マルコ10:46-52「何をしてほしいのですか」
2024年10月27日(日)礼拝メッセージ
聖書 マルコ10:46-52、詩篇126:1-6
説教 「何をしてほしいのですか」
メッセージ 堀部 里子 牧師
そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
マルコ10:46-52
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
詩篇126:5-6
十字架の死を前にして
イエス様が十字架に架かる日がどんどん近づいてきました。十字架を目指して、イエス様と弟子たちはエルサレムに向かっていました。
イエス様の十字架の死は、個人的な死でなく、全ての人類の罪の身代わりの死でした。死をもって死に打ち勝ち、復活して命を与えるため、自分の十字架に向かって一直線に進まれたのです。
マルコの福音書8章から10章の段落で、イエス様は弟子たちに三回の受難の予告をされましたが、弟子たちはイエス様の言葉が理解できず、誰が一番偉いかなどに関心を持っていました。また8章の最初と10章の最後にはそれぞれ盲人の目を癒され、見えるようにされました。
今日は10章に登場する男性、バルティマイの記事から共に見ていきたいと思います。バルティマイという男性は、目は見えませんでしたが、弟子たちには見えていないイエス様の姿を捉えている人物でした。私たちはどのようにイエス様を認識しているでしょうか。
バルティマイの切実な叫び
「それから、彼らはエリコにきた。そして、イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。」(マルコ10:46)
エリコはエルサレムに上って行く最後の経由地です。バルティマイは、物乞いでした。大勢の人々が集まっていて普段と違う雰囲気があることを感じていたはずです。ルカの福音書には「群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた」(ルカ18:36)とあります。「ナザレのイエスがお通りなのだ」と知らされると、叫び始めました。「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(マルコ10:47)。
不思議なことにバルティマイは、「ナザレ人、イエス様!」でなく「ダビデの子のイエスよ」と呼び求めています。「ダビデの子」という呼称は、キリストに関する重大な証言です。ユダヤ人は、Ⅱサムエル記7章に登場するナタンの預言を信じていて、神がダビデの子孫を通してイスラエルをとこしえに治めると考えていました。ですから、バルティマイが「ダビデの子のイエスよ」と呼んだことは、イエス様こそ旧約聖書で預言されたダビデの子・メシアであるという告白なのです。バルティマイにとっては、イエス様はただの「ナザレ人イエス」でなく、「預言されていたダビデの子であり、確かに救い主」であったのです。
なぜ目の見えないバルティマイが、イエス様を救い主だと即座に分かったのでしょうか。その答えを聖書は記していませんが、私は彼がずっと救い主を切に待ち望んでいたからだと思います。老年を迎えていたシメオンとアンナが神殿で赤ちゃんのイエス様と出会った時、すぐに待ち望んでいた救い主だと分かったように、真に救い主を待ち望んでいる人には分かるのだと思います。
道端で物乞いをするしかないバルティマイが叫び出したことは、人々にとってはうるさい存在でしかなかったようです。
多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。(マルコ10:48)
誰もバルティマイのことを気にしてくれない中、彼の叫びはイエス様の耳に届きました。イエス様は立ち止まって、「彼を呼べ」(マルコ10:49)とおっしゃいました。バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた」(マルコ10:50)とあります。このチャンスを逃してはいけないと、なりふり構わず、ありったけの声と力を振り絞って叫んだ結果、イエス様の足を止めたのです。バルティマイにとってイエス様との出会いは単なる偶然でなく、長い間切望していた時でした。だからこそ名前を聞いた瞬間、彼は叫んだのです。いえ、「あわれんでください、こんな私に心をとめてください」と叫ぶしかなかったのです。チャンスはバルティマイのように、切望して待つ人に与えられる神様からのプレゼントではないでしょうか。
「上着を脱ぎ捨て」と書かれていますが、物乞いであるバルティマイにとって「上着」は全財産に等しいものでした。昼は着て、夜はかぶる布団代わりの服であり、金品を恵んでもらうために道端に敷く仕事道具でもあります。そんな大切な上着を脱ぎ捨てて、イエス様のところに行きました。同じマルコ10章に、金持ちの青年が財産を諦めきれず、悲しみながら立ち去った様子とは対照的です。あなたが切実な心でイエス様の名前を呼んで、求めたいことは何でしょうか。
バルティマイの救いと癒し
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マルコ10:51-52)
