マルコ13:14-37「堅く立つために」
2023年12月3日(日)礼拝メッセージ
聖書 マルコ13:14-37,詩篇80:1-7
説教 「堅く立つために」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
30よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。 13:31天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
マルコ13:30-31
神よ、われらをもとに返し、
み顔の光を照してください。
そうすればわれらは救をえるでしょう。万軍の神よ、われらをもとに返し、
詩編80:3、7
われらの救われるため、み顔の光を照してください。
おはようございます。今日からアドベント(待降節)に入り、クランツのキャンドル一本に光が灯りました。四本目が点くとクリスマスを迎えます。デボーションガイドのアパ・ルームに「アドベントは可能性の季節です」と書いてありました。「可能性の季節」とは、ドキドキワクワクするような何かが起こるかもという期待があると思います。私たちは良い事が起こることを望みたいと思います。アドベントは、「クリスマスに向けての準備期間」ですがどのようなことを準備すればよいのでしょうか。
【ポインセチアの準備期間】
12月に入ってお花屋さんでポインセチアを見かけることが多くなってきましたが、ポインセチアが赤くなるための準備期間があります。以前務めていた教会ではとても大きなポインセチアが、アドベントになると飾られていました。でもクリスマスの時期が過ぎて役目が終わると外に出されて、「もったいないなぁ、また来年使えばいいのでは」と思っていました。でもある時、ポインセチアをそのまま放置していても、自然に赤くならないと知って「そうなのか!」とびっくりしました。ポインセチアを持ってきた方に聞くと、ポインセチアを赤くするための方法があるとのこと。その方法とは、「光の当たらない真暗な時間をポインセチアに提供してあげる」ということでした。赤くしたい葉っぱに覆いを被せて、毎日12時間以上真っ暗な時間を与えることを一ヶ月~一ヶ月半続けて初めて、ポインセチアの葉が段々赤く色付いてくるのだそうです。
ポインセチアにとっては、いきなり覆いをかけられ、暗い時期を過ごさなければないことは不本意かもしれませんが、この時期を通らないとビロードの真紅色が出てこないわけです。またポインセチアが持っている赤色を綺麗に引き出すための仕事を誰かがしてくれていることに感謝の気持ちでいっぱいです。
【アドベントと再臨の主を待ち望むこと】
さて、今日開かれた聖書の箇所ですが、クリスマスの記事でなく、先週に引き続いてイエス様の再臨に関する箇所となっています。カトリック教会などでは伝統的にアドベント第一礼拝では、主の再臨を待ち望む箇所が読まれるようです。「イエス様が来られることを待望する」という意味では同じですね。最初に来られたクリスマスを待ち望み、また来られる日を待ち望む、どちらも大切なことです。
神の子であるイエス様がなぜ来られたのかを先ず考えたいと思います。天の父なる神の元に留まらず、わざわざ地上に来てくださったのは父なる神様の御計画でした。それは救いの計画です。今日の聖書箇所を読むと、何かが起こる前のことが書かれています。その何かとは「終わりの日」のことです。
【終わりの日の裁きと救い】
近年、SDGsが叫ばれていますが、それは環境破壊による地球の寿命を憂いて、警笛を鳴らしているからではないでしょうか。聖書には命の始まりと終わりが記されています。終わりの日が来る前にどのようなことが起こるのかもはっきりと書かれています。
「そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(29-31)
「人の子が戸口まで近づいている」とは、イエス様が地上にもう一度来られる直前の時(再臨)を指しています。その時は裁きの時です。良いものは良い、悪いものは悪いと分けられる時です。同時に救いの時でもあります。また「これらのこと」が起こるとありますが、「これらのこと」は14節~28節のことを指しています。
「エルサレム神殿が崩壊する」(13:2)とイエス様はおっしゃいましたが、それはある日いきなり起こることではありませんでした。聖なる神殿が汚され、少しずつ内側から破壊されていて、遂に崩壊ということが誰の目にも明らかになることでした。
