マルコ6:1-13「共に遣わされる」

2024年7月7日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ6:1-13、エゼキエル2:1-5
説教 「共に遣わされる」
メッセージ 堀部 里子 牧師

十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え…

【今週の聖書箇所】

 4イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。5そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。6そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。

 それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。7また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、…

マルコ6:4-7

 1彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。2そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。3彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。4彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。

エゼキエル2:1-4

挨拶

おはようございます。梅雨に入っていますが、激しい雨が降ったり、カンカン照りだったりと、天候が変わりやすいですが健康が守られて今朝も皆さんと共に主を礼拝できることを心から感謝いたします。

先週は新紙幣が発行されました。一万円札の顔は北区出身の「渋沢栄一」なので、北区では盛り上がりを見せていますが、今朝のCSでは五千円札の顔となったクリスチャンの「津田梅子」の生涯が話されました。

概要

さて、マルコの福音書を学んでいますが、今朝は大きく二つのことを分かち合いたいと思います。一つ目は「つまずき」について、二つ目は「遣わされること」についてです。

イエス様がご自分の郷里であるナザレに行かれた記事から始まります。誰にでも生まれ育った町があり、そこに思い出があると思います。10年以上も前に、私がキリスト教系列の老人ホームでメッセージをするようになった時、メッセージ後の交わりの時間に、入居者の方々とどんな話をしたらよいのか、共通の話題を探していました。祈りながら、いろいろ試行錯誤を重ねた結果、入居者の方が生き生きと話してくださる内容の一つは、「故郷に関すること」だと分かりました。誰にでも故郷は懐かしい思い出があるものです。

【イエス様が郷里のナザレへ】

「イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。」(マルコ6:1)

イエス様は郷里のナザレに行きました。イエス様が産まれたのはベツレヘムですが、育ったのはエルサレムから北へ88キロ離れたガリラヤ地方の小さな村ナザレでした。「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1:46)と言われるほど、「ナザレ」は旧約聖書にも登場しない無名で注目されない田舎の村でした。

ナザレが位置するガリラヤ地方は、「異邦人のガリラヤ」(イザヤ9:1)と旧約聖書に記されています。ガリラヤ地方はアッシリヤに紀元前732年に征服された時、イスラエルの民が捕囚民となって以来、外国人が移住するようになり、結果として人種が混じり合った文化が生まれました。ですからユダヤ人には、ガリラヤ人は純粋なユダヤの血が流れていない、卑しい田舎者で、教養がなく粗野な人々と思われていたようです。ですから「ナザレ人」と呼ばれること自体、軽蔑の意味が込められていました。

日本でも歴史の中で造られた身分制度により、下に置かれた方々は、決められた地域に住むことが義務付けられていた時代がありました。現在でもそこの出身者に対する差別や、そこから生じるあらゆる問題が社会問題となっています。法律上は、身分制度はなくなりましたが、現在もその問題で苦しんでいる方々がいます。いろいろな自治体のHPに、差別撤廃の文言が記されています。6月は「就職差別解消促進月間」だったようで、シンポジウムや人権啓発映画会が開かれたようです。当事者からするなら、自分が育った故郷の故に軽蔑されるわけですから、生まれ育った場所を隠さなければならない状況に追い込まれたりと、本当に辛いと思います。

聖書に「彼(イエス)はナザレ人と呼ばれるであろう」(マタイ2:23)とあり、実際にイエス様は捕らえられた時に「この人はナザレ人イエスと一緒だった」(26:71)と告発されています。そして十字架に架かった時の罪状書きにも「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(ヨハネ19:19)と書かれました。そうです、イエス様は軽蔑の表現である「ナザレ人」と呼ばれることを受け入れられたのです。

イエス様はご自分が「ナザレ人」と呼ばれ、十字架上の「罪状書き」にも書かれ、軽蔑されることをよしとされましたが、相手の出身地や身分、学歴や社会的地位で人を差別される方ではありませんでした。どこへでも神の御心を行うために各地へ出かけて行かれました。そして弟子たちを連れて、ご自分が育ったナザレにも足を延ばされたのです。

【主イエスにつまずく故郷ナザレの人々】

「2そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 6:3この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。」(マルコ6:2-3)

