます。そのように、クリスチャンの使命は、愛の冷えたこの地上で、思いやりと憐れみという人生の味わいをもたらすことです。▽沖縄の義母が、よく手作りの食べ物を送ってくれます。塩分控えめの健康梅干しも送ってくれますが、塩分が少ないと傷みやすいので、酢を入れるなど工夫をしなければならないそうです。塩には腐敗を防ぐ効果があります。私たちクリスチャンも、この社会では人を押しのけ、神を神とせず、自分中心に生きることがまかり通っていても、私たちは神を崇め、愛をもって生き、この世を自己中心と腐敗を食い止める役割があります。

▽「光」も、暗闇の中ではわずかな光が役に立ちます。私は真っ暗な寝室で物を探す時、ライトをつけずに、スマホの画面を明るくして使います。スマホの懐中電灯機能を使わなくても、画面の明るさだけで物を見つけることができます。明るい場所ではほとんど変わらない光の強さでも、暗闇の中でははっきりと見分けることができます。同じように、私たちクリスチャンも、神様の光を反射して、ごく弱い光のようであっても、暗闇の中では役に立つことができます。クリスチャンの存在を通して、神様がおられることが知られ、神が働いておられることが分かります。

Ivar Leidus, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

あなたがたこそ地の塩・世の光

あなたがたは地の塩である/世の光である」という文は、ギリシャ語では「あなたがた」が強調されています[ii]。ニュアンスを表すなら、「あなたがたこそ、地の塩である」「あなたがたこそ、世の光である」となります。

直前の御言葉で、幸いの「どんでん返し」が宣言されました。この世では不幸と見なされる「こころの貧しい人」「悲しむ人」が幸いな者とされます。自分の力に頼らずに、ただ神を待ち望む「柔和な者」が幸いとされます。ここに、この世の論理とは正反対の、聖書の世界観があります。己の力で這い上がり、他人を蹴落とし、勝利をつかむのとは正反対の姿です。▽そのようなあなたがたの姿こそ、神が生きて働いておられるしるしなのだと言われます。この地上では、争いと競争、不正がはびこる中で、あわれみと平和を求め、義と聖さに生きるあなたがたの存在こそ、神が今も働いておられることのしるしなのだ、と主イエスは教えておられます。

目立つ証しをする必要はありません。神様が召して下さった恵みの立場に立ち続けることが、「そのようなあなたがたこそ、地の塩・世の光なのだ」と言われます。

信仰の生き方によって証しする

マタイ5:3-10の幸いの教えは、前半では「信仰」の姿勢が、後半では「愛」の生き方が述べられているように見えます。ここから「地の塩・世の光」として、「信仰を表すこと」「愛に生きること」の二つをお話しします。

ジョージ・ミュラー

私が信仰をもった初めの頃に、大きな影響を受けた人物に、19世紀のイギリスで孤児院を経営した牧師のジョージ・ミュラーがいます。孤児院は最終的に2000人を収容するまでに拡大し、彼の生涯で1万人以上の孤児を育てました。その間、彼は寄付を訴えることはせず、ただ自発的な献金と神の供給に頼る、いわゆるFaith-mission信仰による宣教の方法を取りました。最初の10年間は常に厳しい財政状態でしたが、孤児たちが食事に欠くことは一日もなかったそうです。

ジョージ・ミュラー牧師

彼が孤児院を始めたのは、神が生きておられる純粋に証しのためでした。彼は次のように記しています。

「私はあるクリスチャンたちが、年老いて働けなくなったら、救貧院に行かなければならないと恐れて悩まされることを知った。もし私が彼らに、天の父はいつもご自身に信頼する者を助けてくださると語ったなら、彼らは『時代が違う』と答えはしないかもしれないが、彼らが神を生ける神として見ていないことは明らかだった。このことで、私の霊は打ちひしがれることがしばしばあった。」

「もう一つの私の関心は、仕事に就いている兄弟たちであった。彼らはこの世の方法と同じやり方で仕事を行なうことに、良心に責めを覚えていた。商売敵との競争や不景気といった状況の中で、聖書に従ってビジネスをして、みすみす失敗するわけにはいかない、と考えるのである。彼らは環境を変えたいと望むが、良心に従うため神の側に立ち、生ける神を信頼し、より頼んでいる兄弟たちは、ほとんどなかった。こういった人々にも、神がご自身により頼む者を捨てられないということを、目に見える証拠で示したいと願っていたのである。

「私は神のことばである聖書から、神がご自身により頼む者を助けたいと願っておられ、実際に助けることができるという例を示したかった。…もし貧乏な私が、祈りと信仰のみによってだれにも求めずに孤児の家を設立し運営する資金を得るとすれば、そのことによって未信者の心に神のリアリティを証しすることができる。…これが孤児の家を設立する第一の理由である。

私は確かに、両親をなくしたかわいそうな子供たちの面倒を見、助けるために神に用いられたいと心から願って…いた。特に、愛する孤児たちが神を恐れる生き方をするよう心から願っていた。しかしそれでもなお、その事業の第一の目的は、孤児たちがただ祈りと信仰のみによって――私や私の同労者たちが、人に援助を求めたからではなく――すべての必要を備えられているという事実、そしてその事実により、神が今もなお忠実であられ、今もなお祈りを聞いてくださるお方であることを悟って、神があがめられることであった。[iii]

