ヨシュア記3:1-17「生ける神が共におられる」
2025年11月16日(日) 礼拝メッセージ
聖書 ヨシュア記3:1-17
説教 「生ける神が共におられる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1ヨシュアは朝早く起き、イスラエルの人々すべてとともにシッテムを出立して、ヨルダンに行き、それを渡らずに、そこに宿った。2三日の後、つかさたちは宿営の中を行き巡り、3民に命じて言った、「レビびとである祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱をかきあげるのを見るならば、あなたがたはその所を出立して、そのあとに従わなければならない。4そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。しかし、あなたがたと箱との間には、おおよそ二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない」。5ヨシュアはまた民に言った、「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」。6ヨシュアは祭司たちに言った、「契約の箱をかき、民に先立って渡りなさい」。そこで彼らは契約の箱をかき、民に先立って進んだ。
7主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。8あなたは契約の箱をかく祭司たちに命じて言わなければならない、『あなたがたは、ヨルダンの水ぎわへ行くと、すぐ、ヨルダンの中に立ちとどまらなければならない』」。9ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの神、主の言葉を聞きなさい」。10そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。11ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。12それゆえ、今、イスラエルの部族のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選びなさい。13全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。
14こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、15箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、――16上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。17すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った。
ヨシュア記3:7-17
O兄弟の証し
先週アメリカから旅行で来られたO兄弟が礼拝に出席されました。礼拝後に何人かの方といろいろお話しをされていましたが、私たちはその後に一緒に東十条のラーメン屋に行って、その後、たい焼きを食べて、いろいろお話ししました。▼彼のお父さまは牧師なのですが、元軍人でアフガニスタンとイラクに従軍されたそうです。そこで負傷して退役されたそうです。戦場で人を殺したことなどトラウマがあったのですが、それがイエス様のおかげで全く癒されて、トラウマは残っていないのだそうです。▼Oさんご自身は、14歳の時に鬱になられたのですが、聖書の学びを通して神様のことを知り、神様を礼拝する中で、それが癒されて、鬱から解放されて自由になったそうです。▼2022年にお父さまが新しく教会を開拓されて、彼はその教会でワーシップリーダーをされているそうです。
主の癒しは、個人が経験する偉大な救いの御業です。彼はそれを大きな転機として、神様がなして下さった人生の記念碑として、この世にあって主に仕える礼拝者として歩んでおられます。
聖書の背景
今日の聖書の箇所も、イスラエルの歴史における大きな転機であり、主の大きな救いの御業の記念碑となった出来事でした。▼先週の礼拝ではモーセの最期の記事でした。その後、ヨシュアがイスラエルの指導者になります。▽モーセの時代に、エジプトにいたイスラエル人は、海の中を通って荒野に出て行きました。同じように、ヨシュアの時代には、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。
