マルコ6:14-29「キリストの苦難にあずかる」

2024年7月14日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ6:14-29
説教 「キリストの苦難にあずかる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 14さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。

 17このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。18それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。19そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。21ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、22そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、23さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。24そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。25するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。26王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。27そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、28盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。マルコ6:14-29

マルコ6:14-29

雨で少し暑さが和らぎました。皆様のご健康が守られますように、引き続きお祈りします。

【西村久蔵と岡藤丑彦】 三浦綾子の作品「愛の鬼才」に、三浦綾子を洗礼へ導いた西村久蔵という人物が描かれています。▼西村久蔵は、戦時中に徴兵を受けて中国で任務に就きます。

(三浦綾子「愛の鬼才」第10章より、筆者がまとめ直した)

彼の高校時代の親友でクリスチャンの岡藤丑彦は、西村を訪ねて中国に行きます。「西村、君は軍隊に籍があったばかりに、殺戮の戦場に立たねばならん。私はその友人として、君の罪の償いのために、中国の人々に奉仕するために、中国にやってきた」。岡藤は、ある人物の紹介で、中国人が経営する工場の顧問になります。岡藤は中国の服を着て、日本人の特権を放棄して、中国の人々と同じ苦しみを共に味わいます。しかし、工場の職員たちは、日本人である岡藤に近づく者は一人もありませんでした。

ある夜、彼が家にいると、表が騒がしくなり、突然玄関が開き、若い女が真っ青な顔で彼の家に飛び込んできました。岡藤は万事を察して、廊下の戸を開けて女を逃がしました。続いて、日本兵が酒に酔い、刀を抜いて家に上がってきました。中国服を着た岡藤を中国人だと思い、蹴りを入れ、刀を振り上げました。岡藤が「主よ、御心のままに」と祈った瞬間、顔と首に衝撃を感じ、彼は気を失います。日本兵は彼を峰打ちにして(刃の裏で打った)のでした。岡藤は、気が付くと人々が取り囲んで騒いでおり、日本兵は憲兵に連行された後でした。岡藤は主に感謝し、日本兵の罪を人々に心から詫びました。翌日、岡藤が痛みをこらえて工場へ行くと、多くの中国人が礼をしてきます。彼の部屋には青年たちが入れ代わり立ち代わりやってきて、それ以降、彼の生活は一変します。岡藤は、多くの学校から日本語教師として礼を尽くして迎えられ、住まいを提供されました。軍務についている西村久蔵と共にキリスト教の家庭集会を開き、「そこには世の常ならぬ平安があり、主の恵みは満ち溢れていた」といいます。

 中国での日本人の悪行を見た岡藤は、ひそかに久蔵に語りました。「神は日本を懲らしめる。だから必ずこの戦争は敗れる」。▼西村久蔵は、戦後、戦争に加担した罪を激しく悔いました。彼自身は直接人を殺さず、中国の人々を愛しました。しかし、国家の罪が教会と相いれなくなっても、教会の立場を明確にせず、たとえ逆賊と呼ばれ死刑になろうとも非戦の立場を貫くことをせず、戦争に加担したことを深く悔いて、悔悟の人生を送りました。[①]

三浦綾子「愛の鬼才―西村久蔵の歩んだ道」第10章
https://morishita.merry-goround.com/blog/okafuji-1/

2テモテ3:12 いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。

岡藤が経験し、西村が悔いたように、クリスチャンがキリストにあって生きる時、多かれ少なかれ、そこには十字架と迫害があり、時代によってはそれは命がけの熾烈なものになります。現在の日本には命がけの迫害はありませんが、日常生活の中で私たち一人一人に与えられた苦難・不条理を、キリストに従ってどのように向き合うでしょうか。

概要

今日の聖書箇所の洗礼者ヨハネの殉教の記事は、主イエスの生涯を記した福音書の文脈から、一見つながりの薄いエピソードのようにも感じます。しかし、洗礼者ヨハネの生涯は、当時の社会に大きな影響力があっただけでなく、ヨハネは主イエスご自身の受難と似て、不条理な苦しみを耐え、大きな代価を払ってキリストに従う弟子の模範を示しています。

