マルコ9:38-50「互いに平和のうちに生きる」

2024年9月22日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ9:38-50
説教 「互いに平和のうちに生きる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」(マルコ9:37)

38ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。39イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。41だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。42また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。43もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。44〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。48地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。49人はすべて火で塩づけられねばならない。50塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

マルコ9:38-50

【立場を越えて:シューマーカー監督】

9/19(木)、野球の大谷翔平選手がメジャーリーグ史上初の50本塁打・50盗塁を達成しました。その日の大谷選手は、6打数6安打10打点2盗塁・3打席連続ホームランでした。チームは20-4で圧勝して、プレーオフへの進出を決めました。▼敗れたマーリンズのスキップ・シューマーカー監督が、試合後のインタビューで3打席連続ホームランを浴びたことについての質問に対して答えたコメントが印象に残りました。「私たちはこのゲームに敬意を払い、(大谷選手と)勝負にいった。…私は選手たちが彼を恐れず、勝負にいったことを誇りに思う。そうするべきなんだ。マーリンズにとっては良くない日でも、ベースボールにとっては良い日だった」。彼のいさぎよい言葉は、インターネット上で評判になりました。

調べてみると、シューマーカー監督はクリスチャンでした。▼彼は現役時代に、怪我をして時間ができたことをきっかけに、試合前の10分間の礼拝に出るようになりました。当時のチームメイトで、同世代のスター選手アダム・ウェインライト投手から聖書をもらい、カーディナルスのチームの聖書研究会に参加しました。親友のウェインライン選手は自分で注解書を開き、チームメイトとメールで御言葉を分かち合ったそうです。ウェインライト選手は、数々の賞を勝ち取ったスター選手でしたが、自分については話さず、人生について語り続けたといいます。信仰深いチームメイトに導かれたシューマーカー選手は、主イエスを信じるようになり、クリスチャンとしてパネルディスカッションに登壇したり、キリスト教メディアのインタビューに出演したりしています。

チームの監督として各地を転戦する中で、家族と一緒にいられないことが多いのですが、「神は理由があって私をここに置いた」「家族を恋しいと思うが、でも他の人にインパクトを与える機会が与えられている」。「私は『置かれた場所で花を咲かせる』ことを学んでいるよ」と述べています。▼大谷選手の偉業に向けた彼の言葉 「マーリンズにとっては良くない日でも、ベースボールにとっては良い日だった」という言葉に、自分個人の名声や業績を越えて、他者の成功を喜べる、開かれたまっすぐな心を感じました。[①]

■聖書の背景

【文脈】 ペテロが信仰を告白した後、主イエスはご自分の死と復活を予告されます。主イエスは3回受難と復活を予告されますが、今日の聖句は2回目の予告の直後にあります。マルコ8:31「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえる…」。主イエスは、多くの人々のためにご自分の命を与えるために十字架に向かい始め、全ての人に仕える者としてご自分を与えようとしておられました。▼そのような時に弟子たちの姿は全く対照的です。マルコ9:33-35では、2回目の受難と復活の予告の直後に、弟子たちは「だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていた」とあります。主イエスとは全く対照的な姿です。▽そのような弟子たちに、主イエスは教えました。「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。▼ここから始まる主イエスと弟子の対話が、今日の箇所です。すなわち、①「だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていた」弟子たちへの言葉でした。そして、②十字架と復活へ向かう主イエスのように、「皆に仕える者」となり、神のために「自分の十字架を負って従う」ことを教えている文脈にあります。

■【1.主イエスの名のゆえに――小さい者を受けいれる】

【小さい者を受け入れる】

今日の箇所の前半(38-41節)には、「(主イエスの)名」という言葉が繰り返し出てきます。37、38、39節、そして40節にも翻訳されていない「名」という言葉が出てきます。