「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」(14)
当時のユダヤ人たちがこの言葉を聞いたら、彼らの脳裏に浮かぶ出来事があったようです。それはBC168年、セレウコス王朝のアンティオコス4世が神殿を冒涜した事件のことです。彼はヘレニズム化政策を推進していたのですが、それを拒否するユダヤ人たちの心を挫くために、神殿の中の祭壇にわざと彼らにとって異教の神であるゼウス神の祭壇を作り、その上にユダヤ人たちが汚れていると考える豚をいけにえとしてささげたのです。そのようにユダヤ人迫害の手が及ぶとき、「災いを避けて逃げなさい」とイエス様はおっしゃったのです。
「その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。」(19)
AD40年頃、ヘロデ・アグリッパの時代に、ローマ皇帝カリグラがエルサレム神殿の中に、自分の胸像を建てようと計画しました。ヘロデ・アグリッパはその計画を阻止するためにローマに向かいましたが、その途中で暗殺されてしまいました。すると、ローマに対するユダヤ人たちの反発がひどくなり、AD66年に反乱戦争が起こりました。4年後の70年にローマ軍がエルサレムを陥落させるために戦争を起こすきかっけになってしまいました。でも実際に神殿を汚した人々は、ユダヤの熱心党員たちだと言われています。彼らは神殿を占拠した後、人々が至聖所を踏みつけて、罪を犯すままにし、神殿内で殺人も起こりました。神殿を冒涜し、汚した者たちがユダヤ人の内部からでたのです。
15節~18節はエルサレムにさばきが望む時、非常に急いで逃げなければならないと警告しています。マカベアの反乱が起こった時も、町の中のすべてのものを置いて山に逃げたそうです。エゼキエル7:15-16には、「外にはつるぎがあり、内には疫病とききんがある。畑にいる者はつるぎに死に、町にいる者はききんと疫病に滅ぼされる。そのうちの、のがれる者は谷間のはとのように山々に行って、おのおの皆その罪のために悲しむ」とあります。イエス様が「この事が冬おこらぬように祈れ」(18)とおっしゃったのは、ユダや地方は冬に雨がたくさん降り、ヨルダン川がたびたび氾濫するため、逃げることが難しくなるためでした。19節を見るなら「エルサレムの滅亡に関する予告」を更に広くとらえています。「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまで」と。ということは、その後の歴史にも起こり得る災いも示唆しています。地上であらゆることが起こり、天体も揺れ動き、大変な状況が続いて終末(終わりの日)が近いとされる前兆がいろいろ起こりますが、それでも一筋の希望があります。
【希望の光の主の到来】
「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」(26-27)
イエス様は神殿が崩壊する予告をされつつも、御自分がもう一度来られる時、散らばった民を集め、新しいイスラエルが始まることを示唆しました。ユダヤ人にとって、神殿は常に彼らの心の中心でした。彼らの心の象徴であるエルサレムの神殿は崩壊しても、イエス様ご自身が新しい神殿として歩むのだということを語ってくださっています。
イエス様の預言を聞いて喜んだ人は誰もいませんでした。でもイエス様は必ず起こることをおっしゃっいました。私たちはその日のためにどう備え、準備しなければならないのでしょうか。
【終わりの日に備える】
災いの前兆の後、激しい苦難が訪れます。混乱状態です。信仰を失わないことです。
そのために大切なことの一つ目が祈りです(18)。私たちにできることは自分の限界と弱さを知り、神に祈ることです。そして二つ目に惑わされることがないようにしなければなりません(21)。人間の経験や不思議なわざなどに心を持って行かれないことです。そして三つ目の必要なことは、イエス様の再臨に対する希望を失わないことです。苦難の日にイエス様の再臨が予告されています(26)。その日は苦難の只中ににあって、神の国と救いの完成が成される日(27)でもあります。迫りくる苦難に恐れと虚無感に陥るのでなく、栄光に満ちた時が訪れるために、今の時を忠実に過ごす神のしもべとして生きたいと思います。