【歴史的背景】

洗礼者ヨハネの殉教について、数十年後にユダヤ人歴史家ヨセフスが記録を残しています。▼ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスは、隣国の王女であった妃を離婚して、自分の兄弟の妻へロディアと結婚します。結婚に際して、①へロディアが元の夫と離婚したことも、②ヘロデ・アンティパスが自分の兄弟の妻をめとったことも、律法にも良識にも反するスキャンダルでした。▼これを面と向かって非難したのが洗礼者ヨハネでした。ヨハネは民衆から幅広い尊敬を集め、その名声は諸外国に住むユダヤ人の間にまで広まっていました。政治的には、ヨハネの影響力が、政治を不安定化させる恐れが、ヨハネの逮捕・処刑へと向かう要因ともなりました。

今日のエピソードには、何人もの人が登場しますが、それぞれ自分の思い通りにならない状況の中で格闘し、そこに各自の生き方が表れています。

■【1.ヘロデ・アンティパスと洗礼者ヨハネ】

ヘロデ・アンティパス

歴史家ヨセフスによると、ヘロデ・アンティパスは父・ヘロデ大王ほど野心的ではありませんでした。しかし、へロディアとの結婚は、彼に多くの困難をもたらします。領主である彼にとって、へロディアとの結婚が大きなリスクを伴うことは、はじめから明らかでした。▼人々の宗教感情に反する結婚は反発を買い、隣国ナバテヤ王国の王女であった前妻との離婚は、政治情勢を不安定にして、後に戦争を引き起こしました。ヘロデ・アンティパスは、そうしたリスクを承知で、へロディアとの結婚に突き進みました。

洗礼者ヨハネ

この権力者に面と向かって批判したのが、洗礼者ヨハネでした。▼旧約聖書の時代の後、新約の時代に至るまで、中間時代と呼ばれる預言者のいない時代が数百年間続きました。救い主への待望が強まる中、沈黙を破って登場した預言者が洗礼者ヨハネでした。多くの人々が彼を預言者と認めました。

18 それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。

ある翻訳は「〔繰り返し〕言った」と言葉を補っています[②]。▼権力者を恐れることなくその悪行を叱責することは、イスラエルの預言者の伝統でした[③]。多くの実例を聖書と歴史から挙げることができますが、3つの御言葉を引用します。

エレミヤ 23:28-29「わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない。…主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚のようではないか。」

アモス3:8「ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。

エゼキエル2:4,7「わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。…彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。」

主イエスご自身が、宗教指導者たちに、面と向かって批判されました。

【ジョン・ウェスレー】

ジョン・ウェスレーも、御言葉を恐れることなく語り、しばしば反発や拒絶や迫害を経験しました。ウェスレーは福音的回心の後、英国国教会の諸教会で説教をしますが、そのメッセージが受け入れられず、多くの教会で説教から締め出されます。そんな中、友人のホイットフィールドがブリストルで野外説教を始め、彼も招かれます。秩序だった格式高い礼拝に親しんでいたウェスレーは、当初、野外説教に強い抵抗を感じました。しかし、自分を卑しくして野外説教に立ち、大勢の大衆に語りかけると、炭鉱夫たちの目は石炭のように輝き、彼の説教を聞いて悔い改めて福音を信じました。彼は人々の信仰的な反応に圧倒され、それが神の働きであることを確信しました。しかし、管轄外の教区で勝手に野外説教を行うことが批判されます。その批判に対して、ウェスレーは有名な言葉を述べる。「私は、世界が私の教区だと考える」。▼著名なウェスレー研究者が、その後のウェスレーの歩みを次のように述べたそうです。「これから先の半世紀、失敗しても勝利しても、喧騒の中でも平静の中でも、汚名を着せられても誉めそやされても、ウェスレーの姿は変わらなかった。常に使命を確信し、鋭く自分を意識しても決して動揺することなく、ストレスの中にあっても常に頑強な土台の上にしっかりと立っていた」。[④]

ここに、主に従って立つときに起こってくる嵐のような苦難に動じない、預言者としてのウェスレーの姿・キリストの弟子の姿があります。

正しく聖なる人・ヨハネ

20節で迫害者ヘロデさえも、洗礼者ヨハネが「正しい聖なる人」だと知っていました。▼ヨハネが「正しく聖なる人」であると思わせた理由は何だったでしょうか。それは、彼の無私の姿ではないでしょうか。

①無欲さ

ヨハネは荒野に住み、粗末な衣服と食事で生活し、多くの弟子を集めてもその生活は変わりませんでした。ヘロデの周りに集まる私欲を貪るおべっか使いとは正反対の無欲な姿に、ヘロデは聖なる人を見ました。