【適用】私たち一人一人が、ジョージ・ミュラーのような巨大な働きをする必要はありません。しかし、彼が証ししたいと思っていたように、私たちもこの世で信仰をもって生きることができます。▼冒頭の高齢者施設の職員の方は、仕事の中で一生懸命対応しても、どうにもならない状況に直面した時に、「祈ってもいいですか」と提案して、神様により頼む生き方を表されました。その姿は、お互いの信仰の励ましとなります。▼ご高齢の信仰の先輩たちが、入院することがあった時にも御言葉に立ち続けて、お祈りを求めて下さり、体力が衰えても、体調を整えて、毎週の礼拝を楽しみに休むことなく来られている、その信仰の姿に絶えず励ましを頂いています。

特別なこと、大きなことでなくても、私たちが神様の恵みにより頼んで生活しておられる時、主は言われます。「あなたがたこそ、この地上で信仰の塩気を保つために備えられた地の塩です」と言われます。「あなたがたこそ、神が今も生きておられるという真理を示す世の光なのです」と。

◆愛の生き方によって証しする

私たちが、すでに「地の塩・世の光」であるもう一つのことは、「愛に生きる」ことです。

マザー・テレサは、日本に来られた時に、彼女が仕えるインドの物質的な貧しさとは違う、日本の「心の貧しさ」を指摘しました。

「貧しい者は、パンに飢える人や路上生活者だけではありません。豊かさの中にあっても、愛に飢える人、社会から見捨てられる人はもっと貧しいのです。食べ物がないことから起こる飢えは、ある意味ではずっと取り除くのがやさしいものです。それよりももっと困難なのは、精神的な飢え、愛の渇き、心の飢えの方です。…愛は最も身近な人から始まります。」[iv]

「私たちの最も近いところといえば、それは日常生活の場である家庭であり、職場であり、学校です。そこで本当の意味で大切にされていない人がいるかもしれません。家庭でご主人は自分の本当のことを奥さんから理解されないで苦しんでいるかもしれません。反対に奥さんは、ご主人から自分の望みを分かってもらえないで悲しんでいるかもしれません。

子供たちも、ご両親から若者の心が理解されないでふさぎ込んでいるかれ知れません。ご両親は、こんなにも子供たちを愛しているのに分かってもらえないと嘆いているかも知れません。お年寄りは若い人から、若い人はお年寄りから理解されないで、互いに孤独でいるかも知れません。病人は健康な人から、健康な人は病人から、互いの心が分からずに苦しんでいるかも知れません。職場で同僚の一人が目上の人から誤解され、同僚からも理解されずに苦しんでいるかも知れません。学校で語り合う友だちがなくて、校庭の片隅にたたずんでいる者がいるかも知れません。私たちの最も近いところに大切にされることを待っている人がい るかも知れません。愛はそのようなところから始まるのです。」[v]

マザー・テレサ © 1986 Túrelio (via Wikimedia-Commons), 1986

ヨハネ13:34-35  34わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。35互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

互いに愛し合うことによって、主が私たちと共におられることを、すべての人が知るようになるのです。

【適用】私たちに求められていることは、マザー・テレサのような大事業ではありません。マザー・テレサ自身のモットーは「小さなことを大きな愛をもって」でした。大きな事業をしようとしたのではなく、一人の人にキリストに向かうような最高の愛をもって向き合ったのでした。▼私たちも、身近な人との交わりの中で、一人一人に心を向けたいと思います。そのような愛の中に、愛を通して、主はご自身の愛とご臨在を現してくださいます。

まとめ

塩は、少量で料理全体の味を整えてくれます。暗闇の中で物を見つけるためには、わずかな光が役に立ちます。私たちは神のものとされて、神様が私たちと共にいて、私たちのために働いていて下さいます。私たちは乏しくても、主イエスは、「あなたがたこそ、地の塩です・世の光です」と言ってくださいます。主と結ばれたアイデンティティを失うことなく、神の恵みの光を隠すことなく、この世にあって、主を信じ、愛をもって歩んでまいりましょう。

 


 

[i] この箇所はしっかりとした構造を持ちます。最初の3節と最後の10節は、後半が同じ「天国は彼らのものである」となっており、全体を囲い込み、「天の御国(神の支配)」のテーマを据えています。さらに、4-9節の後半は、未来形の約束になっているのに対し、3節と10節の後半は、現在形です。「天の御国」の「今すでに」与えられている恵みと、「やがて」与えられる恵みが述べられています。

[ii] ギリシャ語では「あなたがた」という単語なしでも、格変化にもその意味が含まれるが、「あなたがた」という単語が含まれることで、強調の意味が含まれる。

[iii] ジョージ・ミュラー「ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣」I 孤児の事業の始まりと初期の日々

[iv] https://piloti.sophia.ac.jp/assets/uploads/2023/02/websophia_007.pdf?redirect=1

[v] https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/mother/shirayanagi/