マルコ4:35-41「どうして怖がるのですか」

2024年6月23日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ4:35-41
説教 「いったいこの方はどなたなのだろう
メッセージ 堀部 舜 牧師

レンブラント「嵐のガリラヤ湖のキリスト」1633

【今週の聖書箇所】

35さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。37すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。38ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。39イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。40イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。41彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。

マルコ4:35-41

例話:試練の中で神の力を経験する

最近、三浦綾子さんの「愛の鬼才」という作品を読んでいます。北海道で活躍したクリスチャン実業家の西村久蔵という人物の伝記小説で、三浦綾子が受洗した時期に、毎日のように病床の彼女を見舞って聖書を教えた人物です。

(三浦綾子「愛の鬼才」第4章に基づき、筆者がまとめ直した。)

久蔵は18才で洗礼を受けましたが、キリスト教への偏見が強い時代でした。久蔵は自分の信仰を隠しませんでしたが、祖父の西村真明は儒教学者であり大のキリスト教嫌いだったので、洗礼を受けたことを決して明かしてはならないと父に命じられました。

受洗の2年後に、久蔵は四国の祖父を訪ねます。ところが、ちょうどクリスマスになり、当時東京で出席していた教会からのクリスマスの案内状が、東京の下宿先から祖父の家に転送されてきて、久蔵の入信が明らかになり、祖父は激怒します。

「久!お前は誰に断って、ヤソを信じた?ご先祖に対してはむろんのこと、西村家の今後にとっても、未曽有の一大事である。返答によっては、決してただではすまさぬぞ!」祖父の気迫に、久蔵は返す言葉もなく、平身低頭して主に助けを祈るばかりでした。

「久!キリスト教は忠孝を基本とする儒教と相いれない。わが西村家には、ヤソは一歩も踏み入れさせてはならぬ。どうじゃ、久!今この祖父の面前で改宗するか。改宗しなければ、勘当じゃ!どうじゃ!」久蔵は、祖父の怒りにこもった真実と、主イエスが自分を愛して下さる真実に挟まれて、答えるすべがありませんでした。「申し訳もございません。…ぼくはキリストに救われた者です。キリストに赦された者です。」祖父・真明は、刀があれば切り付けんばかりの剣幕で、3時間余りも叱り続けたといいます。

久蔵は一晩中眠ることができず、祈りに祈りました。翌朝、祖父は再び久蔵を叱責しますが、昨夜の勢いはありません。「久、ヤソは親不孝の教えであろう。<我よりも父や母を愛する者は、我にふさわしからず>と書いてあると聞いた。」その声には、キリスト教を知りたい思いが生まれていました。「おじい様、キリスト教は決して親不孝の宗教ではありません。十戒には<汝の父母を敬え>とあります。しかし、父母以上に神を敬うことが、人間の生きる土台なのです。神の教えに従って生きる者が父母を愛する時、その愛はもっと深く、もっと熱く、もっと真実になるのだと聞いております」。

「ふーむ。では、ヤソの教会では男も女もなれなれしく語り合い、風紀を乱していると聞くが、それはどうか」――「はい、それも世間の誤解だと思います。キリストはこう言っています<情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです>と。」これを聞いた真明は、「これは手厳しい。儒教の教えよりもはるかに厳しい」と納得します。

「なるほど、聞けばヤソにもよいところがある。だが、ヤソは位牌を守るという重大な勤めをないがしろにするというではないか。ヤソは祖先をどのように祀るのじゃ。」久蔵は答えられません。「それ見よ、このわしが死んだとしても、線香一本お前は上げてはくれまい。何と情のないことじゃ。」――久蔵は「キリスト教は決して死者を拝みません。しかし、死んだ人を祈りの中で思い出し、敬い、愛します」と言って、祖父のために日頃祈っている祈りを明かします。真明は、久蔵が毎日1時間近く祈り、真明のために毎朝欠かさずに祈っていることを知って、態度を変えます。

