マルコ13:1-8「目を覚ましていなさい」
2024年11月17日(日)礼拝メッセージ
聖書 マルコ13:1-8
説教 「目を覚ましていなさい」
メッセージ 堀部 舜 牧師
1イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。2イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
3またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。5そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。6多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。7また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。8民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
マルコ13:1-8
【召天者記念礼拝】 先週は、召天者記念礼拝でした。イエス様の憐れみを覚えて、ひと時を共にできたこと、感謝でした。
【教会暦】 11月は、教会暦では一年の最後に当たりますが、主の再臨と復活の希望を覚える季節です。▼世の終わりについて覚える時、両極端に注意する必要があります。あらゆる時代にあったことですが、一方では、再臨を待ち望むことが行き過ぎて、熱狂的な極端に走ってしまうことがあります。もう一方では、そうした熱狂に対する反発から冷めた目で見て、聖書的な再臨の重要性を見落として、大きなビジョンを失って今の世界に流されてしまうことがあります。▼新約聖書の中でも、再臨についての誤解から怠惰な生活になってしまったクリスチャンがいました。しかし、パウロが教え・実践したことは、復活の希望に「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励」むことでした。健全な聖書理解に立って、再臨の希望を抱いて日々の信仰生活に励むことを目指したいと願います。
再臨信仰の意義と逸脱
再臨の問題というと、偽キリストのような異端の団体をまず思い浮かべるかもしれませんが、それだけではなりません。比較的身近なところでは、1917年頃から内村鑑三やホーリネス教会の中田重治らを中心に、超教派の再臨運動が起こりました。▼今日はまず、この再臨運動を通して、再臨信仰の「意義」と「逸脱の危険性」に触れたいと思います。この再臨運動は、まもなく1919年と1930年のホーリネス・リバイバルの火種となります
(1)聖書の権威を認めない、当時の極端な破壊的神学<高等批評>に対して、ホーリネス教会は、聖書の権威を認める福音的な教えによって、庶民の間に爆発的に広まりました。罪深い生活から立ち直ったという多くの人々の証しがあります。神の主権と憐れみを信じる生き生きとした再臨信仰は、信仰生活に活力を与えました。
(2)一方で、そこには熱狂的な行き過ぎがあり、再臨が来るので神学書を焼き捨てたり、「再臨がすでに来た」と言ったり、自称メシアが現れたり、といったことが起こりました。[①]
(3)さらに、再臨に関する立場の相違が先鋭化し、1933年にホーリネス教会は分裂します。当時双方の和解の任に当たった神学者渡辺善太は、後に「(当時のホーリネス教会には)宗教体験と熱心があったが、神学がなかったのが欠陥であった」と述べました[②]。神学的土台が弱い再臨運動は、混乱を招く危険があります。
(4)ホーリネス教会は、1942年に弾圧を受け、100名以上が逮捕され、数名が殉教しました。これは純粋に信仰に関する弾圧で、その中心的な焦点は再臨信仰にありました。ある裁判での検事の言葉です。
「日本ホーリネス教会の会則に『キリストが栄光のかたちをもって再臨し』とあります。…このようにキリストが目に見える現実観をもって再臨し、この地上に千年王国を実現して、日本を含む地上一切の国家の固有にして絶対の統治権は失われ倒れるほかなく、キリストの統治に服するに至るとなすものとすれば、それは恐れ多くも万世一系の天皇の大日本帝国のご統治が千年王国の実現に際して廃止せられるべしとする説であることは明らかである。このような再臨説を含むホーリネス教会の教理は、当然国体を否定するものなのであります。」[③]
このように、再臨にかかわる信仰告白が、弾圧の対象となりました。
菅野鋭牧師の調書
聖書学院の教授であった菅野鋭(すげのとし)牧師の調書の中に、次のようなやり取りの記録があるそうです。
係官:菅野は元日本聖教会の幹部であり、按手礼試験委員長をつとめたとあるが、その通りか。
菅野:その通りです。
係官:そうだとすれば、日本聖教会の教義信条に対して忠実に信奉していたと思うが、どうか。
菅野:それに相違ありません。
係官:君が言う通りだとして、信条の根拠 旧新約聖書を読むと、凡ての人間は罪人だと書いてあるがそれに相違ないか。
菅野:それに相違ありません。
係官:では聞くが天皇陛下も罪人なのか。
菅野:国民として天皇陛下のことを云々することは畏れ多いことですが、ご質問にこたえます。天皇陛下が人間であられる限り、罪人であることを免れません。
係官:そうすると聖書の中には罪びとはイエス・キリストによる十字架の贖罪なしには救われないと書いてあるが、天皇陛下が罪人なら天皇陛下にもイエス・キリストの贖罪が必要だという意味か。
菅野:畏れ多い話でありますが、先ほど申し上げましたとおり、天皇陛下が人間であられる限り、救われるためにはイエス・キリストの贖罪が必要であると信じます。