②無私の姿

第二に、ヨハネは自分を表さない人でした。彼の使命は、キリストのために道を備え、キリストを証しすることでした。「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。」(マルコ1:7)▼主イエスのもとに、自分よりも多くの弟子を集まるのを見た時、ヨハネはそれを喜びました。「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)。▼自分ではなく、キリスト。ひたすらキリストの栄光を求めたのが洗礼者ヨハネの生涯でした。

①無欲で、②自分を表さず、③不利益をも顧みずに真理を語るヨハネの姿に、悪に染まったヘロデ・アンティパスも聖なる人と認めて一目置かずにはいられませんでした。

タイタン「洗礼者 聖ヨハネ」

へロディア

19節には、へロディアの姿が描かれています。

19 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。

恨み…」という言葉は、相手を陥れようと虎視眈々と狙い続けている様子を表します。詩篇に出てくる悪者のように、彼女は神を恐れず、正しい人の命を狙ってためらいません。

ヘロデ

20 それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。

ヘロデはへロディアの陰謀からヨハネを保護しますが、自分の意志で一貫して守ったのではありません。むしろ、その場その場の状況に応じて、周囲の反応と自分の利益を天秤にかけながら、場当たり的に妥協的に対応を重ねています。▽洗礼者ヨハネの存在が政治的に疎ましくなると、ためらうことなく彼を投獄しました。▼彼の洗礼者ヨハネや主イエスに対する態度は、聖なる神への恐れよりも、単なる宗教的な好奇心が勝っています。▼正義に従うことよりも、自分の欲望が優先でした。誠実に反して、へロディアとの関係を押し通し、自分の利益のためには、洗礼者ヨハネを不当に投獄しました。

彼は自分なりの基準でヨハネを保護し、悪を抑制しようとしますが、まもなくへロディアの陰謀と自分のメンツを守るために、大きな罪を犯すことになります。

■【2.へロディアの陰謀】

ヘロデの誕生日の時、重臣たちが集まり、酒がふるまわれ、どんちゃん騒ぎになりました。へロディアの娘の名前は聖書には記されていませんが、歴史家ヨセフスは彼女をサロメと呼んでいます。彼女の年齢は分かりませんが、未婚でした。少女の踊りに喜んだヘロデは、酔った勢いでうかつにも「何でも欲しい物を求めなさい」と言います。事態はアンティパスの意図とは異なる方向に進み、彼は王でありながら、事態をコントロールできなくなります。

24 そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。25するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。

平然と人の命を求めるところに、この親子に残虐が表れています。少女は、まるで宴会の余興にするかのように、首を盆にのせて持ってくるように求めました。

 斬首

ダビデ王やソロモン王であれば、悪者が正しい人の命を求めれば、即刻悪者自身が首をはねられました。しかし、王の利益やメンツのためであれば、正しい人を殺すことさえまかり通るのが、ヘロデの王宮でした。

26 王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。27そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、28盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。

カラヴァッジョ「洗礼者聖ヨハネの斬首」

【ヘロデ】 ヘロデは、洗礼者ヨハネを聖なる預言者だと思い、投獄しながらも保護しました。しかし、彼は、思いもよらない形で、自身の命令でヨハネを殺すことになります。利益とメンツを優先して、正義をないがしろにしてきたヘロデは、自分の力で悪をコントロールできなくなり、罪の泥沼に深くはまり込んでいきます。▼ヨハネの首は、余興のように宴会の場に持ち出されました。▽これを見ていたガリラヤの高官たちも、これを止める者は一人もありませんでした。

ヨハネの弟子

悪行の中で、勇気を出して正義を行ったのは、ヨハネの弟子たちでした。

29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。

処刑された遺体を引き取ることは、迫害者の怒りを招く危険があります。しかし、ヨハネの弟子たちは、悪い権力者たちを恐れることなく、遺体を引き取って丁重に埋葬しました。

【弟子の代価】

先日お会いした彫刻家の小泉恵一さんが、洗礼者ヨハネの首を持つへロディアの娘サロメの作品の写真を挙げておられました。▼ヨハネの首は、正義を行って命を落とす、キリストに従う弟子が払う代価を表しているように感じます。