新約聖書では、海の水の中を通ってエジプトを出ることは、クリスチャンの洗礼にたとえられます[1]。ヨシュアの時にも、民はヨルダン川の水の中を通って、約束の地に入り、それぞれの割り当て地を受け取り、民は安息を得ました[2]。この安息は、私たちクリスチャンのために備えられている天の安息を指し示しています[3]。▼つまり、ヨシュア記はヨルダン川を渡って、約束の地で安息を得るまでの過程の記録ですが、それはクリスチャンが洗礼を受けてから永遠の安息を頂くまでの信仰者の人生のモデルになっています。
それは、どのようなプロセスだったでしょうか?――それは、ヨシュア記においては、戦いでした。聖書の多くの教えと、それに基づくキリスト教の伝統は、クリスチャンの生涯を戦いとして見てきました。私たちは、何と戦い、どのように戦うのでしょうか?今日は、現代のクリスチャンとの類比の観点から、ヨルダン川を渡った記事を読んでいきます。
1.主の安息
この箇所からいくつかのことを見ていきたいのですが、最初に、主がイスラエルの民をカナンの地に導くことによって、与えようとしておられるものは「安息」です。
ヨシュア1:13 「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたのために安息の場所を備え、この地をあなたがたに賜わるであろう』と言った言葉を記憶しなさい。
荒野はゴールではなく、主は荒野で苦しめたり滅ぼしたりすることを目的に荒野に導いたのではありません。主は続く世代のヨシュアたちに、安息を約束し、イスラエルはカナンの地に入り、安息を得ます。「安息」はヨシュア記全体を貫くテーマです。
このヨシュア記では、この地上の生活における「安息」が与えられましたが、同時にこれは、永遠の安息の比喩になっています。新約聖書では、この天の安息がイエス・キリストによって与えられることが教えられています。
ヘブル4:1,3 …神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。…わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。…
私たちは、この安息をすでに頂いているのではありません。その「約束」を頂いて、それを待ち望んでいます。聖霊はその約束の保証です。▼そういうわけで、クリスチャンとしての私たちの立ち位置は、ちょうどカナンの地を前にしたヨシュアたちのようです。神様が「安息」を下さるという「約束」を下さっていて、その保証として、神様ご自身の「臨在」が与えられています。私たちは神が共におられる安心の中で、大いなる神の御業によって、救いの川を渡らせて頂き、先立って進まれる主に従って、「安息」を得るべく主と共に戦うのです。
私たちはこの安息に向かって進んでいます。あなたがこの地上で頂いている「相続地」は何でしょうか?それは、神と共にある安息、神と共に生きることのなかにあるのではないでしょうか。先週来られたOさんですが、最近高校を卒業されたところで、「アメリカに戻ったら、どんな仕事をしたいですか?」と聞いたところ、「礼拝をしたい」と答えられたそうです。彼はレストランでアルバイトをされていました。接客の仕事はとても忙しくて、神様のことを思う時間もなかったので、一人で静かに皿洗いをしながら主を礼拝したい、と言っていました。▼その姿に、新約聖書のマリアとマルタを思い出しました。マルタが主イエスをもてなすために気持ちが落ち着かなかった時に、マリアは主イエスの足もとに座って御言葉に聞き入っていました。マルタが彼女のことで文句を言うと、主イエスは言われました。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。「良い方」というギリシャ語は相続地の割り当てを意味する「割り当て」という言葉です。[7]▼私たちの相続地は何でしょうか?神の民にとって、神ご自身が相続地となられるのです。天においても地上においても、恵みの神が、いつも共にいて下さることこそ、私たちに割り当てられた大きな祝福です。

2.征服戦争 // クリスチャンの戦い
【ウクライナ戦争】 ウクライナとロシアの戦争で、川を巡る戦いのニュースがいくつもありました。橋を破壊することで敵の侵入を防いだり、川を越えて橋頭保を作って敵地へ攻め込もうとしたり、川は自然の障壁として、越えるのに大きな危険と労力を伴い、昔も今も軍事的に大きな意味を持つそうです。ドニプロ川を越えて橋頭保を築こうとしたウクライナ軍は、ロシア軍から徹底的な攻撃を受けました。