検事は「(菅野牧師の)信仰は頑固であり、到底改宗の見込みは望めない」と報告しています。菅野牧師は約1年半の獄中生活で結核が再発し、獄中で亡くなります。▼菅野牧師は、やがて神のさばきの座の前に立つことを覚えて、苦しい獄中生活でも信仰の節を曲げなかったのではないでしょうか。再臨信仰は、試練の中での信仰の防波堤のように感じます。
ここまで、再臨運動にまつわるエピソードを通して、再臨信仰が、この地上での生き方に命を吹き込み、逆境の中でも筋の通った責任ある生き方をなさしめること、そして、バランスを欠いた教えが大きな混乱を招く危険性と、神学の重要性について、お話ししました。
聖書の背景
今日の聖書の箇所は、マルコ13章の長い教えの冒頭です。聖書の流れを見ますと、受難週に主イエスが神殿から商売人を追い出し、宗教指導者たちが反発して激しい論争が続きます。▼こうした神殿にかかわる論争の中で、13章で、神殿の破壊を予言されます。この神殿の破壊は主イエスの時代の約40年後に文字通り実現します。
エルサレム神殿(ヘロデ神殿)
1イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
主イエスの時代の神殿は、ヘロデ大王が始めた大改修が続く、非常に美しい神殿でした。ヘロデ大王は、神殿建築によって自分の名声を永遠に残そうとしたと言われます。神殿は、非常に大きく美しい切り石で作られ、中央部は約50mの高さを誇り、金で覆われ、「ヘロデ神殿を見たことのない者は、生涯美しい建物を見たことがない」とまで言われました。▼弟子たちは、主イエスと共に何度もエルサレムを訪ねて、神殿を見ていたと思います。この弟子は、非常に美しい神殿を、イスラエル人の誇りと感じていただろうと思います。
神殿破壊の予言
しかし、主イエスは弟子に答えます。
2イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
この言葉は、約40年後に文字通り実現します。ユダヤ戦争でエルサレムは占領され、神殿は火で焼かれます。金が溶けて石と石の間に入り込み、ローマ兵は全ての石を動かして、金を略奪したようです。1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは、全ての石が平らにされて、人が住んでいたとは分からないほどにされた、と述べています。ここに、神の怒りの激しさと、主イエスの予言の言葉の確かさ、御言葉を実現する神の力の強さを感じます。
ユダヤの人々にとって、エルサレム神殿は、神の民のアイデンティティであり、誇りでした。神殿の破壊の予告は、主イエスの弟子たちにとっても、福音書を読む最初の読者にとっても、非常に大きな衝撃でした。
神殿破壊についての質問
この言葉を聞いていた弟子たちの幾人かは、ひそかに主イエスに尋ねます。
3またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
この質問への答えが、13章全体です。オリーブ山で行われたので、オリーブ山講話とも呼ばれます。弟子たちの質問は、「神殿の破壊の予告」から出た質問で、その「時」と「しるし」を尋ねています。続く主イエスの教えは、一部は再臨を含む「世界の終わり」に触れますが、大部分が「紀元70年の神殿崩壊」の予告です。▼主イエスはこれを、神殿の見えるオリーブ山で、「神殿に向かって」語られました。[④]
オリーブ山講話の概要
13章全体の教えの流れを見ていきたいと思います。
5-8節:神殿崩壊前の予兆
5そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。6多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。7また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。8民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
5-6節で、「偽預言者・偽キリストに惑わされないように」、7節では「戦争が起こってもうろたえる」な、8節では、「国々の争い」「地震」「飢饉」について述べられます。▼これらの出来事は、しばしば「再臨が近いしるし」だと言われることがあります。しかし、主イエスは7節で「それは起らねばならないが、まだ終りではない」とあります。これは、「再臨のしるし」ではないのです。これらは、すべて、紀元70年の神殿崩壊に先立つ出来事です。
9-13節:迫害
続く9節以下には、弟子たちに対する迫害が予告されます。
9あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。10こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。…13また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
これは、主イエスの最初の弟子たちが経験した迫害です。
14-23節:ユダヤ戦争
14荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
14節以下で、「山へ逃げよ」と言われているのは、ユダヤ人とローマ帝国の間で起きたユダヤ戦争に関する戒めです。この戦争で、多くのユダヤ人が犠牲になりましたが、主イエスのこの言葉を知っていた多くのクリスチャンは、エルサレムから離れて助かったと言われています。▼「荒らす憎むべきもの」とは、ローマに反乱を起こした熱心党が、神殿を占拠して犯罪者を聖所に入れ、神殿内で人を殺したこととを指すのかもしれません。主イエスを十字架に架けた、ユダヤ人の背きが、そこで頂点に達したといえます。
24-27節:神殿破壊?世の終わり?