マルコ9:37「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。…」

古代社会では、子どもは取るに足りない存在・評価されない重要でない存在でした。▼そんな価値のない存在を受けいれる者は、「このわたし(イエス・キリスト)を受けいれる」と言われます。▽弟子たちは、「だれが一番偉いか」と論じ合っていました。しかし主イエスは、ご自分を信じる最も小さい者の一人と、ご自分を一体と見なしています。「この子を受けいれる人は、わたしを受けいれるのだ」。

主イエスが私たちに求めることは何でしょうか?――キーワードは「わたしの名のゆえに」です。▼私の命の恩人が、家族のように愛している人がいれば、私もその人を同じように大切にするのではないでしょうか。キリストを信じる一人の人は、どんなに小さくても、主がご自分の命を代価として買い取られた一人です。▽社会的には何のつながりもない赤の他人で、主イエスを信じているという以外には何の共通点がないとしても、主イエスのために、その人を受けいれるのです。

他の信仰者を受けいれる

38節以下は、信仰者を受けいれるという似たテーマのエピソードです。

38ヨハネがイエスに言った。「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」

これを見ると、主イエスが任命した12使徒や72人以外に、独自に悪霊の追い出しをしている人がいました。「(主イエスの)名を使って悪霊を追い出している」という言葉を見ると、あやしげな魔術師ではなく、主イエスを信じる信仰者の一人だったと思われます。弟子たちは、彼をやめさせようとしたのですが、言うことを聞きませんでした。

ヨハネはなぜやめさせようとしたのでしょうか?――「その人が私たちについて来なかったから」です。――「あなたについて行かないから」ではなく、「わたしたちについてこなかった」からでした。ここに、隠れた利己主義があります。▽「(主イエスの)名によって」神の働きを行う人を、「わたしたちについてこなかった」という理由で否定しているのです。「わたしたちについてこなかった」とは、主イエスを中心に考えているように見えるかもしれません。しかし、「主イエスの名」による御業をやめさせるということは、「私たち」と言うその心は「私自身」を基準に考えていることが分かります。▼ヨハネは結局、主イエスを救い主として認めながらも、その心の中心は自分自身のことを考えていたのでした。

【例話:神の名によって受け入れる】 アメリカの教会で、このようなエピソード(ジョーク?)があります。▼ある貧しい年配の女性が、線路の向こう側のおしゃれな教会に入ろうとして、1年以上コンタクトを取り続けたそうです。その教会の伝道師は、着古した時代遅れの服を着た小汚い感じの人を、金持ちの教会員たちの隣に座らせたくありませんでした。転入会のことで、彼女が5回目に電話をかけると、伝道師は今回も受け入れを延期しました。「どうぞ神に祈ってみてください。その後で、神が何とおっしゃったか、私に教えてください」。数週間が経ち、数カ月が経ち、伝道師は彼女の姿を見ることはありませんでした。ある日、彼はオフィスビルで床を磨いている彼女に出会い、尋ねたくなった。「ご婦人、神と話をしてみましたか?」 すると、彼女は答えました。「神様は、がっかりしないでがんばり続けなさい、とおっしゃいましたよ。神様は、ご自分も20年間、この教会に入ろうとしているけれども、私と同じように入れないのだ、とお答えになりました。」と婦人は答えました。

キリストにある名のゆえに

39イエスは言われた、「やめさせないがよい。…

この後に、主イエスは、とめてはいけない理由を3つ続けています。原語では、翻訳されていない「なぜなら」という言葉が、39,40,41節にあります。紫色の[]内は、私が原語から補った言葉です。

39…「やめさせないがよい。
 [なぜなら] だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない[からだ]
40[なぜなら] わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である[からだ]
41[なぜなら] だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、…決してその報いからもれることはない[からだ]

第一の理由は、主イエスの名で力ある業を行って、主イエスをそしることはできないこと。第二の理由は、そのような人は主イエスの味方であること。第三の理由は、キリストの名のために仕える者は、どんなに小さいことでも主が覚えていて下さることです。