ヨルダン川を渡ることも、似た側面があります。▼川を挟んで敵と対峙している間は、互いに攻撃することはできません。ある意味では引き返すこともできます。しかし、一度川を越えて敵地に入るならば、それは戦場に入ることであり、いつでも敵の攻撃にさらされうる危険な場所に入ることであり、再び川を越えて引き返すことが極めて危険で前進する以外に道のない「背水の陣」です。
ヨルダン川を渡ることは、軍事的に重要な意味を持つ一歩であり、大きな転換点でした。▽ヨルダン川を渡って、この地の産物を食べ始めると、荒野で食べていたマナの供給が止まります[8]。まさに、「荒野の時代」が終わり、「カナン定住時代」に入る大きな転換点でした。
クリスチャンの戦い
ここにも、クリスチャンの人生への比喩があります。新約聖書で、モーセの時代に民が海の中を通ってエジプトを出たことは、クリスチャンが水の中を通る洗礼と比べられました。それと同じように、ヨシュアの時代に民がヨルダン川を渡ったことも、クリスチャンの洗礼と比べることができるでしょう。
ヨルダン川を渡ることに表された神様の救いは、人間の力や努力によってではなく、ただ神様の偉大な力によってなされる神の御業です。洗礼を通してもたらされる神の救いは、本質的に神の行為なのです。
ヨシュア記に学ぶもう一つの点は、神の救いにあずかった後に、戦いが待ち受けていることです。「安息」を得るためにカナンの地に踏み出した神の民は、ピクニックのように相続地に向かったのではありませ。カナンの地での安息は、神の民が「戦い取る」べきものでした。
新約聖書の教えを引用します。全てのクリスチャンへの勧めです。
ヘブル10:32 あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。
1テモテ6:12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。
それは永遠の命を頂くために避けることのできない、各自に与えられる信仰の戦いです。
別の角度から見ると、戦いは私たちの内側にあります。
ローマ7:22-24 22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
しかし、主イエスは私たちを罪と死の律法から解放して下さり、私たちは御霊のうちにあるのです。
ヤコブ4:1 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
私たちの内の神の教えに背く欲望を野放しにしてはなりません。肉にではなく、聖霊に従うのです。ここに、クリスチャンの戦いがあります。
この戦いは私たち自身が戦うべき戦いです。しかし、主なるキリストご自身が先頭に立って進まれます。▼神の箱は、民に先立ってヨルダン川の中に進み、人びとの前に、彼らの知らない道を切り開かれました。それは最初の時だけではありません。それに続くカナン諸地域での戦いは、民自身が戦わなければなりませんでした。しかし、その戦いにおいても、主ご自身が先頭に立って戦ってくださいました。このことを私たちは知っていなければなりません。
【マザーテレサ】
マザーテレサの印象的な教えがあります。マザーの宣教会の働きは、インドの気候が過酷な上に、非常に忙しく労苦の多い奉仕でした。
あるとき、一人のシスターが不機嫌な顔をして使徒職(注:貧しい人々のための務め)に出かけようとしているのを見ましたので、彼女を部屋に呼んで、「イエスは、十字架を担いで彼の前を行きなさいか、あるいは彼の後を行きなさいか、どちらを言われましたか?」と尋ねました。彼女はにっこりほほえんで、「彼に従うことです」と答えました。それでわたしは「ではなぜ、あなたは彼の前を行こうとするのですか」と再度尋ねました。彼女は笑みをたたえて出て行きました。イエスに従うことの意味を理解したのです。[9]
私たちが主に従って、神に仕え、人を愛するとき、それは、十字架を負って、主イエスの後に従って行くのです。主ご自身が先に立って進まれるのです。▼主はヨルダン川を分けられたように、続くすべての戦いにおいても、民の先頭に立って戦われました。私たちの歩みも、主に先立って頂き、主に戦って頂き、道を開いて頂く。この主に従う者の秘訣を学ばせて頂きましょう。
【主を証しする】
主の箱を担ぐ奉仕者(祭司)たちは、御言葉に従って一歩を踏み出しました。その時に主が道を開かれました。カナンの地に入って最初のヨルダン川渡河は、それに続くすべての戦いのモデルです。
主のために仕え、主の証しをしたいと願うなら、主の箱を担いだ祭司のように、御言葉に従って、一歩を踏み出さなければなりません。その時、生ける神ご自身が道を開いてくださいます。ヨルダン川に足を踏み入れましょう。そこに立ち続けましょう。そこに信仰の戦いがあります。主が道を開かれるのです。信仰を通して、主の御業を経験させて頂きましょう。