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(Ⅰヨハネ4:9-10)
【本当のクリスマスを】
先日、予防接種のために近くのクリニックに行きました。そしたら、子どもの絵本コーナーから、一人のお母さんが子どもに絵本の読み聞かせをしている声が聞こえてきました。「クリスマスの絵本を読むよー。クリスマスは何の日だと思う?サンタさんがプレゼントを持って来る日だよ。」このお母さんの言葉は、一般的な日本人の親がクリスマスが何の日かを子どもに説明する普通の言い回しではないかと思いました。もしクリスマスがイエス・キリストの誕生日だと知っていても、きちんとその事実を子どもに伝えられる親はどのくらいいるのだろうと思いました。先日のニュースでフィンランドからサンタクロースがやってきたと話題になっていましたが、本当のクリスマスは、サンタさんがプレゼントを持ってくる日でなく、天の神様がイエス様を地上に誕生させたことをお祝いする日です。星や光は暗い世の中に来てくださった光であるイエス・キリストを現しています。
【ドイツでの経験から】
私が高校三年生の時、ドイツ留学をしていた際のエピソードです。当時私は、ドイツのギムナジウム(高校)では学年を二つ落として一年生のクラスに入りました。ドイツ語力ほぼ0で渡独してしまったので、学校で授業にもついて行けず、友だちもいませんでした。学校の休み時間はいつも一人で過ごしました。最初の内は学校内を探検したのですが、探検し尽くすとすることがなく、トイレに行ったらぽつんと孤独に立っていました。その日々が続いていたある日のことです。留学団体のカウンセラーが家庭訪問に来ました。ホストファミリーのお母さんとお姉さんが同席していました。カウンセラーが私に英語で質問をしました。「何か困っていることない?」私は「いいえ、ありません。学校も楽しいし、ホストファミリーも良い人たちです。」と答えました。すると彼女は私のホストシスターに向かってドイツ語で「里子は学校でどんな感じかな?」と聞いたのです。するとホストシスターは「里子は休み時間にはいつも一人でいるよ。」と答えたのです。なぜかその時、私は「里子、休み時間、一人」というドイツ語の単語が理解できてしまったのです。その瞬間、私の中で何かがガシャンガシャンと大きな音を立てて崩れていくのが分かりました。一生懸命平静を保っていましたが、自分で隠していた自分自身の深い内面が暴かれた気がして、恥ずかしくて心では大声で泣いていました。日本では明るい性格で友だちもたくさんいたのに、ドイツに来て友だちもいなく、自分の孤独が露わにされた途端、私の心に押し込めていた感情が寂しさと一緒に溢れ出て来ました。どうにかその場を乗り切り、カウンセラーが帰るのを見届けると、一目散に自分の部屋に駆け込み、枕に顔をうずめ、声を押し殺してこれでもかというほどに泣きました。ホストマザーがすべてを察してドアをノックして入って来ました。そして彼女は何も言わず、ただ私を抱きしめてくれたのです。そして彼女はこう言いました。「私たちがあなたの友だちだよ。独りじゃないから大丈夫。学校からいつもこの家族に戻っておいで。あなたが寂しい時、嬉しい時、いつも一緒にいるから」クリスチャンのホストファミリーの方々は私に無償の愛をいつも現してくれました。私は洗礼を受けたクリスチャンでしたが、それまで自分の本心からお祈りをしたことがあまりありませんでした。しかし、留学中は祈らずにはおれませんでした。私たちが孤独を感じる時、助けが必要な時、共に歩む人が必要です。
イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました(ヨハネ15:15)。そして友のために御自分のいのちを捨てて愛を示してくださったのです(同15:13)。イエス様の別名は「インマヌエル・神が私たちとともにおられる」(マタイ1:23)です。このイエス様が私たちと共におられることによって、堅く立つことができることを感謝したいと思います。戦争や災害が起こっている世界の混乱の中で、私たちは祈りの火を消すことなく、惑わされずに、回復と救いと希望の主であるキリストを待ち望みながらアドベントを過ごして行きたいと思います。皆さまの上に今週の豊かに主の祝福が注がれますように。
「万軍の神よ、われらをもとに返し、われらの救われるため、み顔の光を照してください。」(詩篇80:7)