 イエス様は会堂でどんなことを教えたのでしょうか。ルカの福音書には、イザヤ書の巻物を開いて6章を朗読されたと記されています。18「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、19主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。(ルカ4:18-19)

そして続けて「そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた」(ルカ4:21)と宣言したのです。つまり、イザヤ書で預言されている「わたし=メシア」とはイエス様ご自身なのだとおっしゃったのです。すると、ナザレの人々はイエス様の口から出て来る恵みのことばや知恵、力あるわざに驚きました。

しかし、驚いた直後に「この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」(マルコ6:3)と言いました。イエス様が貧しい人々や異邦人にも神の恵みが与えられたと語った時、「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした」(ルカ4:28-29)と記されています。

「こうして彼らはイエスにつまずいた」(マルコ6:3)とありますが、具体的に何がつまずきとなったのでしょうか。

ナザレの人たちのつまずき

①「偏見・先入観」

一つ目のつまずきは「偏見・先入観」です。

ナザレの人々はイエス様を「大工のヨセフの子」だと認識していました。「この人は大工ではないか」という先入観から離れることが出来なかったのです。だからこそ「大工がラビのように、権威をもって教えて偉そうにしているとは何事か。自分を何様だと思っているのか。あいつはナザレで育ったから、イエスのことはよく知っている、俺たちこそイエスより長老にあたるのだ」と思い、イエス様が「大工の息子」という人の枠の範囲を超えることができませんでした。

私はナザレの人たちが、イエス様と直接対話をしたなら、状況は多少なりとも違っていたのではと思います。そして、新たにイエス様のことを知ることができたのではと思わされました。偏見・先入観は、無知と思い込みと誤解が多いと思うので、対話を諦めないことが理解に繋がるのではないでしょうか。

また「イエスは大工の息子だから、救い主ではない」という一つの考えに縛られるのでなく、「イエスは大工の息子であるが、もしかしたら救い主かもしれない」という「もしかしたら」を常に自分の中に持ちたいと思います。別の言葉で言い換えると、自分が正解を持っていると信じていても、メンタルロックを敢えて外して、他の可能性を受け入れるスペースを私たちの心に用意しておきたいものです。そこに他者との対話、神への祈りが生まれてくるのではないでしょうか。自分は不十分で足りない者だからこそ、イエス様が提供してくださっている恵みを信頼して受け取りたいと思います。

②「不信仰

ナザレの人々の二つ目のつまずきは「不信仰」です。

「彼らの不信仰を驚き怪しまれた」(マルコ6:6)とイエス様が驚くほどの不信仰で堅い心だったようです。不信仰とは、イエス様が救い主であることを信じないことです。ナザレの人々は、メシアの到来を待ち望んでいましたが、思い描いていた理想と現実にギャップがあり過ぎて、「イエスこそメシアである」とは到底受け入れ難かったのです。結局イエス様は「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」(マルコ6:4)とおっしゃり、病人を数人癒しただけで、「そこでは力あるわざを一つもすることができ」なかった(マルコ6:5)のでした。

こうして先入観・偏見と不信仰が妨げとなり、残念なことにナザレの人々はキリストと出会うことが出来ず、恵みを受け取る機会を逃してしまいました。彼らは確かにイエス様につまずきましたが、見方を変えるなら彼らの心の中にある罪が壁となり、つまずいてしまったのです。

つまずきは避けられないが…

イエス様は「つまずき」は避けられない(ルカ17:1)とおっしゃいましたが、つまずいた後、どのような行動をするのかがもっと大切なのではないでしょうか。Ⅰペテロ2:6-8をお読みします。

「…『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない』。この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。」

「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(ルカ7:23)。

つまずきの原因

「人につまずくとき」という本を書いたジョン・ビビア牧師は、著書の中でこう述べています。

「聖書の中の『信じる』という言葉には、存在を信じるとか、単に事実だと認めるという以上の意味が含まれています。…『信じる』ことの中心的な要素は、『従順』なのです。…服従する相手の性格や愛を知っていれば、従うことは難しくありません。私たちと主との関係は、一言で言えば愛の関係なのです。原理や教えに対する愛ではなく、人格者イエス・キリストに対する愛なのです。もしその愛が確かでないなら、つまずきやすい状態にいます。」(p.157)