24その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、25星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
24-27節には、太陽が暗くなり、星が落ちると記されています。これは、「世界の終わり」を指すのか、「神殿破壊」を指すのか、意見が分かれます。▼旧約聖書では、同様の表現が、バビロンやエジプトやエドムの裁きに用いられており[⑤]、ここでは、イスラエルに対する裁き(神殿破壊)を意味するのかもしれません。▽当時、神殿は宇宙の中心と考えられていたので、神殿破壊によって天全体が揺るがされることを描写した表現かもしれません。▼あるいは、世界の終わりに宇宙全体が造り変えられる出来事や、その背後にある霊的な力について言われたのかもしれません。しかし、マルコ13章の文脈や旧約聖書の引用元の文脈を踏まえれば、神殿破壊を指すと考えるのが自然のようにも思います。[⑥]
32-35節:目を覚ましていなさい
33気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。…35だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、…わからないからである。…37目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。
32-35節では、「目を覚ましていなさい」というキーワードで、一連の教えが締めくくられます。「その日、その時」とは、世の終りを指す用語で、本来、再臨に関する教えであったものが、神殿破壊の文脈に置かれたように思われます。
マルコ13章のまとめ
マルコ13章の流れを振り返ると、神殿破壊の予告の文脈の中で、戦争や地震や飢饉の後に、弟子たちが直面する迫害と福音宣教の働きが予告され、忍耐強く耐え忍ぶことを教えられました。そして、やがて来る神殿破壊とその予兆を予告し、その戦争の破滅からまぬがれるように教えられました。▼こうした一連の教えは、私たちの人生にどのようにかかわるでしょうか。
目を覚ましていなさい
神殿
神殿の破壊は、当時の信仰者たちにとって、非常に大きな出来事でした。神殿が破壊されていなければ、今も動物のいけにえが捧げられ、神殿での礼拝や巡礼が行われていたでしょう。神殿がなくなった時、神殿中心であったユダヤ教は、大きく形を変えました。
神殿は、神がそこに臨在される所でした。しかし、主イエスは神がご自分のうちにおられると教え、ご自分を「まことの神殿」、「神殿よりも偉大な者」として示されました。▼「神が私たちの間に住まわれる」ことは、やがて来る再臨の時に、この世界が全く新しくされ、天と地が一つとなる時に、完成します。▽それまでの間、聖霊が私たちの内に住まわれて、私たちの肉体が神の神殿となることを、聖書は教えています。それは、ある意味で、私たちの内にすでに神の国が到来し始めていることを意味しています。私たちは、この地上で・この肉体にあって、聖霊に導かれて、神の国のために仕えてまいりましょう。
肉体の復活と日々の歩み
神学者のN.T.ライトが、世の終わりの身体の復活の希望について、次のように述べています。
「あなたが現在行うこと、たとえば絵を描く、説教する、歌う、縫物をする、祈る、教える、病院を建てる、井戸を掘る、正義のために訴える、詩を書く、困っている人を助ける、隣人を自分自身のように愛するなどは、すべて、神の将来にまで残るのである。」[⑦]
やがて来る「再臨」と「身体の復活」、「新しい天と地」の約束とは、この地上の人生から遊離した世界ではありません。むしろ、朽ちるべきこの肉体がよみがえらされ、私たちのなしている一つ一つの働きが無駄にはならず、神はそのすべてを用いて、神の義が支配する新しい世界をもたらして下さるのだと、ライトは教えています。だから、私たちの内に住む聖霊によって既にもたらされている神の国のために、私たちは「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」と勧められています。
1コリント15:58「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」
マルティン・ルターは、「明日、世界が滅びるとしても、私はリンゴの木を植える」と言ったと伝えられます。そのように、この地上でなしたことは、どのような形でかはわかりませんが、新しい天と地が来る時にも、その実は残るのだといいます。この肉体が復活するのなら、この肉体にあってなした働きの実りも、無意味ではないのです。
だから、私たちがこの地上でなすすべての愛のわざ――困っている隣人を助けること、子育てをしている方を助けること、といったすべての具体的な働き――は、決して無駄になることはありません。そのようにして、私たちは後の世にまで続く神の国のために働くのです。
三浦光世さん:「赦す」ということ