その日から10日10夜、真明は、久蔵の入信の動機、罪について、キリスト教について、ひたすら質問をして、久蔵の言葉に聞き入りました。「神は人間がつくったものではないか」「神が人間を作った目的は何か」「神が愛ならば、なぜ疫病や災害が正しい者に襲うのか」「聖書はいつ誰が書いたのか」「聖書の最も重大な教えは何か」「なぜ日本古来の宗教ではなく、キリスト教でなければならないのか」「仏教とキリスト教の決定的な違いは何か」「天皇に忠実であることと、キリストを信じることは、相反するものではないか」…。

そして、正月七日の夜、真明は最後に尋ねます。「お前はこの10日間、ただの一度もわしの質問に答えられなかったことはない。わずか20歳のお前が、受洗して2年だというのに、そうした知恵をどこから得たのか」――久蔵は、主イエスの言葉を思い出して、学問の深い祖父・真明の質問にことごとく答えることができたのは、まさに聖霊によるものだと確信し、身体が震えるのを感じました。

真明は、上機嫌で久蔵に入信を許し、その後1週間、久蔵を連れて人々に紹介して、「この孫は本物のヤソぞ」と誇ったと言います。さらに、岡山や倉敷の当時の著名なクリスチャンを訪ねて、久蔵を紹介してくれました。

三浦綾子「愛の鬼才」第4章[①]

受洗して間もない久蔵にとって、祖父の怒りは試練以外の何者でもなかったはずです。しかし、その試練は、むしろ神の御業を経験する機会となり、自分を越えた神の力に驚嘆し、さらに神を信頼する契機となっていきました。

今日の聖句の概要

今日のマルコ福音書の文脈では、主イエスは教えと奇跡を通して、ご自分が何者であるかを示しておられます。 ▼今日のエピソードでは、主イエスが権威ある御言葉をもって、嵐を静めます。▽主イエスの言葉の権威を目の当たりにした弟子たちは「いったい、この方はだれだろう」と恐れます。この弟子の姿は、私たち自身の姿と重なります。

いったい、この方はだれだろう」――すでに神を知っている私たちも、より深く主を知り、主を信頼する者として頂きましょう。嵐のような人生の荒波にもまれる時、人生の船旅で行き詰まり、逃れる道が見いだせない時、その時こそ、主イエスをより深く知る機会です。共におられる主イエスは、嵐をも支配する方です。

背景:ガリラヤ湖の気象

ガリラヤ湖は普段は穏やかですが、急に強い風が吹くことで知られています。▼ガリラヤ湖は標高が地中海よりも200m低く、山に囲まれた盆地のような地形です。山の上の冷たい空気が、湖の上の温かい空気に出会うと、大気が不安定になり、天候が急に変化して、強い風が吹くことがよくあるそうです。湖の水深が比較的浅く、山々の谷間から強い風か吹き込むため、湖でありながら、大きな波になることがあるそうです。

【1世紀の舟】 主イエスの時代にガリラヤ湖で使われていた舟が発掘されています。のちの時代の絵にも描かれており、一般的な形のようです。4人の漕ぎ手で、15人くらいの人を乗せられたようです。前後に甲板がついており、主イエスはここで寝ておられたようです。

群衆と弟子

【向こう岸へ渡ろう】

35さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。

その日、非常に多くの群衆が岸辺に集まり、主イエスは舟の上から声を張り上げて、神の国について教えられました。主イエスは、午後になり、日が暮れる前に別の場所に移動しようとしたようです。

【弟子と群衆】

36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。

大勢の群衆が岸辺に残っていました。主イエスは岸辺に上がることなく、舟に乗ったまま別の岸に向けて出発しました。「ほかの舟も一緒に行った」とは、「彼(主イエス)と共にいた」という言葉です。群衆は岸に残りましたが、弟子たちは主イエスと共に進みました。

群衆を残して、主イエスと弟子たちが沖へ出ていく様子は、霊的な状態を表しているようにも思えます。▼主イエスは、群衆たちにはたとえで話され、弟子たちにはその意味を明らかにされました。 ▽群衆は、主イエスの奇蹟や癒しを経験し・教えを聞きたがりますが、主に従って・主と共に生きようとはしません。 ▽しかし、弟子たちは、主イエスを尋ね求めて、主イエスのもとに来ました。弟子たちは、まだ信仰の目も開かれていませんが、主に従い・主と共に歩み、やがて主イエスと神の国を見出します。▽弟子たちはその旅路で嵐に遭い・苦しみますが、それを通して主イエスが何者であるか、深く知ります。嵐を経験することなしに、主の力と権威を知ることもありません。