3.記念
三つ目のキーワードは「記念」です。今日のヨシュア記3:12で12の部族から一人ずつ12人を取り分けます。この人たちの役割は4章に記されています。彼らは神様が分けたヨルダン川の真ん中で、契約の箱を担いだ祭司たちがいた場所から一人一つずつ大きな石を取り、宿営地まで運んでそこに据えて、主の御業の記念碑としました。
4:7 …その箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。
【恥を取り除く】 この場所の名は、この石の記念碑にちなんで、「石の輪」という意味のギルガルと呼ばれました。イスラエルはこの場所で、神様との契約を象徴する割礼の儀式を行って、神様との契約を更新しました。そして神様はヨシュアに「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」と言われます(5:9)。ギルガルという地名と、「ころがし去る」(ガーラル)という言葉を掛けた言葉遊びです。▽モーセの世代の人々は、神様の契約に忠実でなく、約束の地に入ることができませんでした。しかし、ヨシュアたちがヨルダン川を渡り、割礼を受けて契約を更新した時、エジプトを出ながら約束の地に入ることができなかった先祖の恥を取り除いて下さいました。
【作戦基地・聖地】 ヨシュアはこのギルガルに陣営を置き、ここを拠点として戦いました。近隣のエリコとアイを攻めた時も、5人の王たちと戦った時も(10:9,15)、南の町々を攻め落とした時も(10:43)、ギルガルから出陣して、ギルガルに戻りました。イスラエルの多くの地域を支配して、諸部族に相続地を割り当てた時も、ヨシュアはギルガルにいました(14:6)。▽主が大きな御業をなして下さったその地点にとどまり、拠点を据え、絶えずそこに立ち帰り、主の約束に信頼し、契約への献身を新たにしました。
その場所は、主がなされた御業を子孫に伝える記念碑の役割を果たし、次第に宗教的な聖地となっていきました。サムエルの時代、エリヤとエリシャの時代にも、宗教的に重要な場所として登場します[10]。
【適用】 私たちも、私たちが神に出会った場所・神への献身を新たにされた出来事を振り返り、そこに立ち帰り、そこに立ち続けなければなりません。
3:7 …こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう
3:10 …「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと…を、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。
イスラエルにとって、それは生ける神が共にいて、彼らを導かれることの証明です。カナンの地に入った最初の時だけでなく、常にそうであることを教えているのです。
【適用】民が主に従って自らをきよめ、自らをささげた時に、主は彼らとともにおられ、その先頭に立って進まれました。▼「わたしはあなたとともにいる」――私たち一人一人に語りかけておられる、この主の御声を聞きましょう。それが信じられない時は、主の御業を思い起こし、主が与えて下さった記念碑を見て、またこの記録を読み返して、信仰に立ちましょう。信仰はその時々の変わりやすい感情によってではなく、記録と思い起こすこと、揺るがない御言葉による神の知識に従うことによるのです。

4.川を渡る // バプテスマ - 死と復活
4番目に、川を渡ることの霊的な意味を考えます。川を渡ることはクリスチャンの洗礼を表します。洗礼において、水は死を表し、水に身を沈めることは死を表し、自ら再び上がることは復活を表します。洗礼とは、私たちの罪のために死なれ、復活されたイエス・キリストに結ばれることです。キリストご自身の死と復活を指し示すものです。
主の臨在を現わす神の箱は、川の真ん中にとどまりました。川の真ん中の最も深い場所です。それは、新約の時代のイエス・キリストの知識に照らして考えるなら、水が象徴する死の深みに、主ご自身が立たれたことを指し示しています。ここにキリストの十字架を見ることができます。
川の真ん中には、祭司たちが立っただけではありません。民全員がそこを通っていきました。それは、死という水の中に、神ご自身が立たれて、生ける神ご自身がそれを分けられ、押しのけて、私たちのために安全な・渇いた道を切り開いてくださいました。
イザヤ43:1-3「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。2あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。3わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。