キリスト教小説家の三浦綾子さんの夫・光世さんは、物を大切にする方で、10年物の洋服を新品のように大切に来ていたそうです。ある時、クリーニングに出した光世さんのお気に入りのスーツが盗まれしまったことがありました。クリーニング屋は平謝りしますが、綾子さんの怒りは収まりません。帰宅した光世さんに、綾子さんは元気なく報告します。ところが光世さんは、お気に入りの背広が盗まれたと聞いて、落胆するどころかクリーニング屋に同情しました。
こうなるとおかしなもので、三浦の怒らないのがわたしには気に入らない。
「困るのは、クリーニング屋より、わたしの方よ、あなた。わたし弁償してくれって言ったのよ。でも、あんないい背広、戻って来ないわよ」
…三浦は…黙ってわたしの話を聞いていたが、わたしにこう言った。「馬鹿だねえ、綾子。そんなに文句を言うもんじゃない。黙って許してやることだよ」
「えっ? 黙って許すって。弁償もしてもらわないの」
「綾子、弁償なんて、無理なことを言うなよ。相手は小さなクリーニング屋さんなんだ。背広を弁償したら、その月は食うや食わずになるかも知れないよ」
「だってミコさん。只盗まれっぱなしでいいの。わたし、弁償してもらいます」寛容にも程があると、逆に三浦に腹を立てた。
「綾子、綾子は聖書を読んでいるか」
「ええ、読んでるわよ」
「聖書には何と書いてある。許してやれと書いてあるだろう。いいかい綾子、許すということは、相手が過失を犯した時でなければ、できないことなんだよ。何のあやまちも犯さないのに、許してやることはできないだろう。だから許してやりなさい。弁償せよなどと、決して言ってはいけないよ」[⑧]
【神の愛の完成】 神の国は、聖霊によって、すでに私たちの内に始まっています。私たちは、主イエスが教えられた神の国の原則に生きていきたいと願います。その時に、神の国の祝福が、地上で伝わり広がっていきます。▼私たちは、この地上にあって、神の愛を知り、そのうちに生きています。私たちの愛には、不完全さがあり、あやまちがあり、まっすぐでないこともあります。しかし、やがて主の再臨の時には、神と私たちの間にある隔てが取り除かれ、愛の神を顔と顔を合わせるように仰ぎ見て、主と似た姿に造り変えられ、完成されます。
12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
主の再臨は、神の愛が完全に現わされる時です。
33気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。34それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。35だから、目をさましていなさい。…37目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。
【祈り】
愛する主イエス様。私たちのために、住む所を備えて、再び来て下さることをありがとうございます。目を覚まして、あなたを待ち望む者とさせてください。聖霊の助けにより、あなたが教え・生きられたまことの愛の道に、生きることができますように。主イエスに似た者として、私たちを整えて下さり、「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励」む者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[①] 小出忍「ホーリネスの群 略史」p23-24, 小出忍「ホーリネスの群と教団の軌跡」p32、https://ja.wikipedia.org/wiki/ホーリネス・リバイバル (2024/11/16アクセス)
[②] 小出忍「ホーリネスの群 略史」p110
[③] 小出忍「ホーリネスの群 略史」p81-82 現代語に置き換えた。
[④] 主イエスより約600年前に起こったバビロニアによる神殿の破壊の時、預言者エゼキエルが当時の様子を記録しました。多くの幻が記されたエゼキエル書で、神の臨在を表す神の栄光が、当時の神殿に入り、また出て行く幻が記されています(エゼキエル10-11章)。▼マルコ福音書では、主イエスご自身が神殿を訪ね、13:1で神殿を去られます。神の栄光が離れていく様子を象徴しているとも言われます。
[⑤] バビロンの滅亡(Isa 13:10)、エジプトの滅亡(Ezek 32:7)、エドムの滅亡(Isa 34:4)、ヨエル2:10
[⑥] 26節の「人の子の来臨」の解釈については、引用元のダニエル書の文脈に従って、キリストが「人々の前」に現れる「再臨」ではなく、キリストが「神の前」に立つ「昇天と着座」を指すと考えることができます。▼27節は、旧約聖書で、バビロン捕囚で散らされた人々が、世界中からユダヤに帰還した預言の引用です。これも、全ての民族が主イエスのもとに集められる「教会の誕生」を指していると考えることができます。
[⑦] N.T.ライト「驚くべき希望」p315, 313-314,
[⑧] 三浦綾子「この土の器をも 道ありき 第二部 結婚篇」八