キリストについている者だというので」という言葉は、直訳すると「キリストについている者だという名によって」です。▼悪霊を追い出していた人は、「{キリスト}の名によって」力あるわざを行いました。同時に、主イエスは、「キリストに属するという名のために」誰かに行ったどんな小さな行いも、覚えていてくださいます。▽ヨハネは主イエスに従ってはいても、むしろ「自分」の立場を追い求めていました。しかし、主イエスの視点に立つならば、悪霊を追い出していた信仰者も、「キリストの名によって」行う弟子の一人であり、キリストの名のためになした彼の行いは、何一つ忘れられることはありません。

■【2.つまずかせること】

つまずかせることの危険

後半の42-48節では、キリストを信じる者をつまずかせることが厳しく警告されます。

42また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

ここでは、ある信仰者が原因となって、別の信仰者が罪を犯し・神から離れ・信仰を失ってしまう「つまずき」について述べています。▽ここでいう「つまずき」とは、誰かを失望させたとか、怒らせたとか、そのレベルの問題ではないと思います。▼「人につまずく」という場合、「つまずきが起こるのは避けられない」と言われたように、「つまずく人自身」の中に問題があることがしばしばあります。「人につまずいた」という人の言い分を、吟味せずにそのまま鵜呑みにすることはできません。▼しかし、もし何かの罪や過ちが「つまずき」をもたらすならば、それは非常に深刻な罪なのだと教えています。

特に教会で何らかの責任を負っている牧師・教師・役員・奉仕者の方は、よくよく注意しなければなりません。ヤコブ3:1「多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」▼「神の恵みから・礼拝の機会から・御言葉を聞く機会から・交わりから、誰かを締め出してしまうようなことはないか?」「無意識の差別やいじめやハラスメントになるような言動はないか?」「真理について正しく教えているか?負いきれない重荷を負わせていることはないか?逆に、厳しい教えを伝えることを避けて、この世に妥協して罪を犯させることはないか?」

「つまずかせる」ことに対する戒め

主イエスは、あなたの手が罪を犯すならその手を、足が罪を犯させるならその足を、目が罪を犯すならその目を切って捨ててしまいなさいと言われます。手は私たちの行為を、足は実際に行って行う行動を、目は想像力を指します。▼これは主イエスがよく用いる誇張表現で、文字通り身体を切除することは意図してはいません。しかし、罪の誘惑を決然と断ち切ることの重要さを示す強烈な表現です。

43もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。…
45もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。
47もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。

ゲヘナとは地獄を表すのですが、もともとはエルサレムの南西を囲む「ヒノムの谷」のギリシャ語がゲヘナです。偶像崇拝のために人間の子どもがいけにえとして捧げられていたのを、ヨシヤ王が廃止し、二度と人間をいけにえにすることがないようにこの場所を汚してゴミ捨て場としました[②]。ごみを燃やす火が絶えず燃え続け、悪臭が漂い、犯罪人の死体が焼かれました。そこからこの地名が地獄の象徴になっていったそうです。▼48節は、イザヤ書66:24でイスラエルの敵が滅ぼされ、その死体が焼かれる姿が描かれています。神に敵対し、神の民が信仰に立ち続けるのを妨げた敵たちに備えられた場所です。

【罪の赦しの約束】

厳しい言葉によってされる方がないように、いくつか御言葉を加えます。

1ヨハネ2章1節「…これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」

 イエス・キリストにより頼む人が罪を犯すなら――厳密には、クリスチャンになっても全ての人が罪を犯すのですが――私たちの弱さを知り、とりなして下さる主イエスにより頼むのです。クリスチャンの悔い改めは、滅びの恐れからではなく、救いの平安の中で悔い改めるものです。

【救いの確信】

そして、次は救いの確信に関する御言葉です。

1ヨハネ3章18-20節「18子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。19それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。20なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。」