ジョン・ビビア「人につまずくとき」p157

聖書を読むと、イエス様につまずいた人たちは、敵対したパリサイ人や祭司長たちだけでなく、イエス様の家族や身内も、そして弟子たちもつまずいています。イエス様が真理を語った時にもたらされるつまずきは、つまずいた人たちの心の状態を明らかにします。しかし、イエス様は周りの人々の声にコントロールされることも、妥協することもなく、例え弟子たちが離れて行ったとしても、また家族の者に気が狂ったと思われても、ナザレの人たちに認められなくても、神様の御心を行うことだけを選び取ったのです。

人につまずかず、神の御心を選び取る

私が伝道師時代にある会議に出席をした時の話です。その時、私は意見を述べたのですが、近くに座っていた方から「先生はまだ年が一番若いので、特に何も言わなくていいのです」と言われました。恥ずかしくなって小さくなっていると、別の方が「若い先生の意見も聞きたいです。主に在って遠慮せずにおっしゃってください」と促したのです。最初の方は、私がでしゃばらないようにと諭してくださったと思うのですが、後者の方の一声は、私の自尊心を高め、主のために働く喜びを増し加え、謙遜さを持って意見を述べる大切さを教えてくれたと思います。つまずきの中には、「相手に言われたことに傷つき、腹を立てる」という面があると思います。私は人につまずくことから、その時守られたのだと思いました。

二つの異なる意見に挟まれ、どちらの声に聞き従うべきか決断を迫られた時、キリストの愛で教会を建て上げて行くビジョンを語ることが、神の御心だと思いました。どちらも大切な声ですが、人を恐れるのでなく、神の御心を選び取って行きたいと思います。

また同時に、私たちの心の中の妨げ・つまずきとなっているいかなる隠された領域がないように、つまずきの罠に陥らないように、いつも主に明け渡して行きたいと思います。

【主イエスの派遣】

「また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、…。…そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。」(マルコ6:7,12-13)

 ナザレを後にされたイエス様は、近くの村々を巡って教えられました。それまではイエス様お一人の働きでしたが、ここでイエス様は「さあ、次はあなたがたの番ですよ」と弟子たちに汚れた霊を追い出す権威を与えて、二人一組で遣わされたのです。元々弟子たちは、イエス様から「人間を捕る漁師にする」と呼ばれて弟子になったのですから、そのことが実現しようとしていました。

弟子たちは、持ち物は杖一本で着の身着のままで出発しました。

「また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。」(マルコ6:8-9)

 弟子たちがどのくらいの期間、宣教に派遣されたのか書かれていませんが、「最低限必要なものは神様が備えてくださるから心配しないで行きなさい」と、イエス様は物質的なものは持たせなかったのかもしれません。または「行ったところで人々の親切を受け取りなさい」という意味だったかもしれません。どちらにせよ、全て神に全面的に拠り頼むために弟子たちを送り出されました。いろいろ準備万端で出発するのもよいですが、「ないないづくし」の方が神様に依り頼まなければやっていけませんので、そのようなチャレンジも現代を生きる私たちに必要なのかもしれません。

夏に短期宣教チームを迎えて

沖縄の教会にいる時、夏休みになり韓国から大学生の宣教チームが来ました。彼らはイエス様が指示された伝道方法に従って伝道に出かけて行きました。日本語もほとんど話せない中で、「四つの法則」という伝道パンフレットだけを持って出発しました。そして帰って来た時の彼らの喜びで満ちた顔を忘れることができません。あるチームは、畑でおばあちゃんに会って「四つの法則」を一緒に読み、伝道をしたそうです。そのおばあちゃんは意味が分かったのか、分からなかったのか知りませんが、すんなりとイエス様を信じて受け入れたそうです。また下校する学生のグループに伝道したチームは、韓国語を教える中でイエス様のことを伝えたようです。信じた人も信じなかった人もいたとのことでした。

私は正直に言って、韓国から宣教チームが来ても、「短期間で何ができるのだろう、伝道に出て行っても怪しいと拒絶されて終わりではないか」と思っていたのですが、そうではありませんでした。福音の種蒔きをした彼らの純粋な信仰の姿に、私自身はとても励まされました。そして、彼らのように私も行動したいと思いました。