最も厳しい試練の中、死の苦しみの中にあっても、神は私たちと共にいて下さる方です。私たちが道を知らない時に、川の中に道を切り開き、死を越えて復活の命を与えて下さる方です。イスラエル人が通った川底は泥沼ではなく、乾いた歩きやすい地面でした。そのように、私たちは苦しみを通るでしょう。しかし生と死をつかさどる命の主は、死という川の底をも乾いた歩きやすい地面にして下さり、復活のいのちという向こう岸に無事にたどり着かせてくださいます。
その最も深い川底に、神の臨在の箱は立っておられるのです。死と罪と苦しみのどん底に、主イエスの十字架は立っています。そこに主は共にいてくださいます。
ヨシュアのように、恐れずに勇敢に歩んでまいりましょう。クリスチャンにとって、死という川は、乾いた歩きやすい地面です。そしてそこに、慈しみ深い神が、恵みの十字架が立っているのです。私たちは復活の向こう岸まで、安心して渡り切ることができます。
【キリストと共に死に、共によみがえった者として】
ローマ14:7-9 7すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。9なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。
私たちは既に死んだ者。私たちの語る言葉、行いにおいて、生かして下さるキリストのために、キリストと共に歩んでまいりましょう。ここに戦いがあります。しかし、主が先に立ち、主が共におられるのです。
私たちは既にヨルダン川を渡りました。私たちは、主と共に死に、主と共に行かされている者です。主は安息を与えるために、私たちを召してくださいました。それを勝ち取るようにと召され、主が私たちの先に立って戦っていて下さいます。私たちは、主の言葉に従って信仰によって踏み出し、信仰によって固く立ちましょう。そして、主が与えて下さるこの地上の相続地と、永遠の安息を目指して、一歩一歩歩ませて頂きましょう。

【補足】ヨシュア記の軍事的背景
ヨシュア記は、戦いという側面があります。ヨシュア記の2つ前の書である民数記という書名は「民の数を数える」という意味です。まさに、カナンの地に入って戦うための準備として、兵士の数を数えた出来事に由来します。イスラエルの民は、まさに戦いに向かおうとしています。
聖書の軍事的性格について、質問や批判を受けることがしばしばあり、疑問を持つ方が少なからずおられると思いますので、コメントしておきます。
第一に、征服されたカナンの人々は、子どもをいけにえとするなど、その罪が非常に重く、彼ら自身の罪が満ちた時、神の裁きとして滅びを招きました[4]。第二に、イスラエル人は、やがて彼らと同じ罪を犯すようになり、イスラエル人自身も裁きを受けるようになりました[5]。第三に、イスラエル人の失敗は、裁きと共に神様の新しい契約をもたらしました。これが主イエスの福音です。イスラエル人にも異邦人にも、信仰による罪の赦しと救いの機会が与えられました。このように、旧約聖書と新約聖書は、連続性があるとともに断絶があります。神の聖と愛は一貫していますが、イスラエルと諸民族に対する契約のあり方は、大きく変化しています。イスラエルが神への従順に失敗したために、神の聖と愛は、主イエス・キリストの十字架によって、神ご自身がその罪と罰を担う形で実現されました。(キリストは武力による軍事的指導者としてではなく、柔和な平和の王として来られました。[6])
現代のクリスチャンは、新約聖書を土台にしており、旧約聖書がカナンの民を征服せよと言っているからと言って、征服戦争を正当化することはできません。(主イエスはそれを許さないでしょう。)ヨシュアの時代のイスラエルへの命令を、旧新約聖書の展開を無視して、適用したり、現代のイスラエル国家に直接に当てはめたりすることはできません。
私たちは現代において、戦いの物語を、あくまで「悪との戦い」という比喩的/霊的意味において、私たちに当てはめます。
[1] 1コリント10:1-4「モーセにつくバプテスマ」
[2] ヨシュア21:44、22:4、23:1
[3] ヘブル3-4章。「天」という言葉がヘブル書で何度か出て来る。
[4] 創世記15:16、申命記9:4、
[5] 1列王記 21:26、エズラ9:1
[6] ゼカリヤ9:9-11
[7] ルカ10:38-42
[8] ヨシュア5:10-12
[9] マザー・テレサ「愛のあるところ、神はそこにおられる」P377-378
[10] 預言者の時代には偶像礼拝の地となり、預言者から非難された。