イエス様はバルティマイに「何をしてほしいのですか」と聞きましたが、36節で弟子のヤコブとヨハネにも同じ質問をされています。弟子の二人はイエス様の左右に座る栄誉を求めました。しかし、バルティマイの願いは、ただ目が見えるようになることでした。目が見えないことでどれほど大変な日々を送って来たのかが分かる答えです。私たちの肉眼の目は見えているようで見えていないこともあるのではないでしょうか。
聖書には「見る」という言葉が多く使われています。見ることは、目で物の存在や形をとらえて認識するだけでなく、理解するとか、物事を判断するという見る以上のことも含まれています。また聖書で「神を見る」という表現がされるとき、実際に神様を目で見るというより、「分かる」とか「経験する」の意味合いがあります。「神様が見えない時」は何が見えなくしているのでしょうか。
エマオ途上の弟子たちの目
ルカ24章13節以下に、二人に弟子たちがエマオという村に向かって歩いていた時のことが記されています。「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」(ルカ24:15-16)
弟子の二人が話していた内容は、イエス様が十字架にかけられて死んだということでした。大きな不安、心配、戸惑いや怒り、つぶやきが心にあり、彼らの目がさえぎられていて、一緒に歩いてくださっているイエス様に気づかずにいたのです。また、律法学者たちやユダヤ人の指導者たちの目もさえぎられていて、神であるイエス様を認識できていませんでした。彼らの心には「イエスが救い主であるはずがない」という先入観、傲慢さ、自分の正しさが絶対であるという考えがありました。罪が人間の目をさえぎって神様を見えなく、分からなくしてしまうのです。
迫害者サウロの目
迫害者サウロが突然、天からの光に照らされてイエス様の声を聞いた時、彼は三日間目が見えなくなりました(使徒9:3-9)。しかし、アナニアのところに行き、祈ってもらうとサウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになりました(使徒9:18)。サウロの目を見えなくされたのも、見えるようにされたのも主ご自身でした。サウロは選びの器としてこれから通る苦しみの前に、聖霊に満たされるために強制的に目が見えなくなりました。サウロの目から「鱗のような物」が落ちると、サウロはもはや迫害者でなく、神の器として劇的な変化を遂げていました。目が見えなくなった時、サウロは取り扱われ、大きな悔い改めに導かれました。
目が開かれるために
目が開かれるために、人間の側と神様の側の両方の働きが必要ではないでしょうか。バルティマイから学ぶことは、彼はチャンスを逃しませんでした。機会を捉え、自分の願いを大声で謙遜に「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(マルコ10:47)とイエス様に叫び求めました。イエス様のところに行けば、私の持っている問題が解決されると信頼を置いたのです。
実際にイエス様は求めに応えてくださいました。弟子たちや群衆はバルティマイを追い払おうとしましたが、イエス様は彼を近くに呼び寄せられました。そして「わたしに何をしてほしいのですか」と直接聞きました。バルティマイは「お金です」と言わず、根本的な問題を申し述べたのです。道端で物乞いをしているのですから、お金を求めるのが普通だと思います。先日、教会に電話がありお金を送金して欲しいと求められました。「お金をすぐに送ることは難しいですね」と答えたら、すぐに電話を切られてしまいました。お金があれば解決される問題ではありませんでした。もっと根本的なことがあったはずです。一緒にお祈りすることもできませんでした。残念です。
願いと共に信仰があるか
イエス様は私たちにも質問をされます。「わたしに何をしてほしいのか」と。言わなくても私の心の願いをご存知の方ですが、敢えて確かめることをイエス様はなさいます。そして私たちの心にイエス様に信頼する心、信仰があるかをご覧になります。バルティマイが「先生、見えるようになることです」と言った後、イエス様は「行け、あなたの信仰があなたを救った」(マルコ10:52)と宣言されました。求める私たちの内に、からし種一粒ほどの信仰があるかをイエス様は知りたいのです。バルティマイの目が癒され、イエス様が見えた時、彼は誰からも言われていないのにイエス様に弟子としてついて行く決心をしました。「イエスに従って行った」(マルコ10:52)。
バルティマイの叫びは、自分ではどうすることもできないという絶望の告白であり、しかし神は癒し救ってくださるのだと信じた希望の叫びでした。
去年知り合ったクリスチャンの方で、目が見えない方がいますが、最初お会いした時、目が見えないとは信じられませんでした。介護施設でてきぱきと働いておられたからです。私がびっくりしたことを伝えると「慣れている職場なので」とおっしゃいました。メールのやり取りなどは、音声で読み上げてくれるアプリを入れているそうです。見えたらいいなと思うこともあるのではと勝手に私は思ってしまいましたが、彼女は「イエス様が私の目になってくださっています」とさらっと言い切りました。彼女の信仰がそうさせているのだと確信しました。
主ご自身が私の弱さや足りなさ、問題を解決に向けて動かして下さる方だと信じ、イエス様が歩まれた道を私たちも喜んで歩めますように。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5-6)