宣教チームが滞在中、私の父(ノンクリスチャン)も町に掛け合ってくれて、大きなワゴン車を借り、運転手をしてくれました。また父の得意の「手作り沖縄そば」も自らうってくれました。後に父は「あの韓国人の大学生たちの話を聞いていると、みんな素晴らしくいい子たちだった」と感想を言っていました。私は自分の故郷で、韓国の宣教チームのような伝道はできないですが、彼らが伝えたからこそ福音を受け取ってくれる人たちがいたことに感謝の気持ちでいっぱいでした。

神ご自身が共に同行してくださる

イエス様は、私たちが福音を伝えるために、相応しい力を備えてくださる方です。しかしそうはいっても、自分には聖書の知識が足りないから、今は自分の生活で精いっぱいで時間がないから、伝道や証しをした経験がないから、そういう器でないから、子育て中なので難しいなど、いろいろな理由でできませんと言いたくなります。だからイエス様は弟子を一人でなく、二人一組で遣わしたのではないでしょうか。「お互いで補い合いながら、協力して宣教しなさい」という意味です。

ある牧師がこう言いました。「今日のクリスチャンの最大の弱点は、神に献身する覚悟はできていても、神にともに仕える覚悟ができていないということです。ともに仕えるということは、一人ではなく、二人がともに仕事をするということです。互いに仕え、補い合いながら一つの目標を目指すのです。ともに仕える人が、あなたの思いでは満足できなくても、最後までともに仕えることで、神の栄光を現してください。ともに仕えることは難しいですが、祝福もそれだけ大きいのです。」

伝道・宣教は一人では限界がありますが、協力して働くなら新しい領域を開拓することにもつながります。あなたはどこに誰と遣わされていますか。イエス様が私たちと共にいてくださるなら、イエス様も共に遣わされているのです。

モーセが召命を受けた時、モーセは神に「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」(出エジプト記3:11)と言いました。モーセに対して神はわたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。」(出エジプト記3:12)と答えました。

父なる神はイエス様を地上に遣わしました。そしてイエス様は私たちを遣わすにあたり、約束されました。

「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:18-20)

私たちを遣わす神ご自身が私たちと同行し、共に遣わされてくださるのです。

「ミッション」が用いられる

先日、「『ミッション』という伝道用の漫画を読んだ5歳の娘さんが質問をしたいと言っている」とお母さんが、教会に電話をかけてこられました。「娘が聖書の内容を質問してきて全部に答えられないので、答えてあげてくれませんか」とのことでした。「ミッション」は、去る4月の子どもイースターのイベントで配ったものでした。その女の子は、電話だけで終わらず、「ミッション」を大切にリュックに入れて、お母さんと妹と一緒に、先週月曜日に教会に来ました。そして、一時間かけて「ミッション」を一緒に半分まで読みました。聞くと子どもイースターの後、お母さんに毎晩少しずつ読んでもらっており、装丁が外れるほどに何度も何度も繰り返し読んでもらっているとのこと。どのような方法が用いられるのか私たちは分かりません。神様は子どものための伝道漫画とノンクリスチャンのお母さんも用いる方なのだと主の御名を崇めました。

私たちは天の故郷に帰るまで、神の子どもとして使命が与えられています。そのために、神の権威が与えられたのです。タラントを土に埋めることなく、増やしていきましょう。伝えることに失敗しても、つまずいてもその時、その時に神様が必要な道を示してくださり、新たな力を与えてくださいます。どのような道を歩むにしろ、つまずくことなく、また誰もつまずかせることなく、遣わされた場所で福音の種を蒔き続けて行きたいと思います。そしてイエス様が私たち一人ひとりと共に遣わされていることを覚え続けたいと思います。

「また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。(マルコ6:11)

福音を拒否する人たちに対しても、イエス様は具体的な行動を教えました。イエス様のように私たちは必ずしも故郷で宣教をしないかもしれません。しかし、今遣わされているところで忍耐強く、この夏も前進して参りましょう。皆さまの上に主の平安と祝福が豊かにありますように。