【洗礼者ヨハネとヘロデ・アンティパス】

権力者の横暴が勝利したように見えますが、ヘロデ・アンティパスはまもなく悲惨な運命にあいます。▽へロディアとの結婚のために離婚した前妻は、隣国のナバテヤ王国の王女でした。この離婚が原因で、ナバテヤ王国と戦争になり、ヘロデ軍は大敗北をします。人々は、洗礼者ヨハネを殺した罰であるとうわさします。▽数年後、ヘロデ・アンティパスは、へロディアにそそのかされて、甥でユダヤの領主であったヘロデ・アグリッパとの権力争いになり、これに敗れます。ヨハネの処刑から10年もたたずして、ヘロデ・アンティパスは、ローマ皇帝カリグラから遠い僻地に追放され、その地で生涯を閉じます。ヘロデが自分の欲に負けて不法に結婚したへロディアの邪悪さは、彼の生涯を大きく狂わせました。[⑤]

一方の洗礼者ヨハネは、多くの弟子を集めた働きのさなかに、権力者の不正に巻き込まれて投獄され、理不尽にもある日突然、地下牢で首をはねられて命を絶たれました。しかし、彼の働きを通して、多くの人々が主イエスを信じるようになりました(ヨハネ10:41-42)。彼の生涯は全ての福音書に記され、主イエスも彼を称賛して「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない」(ルカ7:28)と言われました。その苦しみを通して、キリストに似た者となり、キリストに従う者の模範となり、道しるべとなりました。

■神が許された苦難:キリストの苦しみにあずかる

信仰者には、避けられない苦難が来る時があります。

1ペテロ4:12-13, 19「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。」

「だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」

それは、神が愛する者に許された苦難、キリストご自身の苦難に共に与かることです。試練を通して謙遜な者・練られた者・きよめられた者として頂き、キリストと共に頂く栄光の希望を頂いて、共におられる栄光の主と共に歩んでまいりましょう。

【矢内原忠雄 - 現代の預言者】

邪悪な支配者の前で恐れずに裁きと悔い改めを宣言した洗礼者ヨハネの姿を見て、すでに何度かお話ししました無教会派の指導者・矢内原忠雄先生を思い出しました。

(末尾に記載の諸文献より、筆者が引用・まとめた。)

矢内原忠雄先生は、内村鑑三を通して信仰を持ち、旧東京帝国大学の経済学教授として、戦前の日本の帝国主義や植民地経営を鋭く批判しました。▼矢内原先生は、満州事変後に満州を視察した時、列車が盗賊に襲われ、乗客数名が死亡し、ほどんどの客が物を奪われました。しかし、矢内原先生の客室だけは、奇跡的に被害を守られ、神の守りを経験し、神の恵みを伝えるために、雑誌の発行を始めます。満州の調査旅行を通して、日本が神の前に罪ある者となったことを見抜いた矢内原は、腹を据えて講演活動を開始します。「…私がこの際、講壇に立てば、言うべき言葉はたった一つしかなかった。しかもそれは非常に明瞭に私に与えられていた。私はこの言葉を言うのが恐ろしかったのである。それは私の社会的地位はもちろん、場合によっては身体の自由をも賭さなければならぬ一言であった」。

「かかる混沌の中にあって事の真実を見徹し、真実を語る人は実に悲しみの人であります。…虚偽が世に満ちて全ての人に本当のことが分からない時、たった一人、事の真相を見抜いた人、そして皆が黙っている時に一言言う人、それが悲しみの人であります。」

多くの学者が沈黙する中、彼はキリスト者として腹を据えて、最も本質的な問題である日本の国体・天皇の神性・国家至上主義に、正面から切り込む論文を発表します。

1937年10月1日、講演会を前に矢内原は神の御声を聞いたといいます。

「ある日私は聖声(みこえ)を聞いた。
『行き、そして語れ。しかしこれが最後である。この民にふたたび平和を語るな。
 私は彼らの心を頑なにして、わが審判を成し遂げるであろう』
これを聴いて、私はひどく恐れ、五体が震えに震えて止まなかった。
『今日はしも 我は世界に 世は我に 背き立つ日ぞ 五体ひた震う』」

1937年、国家主義に押される教授会の圧力で、矢内原は教授職を辞職し、著書は発禁処分となります。「…私自身はこのことをなんとも思っていない。私は身体を滅ぼしても魂を滅ぼすことのできない者を恐れない。私は誰をも恐れもしなければ、恨みもしない。」

矢内原は、発行する雑誌「嘉信」が検閲を受け、何度も何度も警察から呼び出しを受けます。ある時、矢内原の言葉が「国家を呪うもの」であるとの警告を受けて、矢内原は情報局の検閲課に行って係官を詰問します。「これほど国を愛している者が、政府から国を「呪詛する者」として弾圧せられるとは!」矢内原は「もう此の国のために祈らない」と思い、「汝この民のために祈るなかれ」というエホバの御声を聞いたエレミヤの悲哀が、私にも少しく解った、と言います。