信仰の試練

【嵐】

37すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。

レンブラントがこの場面を力強く描いています。大波がしぶきを上げて、小舟が嵐に翻弄される中で、ベテラン漁師たちを含む弟子たちが、必死で舟を守っています。

37節は、目撃者であるペテロが生き生きと語っているようです。「すると、激しい突風が起こる(ギリシャ語現在形)」「波が舟の中にまで襲い掛かり続け」「舟はすでに水で満杯になるほどであった」。

レンブラント「嵐のガリラヤ湖のキリスト」, 1633

ところが、主イエスは、一日の奉仕の疲れからか、嵐の舟の中で、ぐっすりと眠っておられました。ここには、キリストの神への全き信頼が表れています。しかし、弟子たちにとっては、それどころではありません。必死で水をかき出していたでしょう。

38ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。

弟子たちは、目の前に迫った沈没と死の恐怖で、パニックになっています。「あなたも私たちも、もうすぐ死んでしまいそうなのに、あなたは何とも思っておられないのですか?」主イエスを咎めるような口調に、緊迫感が伝わってきます。

【信仰の試練:ジョージ・ミュラー】

しかし、信仰が試される時にこそ、私たちは神の力と恵みを経験します。

【ジョージ・ミュラー】 19世紀の英国で、1万人の孤児を育てたジョージ・ミュラーという牧師がいます。孤児院の運営に当たっては、献金を要請することはせず、自発的に捧げられる献金だけに頼って孤児院を運営する方針を貫きました。孤児院の運営はギリギリで、絶えず信仰が試みられましたが、必要に事欠くことは一度もありませんでした。

ジョージ・ミュラー(1805–1898)

(ジョージ・ミュラー「ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣」より要約)

孤児院を始めて2年後、手持ちの資金が20ポンド(120万円ほど)でしたが、4日後には34ポンド(200万円ほど)の支払い期限が迫っていました。ミュラーは「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」との御言葉を黙想して、これまで必要なものをすべて備えて下さったように、これからも全ての必要を備えて下さると知った時に、喜びがあふれてきた。その直後に手紙が届き、20ポンドの手形が同封され、次のように書かれていました。「同封の手形を、孤児の家のために使っていただけませんか。たいした金額ではありませんが、きょう一日を切り抜けるには十分です。主はきょう一日分を備えてくださるものです。あすの必要はあす備えられるでしょう。」

(※当時の1ポンドを6万円で換算し、追記した。)

ジョージ・ミュラー「ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣」いのちのことば社、p19-20

神にだけより頼む信仰の働きが、子どもを養えなかったり、経営破綻したりすれば、神様の御名を傷つけることになります。孤児院の働きを始めた初期の10年ほど、毎日がその日暮らしでしたが、孤児院が食事を欠くことは、一度もありませんでした。

ある朝、300人の子どもたちに食べさせる食事がありませんでした。しかし、ミュラーは子供たちを食卓に着かせ、「愛する父よ、あなたが私たちに食べ物を与えてくださることに感謝します」と祈りました。すると、ドアをノックする音がして、パン屋がパンを届けてくれたのでした。パン屋は、孤児たちのためにパンを焼くことを神が望んでいると確信して、眠れなかったのでした。すぐに、2 回目のノックの音が聞こえ、牛乳配達の人でした。孤児院の外で牛乳配達の車が故障したので、孤児のために牛乳を差し入れたのでした。[②]

参考:https://christianhistoryinstitute.org/magazine/article/did-you-know-mueller

信仰者の生涯は、決して悠々自適な気楽な生活ではありません。むしろ、絶えず厳しい試練と闘いの中を歩み続けるのが、クリスチャンの人生です。しかし、試練の中で信仰を働かせる時に、神の御業を見ることができ、信仰が成長し、より深く神を知りことができます。