私たちが神に属していることを、どのように確信できるでしょうか?ヨハネが教える確信は、愛のうちに留まることです。信仰から出た愛を実践する人は、神のうちにとどまっていることを確信することができます。たとえ自分の心が責めたとしても、神により頼んで安心することができます。神は私たちが平安のうちに生きることを願っておられます。

【誘惑から身を遠ざける】

それと同時に、今日の御言葉から罪に立ち向かう勇敢さを学びたいと思います。

43もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。…
45もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。…
47もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。…

【適用】 この世にあって、罪との戦いはなくなることはありません。どれほど苦労するかは人によりますが、信仰に進めば進むほど、より深くより根本的な罪に向かうようになります。それは、まず私たちの心から始まるものです。▼私たちの手のわざで、神に喜ばれない、神の祝福を妨げていることはないでしょうか?私たちの手のわざは、全ての人の祝福になっているでしょうか?▽私たちの足は、ふさわしい場所に向かっているでしょうか?行くべきではない場所、避けるべき交わりに向かっていることはないでしょうか?▽私たちの目は何を見ているでしょうか。見るべきではないものを見ていることはないでしょうか。公平に判断するために、見るべきものを偏りなく見ているでしょうか? ▼「手を切り捨て・足を切り捨て・目を抉り出す」という主イエスが言われた強烈な言葉は、真理に従うことが、代価と痛みを伴うものであることを教えています。▼私たちはこの罪との戦いを、神に祈りつつ、主イエスと共に、主イエスがくださる力によって歩んでいきます。

■【3.まとめ】

49-50節は、教えがまとめられています。

49人はすべて火で塩づけられねばならない。50塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

」という言葉はゲヘナの火という言葉を受けていますが、ここではもはや地獄の火ではありません。学者たちは、「」と「」が一緒に出てくるのは、神殿のいけにえの場面だと言います。▼主イエスの弟子としての歩みには、試練の火があります。神は、金属を火で精錬するように、私たちの人生から不純物を取り除くために、苦難の火・試練の火にあわせます。▽それは、罪の結果としての苦しみや、罪との戦いの苦しみかもしれません。あるいは、愛する人の死や、思いがけない病気や苦しみかもしれません。それは、神がそれぞれの人に与えられた苦しみです。▼「」とは、腐敗を防ぎ、味をつけるためのものです。神殿では、すべてのいけにえに塩が添えられ、「塩の契約」と言われるように、塩は神との契約・交わり・関係を象徴します[③]

49節では、火によって塩味を付けられるのは、信仰者自身です。イエス・キリストが十字架の道を歩まれたように、私たちは、誰かのために犠牲となり、仕える者として歩むように招かれています。▼イエス・キリストは、十字架上でご自分をいけにえとして捧げられました。自分自身を、神へのいけにえとして捧げ尽くす、献身と礼拝の生涯へと招かれています。▼自分自身の名――損得や自分の基準――によってではなく、キリストの名によって歩む時、他者との間に調和が生まれます。▼この献身によって何かを失うならば、神ご自身がそれを償ってくださいます。

 今日の聖書箇所の次の章で、3度目の受難と復活の予告の後、主イエスはもう一度弟子たちに教えられました。

マルコ10:42-45…「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 主イエスが十字架に向かって進んでいかれたように、私たちも、忍耐と献身、犠牲の奉仕にこそ招かれています。キリストが歩まれた道に、私たちも従って歩んでまいりましょう。


[①] https://sportsspectrum.com/sport/baseball/2022/10/26/skip-schumaker-marlins-manager-coaching-impact-others/

https://www.youtube.com/watch?v=3jfTqmwVkhQ

https://news.yahoo.co.jp/articles/e581279c182c97f5f73ab0a33d4f8d84f1aecd7e

[②] アハズとマナセの時代に偶像崇拝による子どものいけにえの記事がある(列王下16:3;21:6)。ヨシヤの改革:列王下23:10

[③] レビ2:13、民数記18:19