警察から「もう廃めてはどうか」と自主的な廃刊を執拗に求められますが、矢内原はそれを拒絶します。彼の雑誌「『嘉信』は国の柱であるから、これを倒すものは国を倒す者である。」「『嘉信』を辞めさせるならば、戦局は困難になり、国は重大危機に陥りますぞ」。当局は、ついに「嘉信」を廃刊させることができませんでした。

戦後、矢内原は戦後に東大教授に復職し、後に大学総長も勤めます。[⑥]

政府がキリスト教に大きな圧力を加える中で、自らの危険を顧みず、神の言葉を語り続けた矢内原の姿に、神の言葉に動かされる預言者の姿を見ます。そこには、恐れを越えて、神の言葉にひたすらに従う一途な信仰の姿があります。そこには、預言者の「悲哀」がありました。誰にも理解されない孤独。自らの命を懸けた証言にも関わらず、世はまっすぐに偽りに向かって突き進んでいく悲しみ。ただ神の言葉を道しるべに、共におられるキリストに目を上げて一歩一歩歩み続けた矢内原の姿に、洗礼者ヨハネの姿が重なります。

立花隆「天皇と東大」下、52-53章、矢内原忠雄「私の歩んできた道」II「戦の跡」、https://www.netekklesia.com/ ①坂井基始良「評伝 矢内原忠雄」, ②鈴木皇「預言者的実存・矢内原忠雄(1)」, ③渡部美代治「預言者的実存・矢内原忠雄(2)」、今滝憲雄「矢内原忠雄の預言者的精神と平和思想」

【私たちの苦難】

私たちの歩みはどうでしょうか。キリストの十字架を担っているでしょうか。負わされた十字架の不条理に不平を並べているでしょうか。先にこの道を行かれたキリストご自身の姿を見上げて、主の苦しみを共に担わせて頂きましょう。悲しみの人であったキリストご自身の悲しみに、私たちも与かりましょう。その先にある、主の栄光を仰ぎ見て、この地上の歩みを、十字架を負いつつ進んでまいりましょう。

【祈り】

父なる神様、私たちに先立って、イエス・キリストが私たちの罪のために、十字架の苦しみを忍ばれたことをありがとうございます。私たちは、不条理な苦しみに遭う時、すぐに嘆き、気落ちしやすい者です。しかし、主のために味わうその苦難こそ、主ご自身の苦しみに共に与かっていることを教えて下さり、ありがとうございます。御言葉の約束の通り、苦難の先にある栄光を見上げて、喜びつつ苦しみを耐え忍ぶ者としてください。苦難の中で主の御霊が共におられる祝福を、味わわせてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン

【参考文献】

William L. Lane, The Gospel according to Mark, The New International Commentary on the New Testament.

James R. Edwards, The Gospel according to Mark, The Pillar New Testament commentary.

R. T. France, The Gospel of Mark, A Commentary on the Greek Text.

Strauss, L. Mark, Mark, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament

N. T. Wright, “Mark for everyone.”, NT for everyone.


[①] 三浦綾子「愛の鬼才―西村久蔵の歩んだ道」第10章

岡藤丑彦 ― 西村久蔵の友 | 向こう岸へ渡ろう|森下辰衛公式サイト

翌年の秋、突然O君は私の駐屯していた張家口をはるばる尋ねて来た。そして身を北京の朝陽門外の聖者と言われていた清水安三先生宅に置いた。彼の北支を訪れたのは長い長…

[②] 岩波訳1995年

[③] 1列王22:13-14、エレミヤ20章、28章、23:16-17,28-29、エゼキエル2:4-7、3:17-19、アモス3:7-8、その他多数

[④] 青山学報278(2021.12)藤本満「世紀の言葉――『世界はわが教区』」https://cdn-aoyamagakuin.com/wp-content/uploads/2023/01/278_%E5%AE%97%E6%95%99%E6%84%9F%E8%A9%B1.pdf

[⑤] https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Herod_Antipas&oldid=1228678561

[⑥] 立花隆「天皇と東大」下、52-53章、矢内原忠雄「私の歩んできた道」II「戦の跡」、https://www.netekklesia.com/ ①坂井基始良「評伝 矢内原忠雄」, ②鈴木皇「預言者的実存・矢内原忠雄(1)」, ③渡部美代治「預言者的実存・矢内原忠雄(2)」、今滝憲雄「矢内原忠雄の預言者的精神と平和思想」