信仰と恐れ

【主イエスの権威】

39イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。

主が「静まれ、黙れ」と言われると、たちまち風はぴたりと止まります[③]

「叱る」という言葉は、悪霊を叱りつける時にも使われた言葉で、主イエスの言葉の権威を表しています。旧約聖書で、荒れ狂う海を静めるのは、神ご自身であり、神の命令です。主イエスの言葉には神ご自身の権威があり、主イエスは父なる神の意志と一つとなっています。[④]

いったい、この方はだれだろう」――弟子たちの質問を、私たちも心に留めたいと思います。

【恐れと不信仰】

続く主イエスの言葉は、私たちの心を鋭く見抜きます。

40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

嵐の中で必死に舟を守り、主イエスに叫び求めた弟子たちの姿は、常識的な普通の姿です。しかし、主イエスの言葉は、彼らの信仰の状態・神との関係を鋭く指摘しています。波風を「恐れて」、神への「信頼」が吹き飛んでしまいました。この種の「恐怖」や「不安」は、神への「信頼」をかき消してしまいます。

この場面で、信仰は、主イエスを呼び起こし、主イエスに働いていただくことではないでしょうか。はじめから主イエスに目をさましていただくべきではないでしょうか。弟子たちの姿は、どうしようもなく行き詰ってしまうまで祈らない私たちの姿に似ています。確かに私たちは、絶体絶命に追い込まれなければ、真剣に主イエスに求めません。しかし、経験を積んだ信仰者は、絶えず主イエスに頼っています。急に嵐が来ても、信頼を込めて直ちに主イエスを呼び起こします。

悪魔は、私たちを恐れさせることができるなら、「信仰」から引き離すことができます。信仰者は、勇敢でなければなりません。

【信仰と勇気】

あるカトリックの聖徒が、偉大な信仰者について述べています。

「私は、〔真の偉大な信仰者〕で、勇気いっぱいで決然と苦しみに当たらない人を、ほとんど見たことがありません。もし彼らが弱ければ、主が第一になさることは、かれらに勇気を与えて労苦を恐れない人にさせることですから。」[⑤]

イエズスの聖テレジア「完徳の道」ドン・ボスコ社1987、18章 p171

ジョージ・ミュラーも、教えています。

信仰が試みられ、試練を通して強められる機会が与えられる場合、そこからしり込みするべきではない。…信者は信仰が試みられる事態が起こったり、試みられる立場や環境に置かれたりしても、しりごみすべきではない。神の御手が差し伸べられることによって信仰が強められる機会として、喜んで受け入れるべきなのである。

信仰の試練が来た際、神に働いて頂き、自分の力で自分を救い出そうとしないことである。…神が信仰をお与えになる場合には、…試みを受けるために与えられるのである。

私たちの信仰がどんなに弱くても、神はそれを試みられる。しかしすべての事柄において、穏やかに漸次的に、忍耐強く導かれる。最初、私たちの信仰はほんの少し試みられるだけであろう。なぜなら、神は私たちが担いきれないほどの重荷を負わせられることはないからである。信仰の試練の時がやってくると、私たちはともすれば、神に不信の念を抱きがちである。しかし、そうなれば、新たな試練が来るごとに信仰は減少する。逆に、神の助けを見るために、試練の時に神のみに信頼して静かに立っているなら、私たちの信仰は増すであろう。

信仰を強められたいと願うなら、神に時を与えなければならない。神が信仰を試みられるのは、ご自分のこどもにとってちょうどよい時に助け、救い出すことを喜んでおられるということを実証するためなのである。[⑥]

ジョージ・ミュラー「ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣」いのちのことば社、p37-39
ルドルフ・バックホイゼン「嵐のガリラヤ湖のキリスト」1695

【私たちの試練】

私たちが受けている試練があるでしょうか。恐れている試練があるでしょうか。

【経済的試練】

経済的な恐れや不安があるでしょうか。

マタイ6:31-33「31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。32…あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」

ジョージ・ミュラーが繰り返し信仰を試みられても、主に信頼することを選び続けたように、恐れに負けず、満たして下さる神ご自身に信頼して参りましょう。

【対人関係での試練】

対人関係の中で、人から認められず、不遇な辛い時期を通っておられるでしょうか。

1ペテロ5:6 「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」

人の心を動かし、名誉を下さるのは神ご自身です。自分で自分を高めるのは未熟で危険なことです。神が名誉を与えて下さることを信じるならば、へりくだることが容易になります。神が高く上げて下さる方であると知っているなら、低くされている今は、謙遜を身に着ける時期であることが分かります。謙遜を学ぶことは、恵みを豊かに頂く訓練です。

【将来の不安】

将来のこと、年齢や健康のことで不安を覚える方もおられるでしょうか。

イザヤ46:4「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

自分の力が衰える時も、主があなたを背負い、主があなたのために責任をもたれる、と約束されます。勇気をもって主に信頼するときにこそ、希望をもって歩むことができます。

【神との出会い】

私たちが神と出会う時、私たちはどのように反応するでしょうか?喜びで満たされ、ハレルヤと叫ぶでしょうか?――それは、すでに神を知っている人の反応の用です。まったく初めて神の御業を目の当たりにするとき、私たちは恐れを感じ・戸惑います。

41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。

舟が沈みそうになり、自分の力ではどうしようもない、死を覚悟した時の自然な恐れとは異なる恐れです。しかし、自分が見てきた世界が、根底から覆されるような恐れでした。▼これまで自分が知っているどのような存在とも力とも異なる。自然の法則という揺るがない秩序をも超えてしまう。私たちがコントロールできること、頭で想像できる範囲を超えた方。これまで信頼していた考え方が揺らぎ、世界の見方がひっくり返る出来事です。

【人生の嵐】

人生の嵐・試練は、そこで神が働かれる時・神を知る機会です。▼マルティン・ルターは、彼が聖書を学び、神を深く知るようになった方法として3つを挙げています。①祈り深く聖書を読むことによって。②聖書を繰り返し黙想し味わうことによって。③試練の中で、聖書を読む。――ルターにとって、試練こそ神をより深く知るための手段でした。試練の中で聖書を読む時、自分自身を吟味させられ、その罪があらわになり、悔い改めをもって、神に立ち返り、恵み深い神に出会うのです。

弟子たちは、嵐の試練の中で、主イエスに必死で叫んだ時に、主の御業を見て、主の偉大さに目が開かれていきました。▼主イエスと同じ船に乗り、主と共に沖に漕ぎ出した弟子たちに与えられた試練であり、恵みでした。主は愛する者を試練に合わせられます。試練の中でこそ主に出会い、主を知ることができるからです。▼試練の中で、主イエスが共におられることが祝福です。主イエスが共におられるなら、試練自体も祝福となります。試練のただ中で、キリストを見つめ、へりくだって神の御心に信頼するならば、試練は神が働かれる舞台になります。▼試練は、自分が何者でもないことを知り、神の恵みなしには何もないことを徹底的に認めさせます。そのように自分に頼らない者となるならば、試練は大きな益をもたらします。その時、嵐のただ中でこそ、神の力に出会うことができます。

祈り

嵐のただ中で、共におられる主イエス様。試練の中で、あなたが共にいて下さることを感謝します。今は試みの時です。身を低くして、あなたにより頼みます。あなたが働いて、御心をなしてください。この試練を通して、私があなたをより深く知り、へりくだってあなたを深く信頼する者となりますように。あなたの栄光を仰がせてください。アーメン。

並行記事:マタイ8:23-27、ルカ8:22-25


[①] 三浦綾子「愛の鬼才」第4章

[②] ジョージ・ミュラー「ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣」いのちのことば社、p19-20

https://christianhistoryinstitute.org/magazine/article/did-you-know-mueller

[③] 主イエスの行動には、文法的にもアオリストの時制が使われていて、一つ一つの行為が決定的な行為として描かれている。

[④] 旧約聖書の海は、特に神に逆らう混沌の力を象徴する。

[⑤] イエズスの聖テレジア「完徳の道」ドン・ボスコ社1987、18章 p171

[⑥] ジョージ・ミュラー「ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣」いのちのことば社、p37-39