ヨハネ1:1-5「光は闇の中に輝いている」

2022年12月18日(日) 待降節 第四主日 礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ1章1~5節、8章12節
説教 「光は闇の中に輝いている」
メッセージ 齊藤 良幸 役員

【今週の聖書箇所】

「1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。ヨハネ1:1-5

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」ヨハネ8:12b

今日の聖句は、11月に妻と一緒にYさんを送迎した時に、車中の会話で、「闇は光に打ち勝たなかった」という御言葉は、聖書のどこに書かれているかが話題になり、その時妻がヨハネの福音書だと、確信をもって教えてくれました。

Yさんと私は、「光というとまずイメージとして浮かぶのは、創世記の天地創造の箇所ですね。」という会話をしていました。教会に到着して、妻が聖書を開いて、今日の箇所を示してくれました。

【神が最初に創造された光】

創世記1:3-5を読むと、「神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」とあり、クリスチャンでなくても、聖書を読んだことのある人ならたいてい知っていると思います。

聖書では、最初は闇だったということです。そこに光があとから現れたのです。

今日は、アドベント第4週目に入り、コイノニア・クリスチャン・チャーチのキャンドルの4本目にも灯がともりました。

「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネの福音書1:9)とヨハネが書いていますが、どのような時代背景があったのかを少し見ておきたいと思います。

【既に預言されていた光・主イエスの誕生】

イエス様がお生まれになる700年程前に、エルサレムで活動していた、預言者イザヤに託された神様からの言葉を見ます。

「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」(イザヤ書9:2)(救い主の特徴はイザヤ書9:6-7に書かれています)

イザヤの預言の通りに、イスラエルの民は、バビロンに滅ぼされ、本当に国を失い、遠いバビロンの地に捕囚の民として移され、エレミヤの預言の通りに70年後に捕囚から解放され、国を再建できたにもかかわらず、再び神様から離れてしまい、アッシリアやギリシヤ、ローマといった国々に支配されてしまうことになります。

預言者マラキが書いたマラキ書が最後の預言書となり、その後400年間にわたり、イエス様が誕生するまで預言者は出てきませんでした。この400年をキリスト教史では「沈黙の400年(旧約聖書と新約聖書との間の断絶)」と呼んでいるそうです。

しかし、マラキ書には、その最後に「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。6彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」(4:5~6)とメシアの出現が預言されています。

マラキ書は旧約聖書と新約聖書を結ぶ書物であり、この空白の400年こそ、メシア誕生を国家的世界的に準備するために必要な期間だったといえます。

捕囚の民とされ、ローマ帝国に支配されていたイスラエルの民には、それでもなお預言者イザヤやマラキたちによって語られた救い主、メシアが再び来られるという希望がありました。

しかし、メシアであるイエス様の誕生を知らされていたのはほんのわずかな人たちでした。

【ヨハネの福音書が書かれた経緯】

本題に戻りますが、ヨハネがこの福音書を書いたのは、だいたい紀元90年ごろのことです。イエス様がよみがえられて、弟子たちに聖霊が降ってから、もう60年近くたっていました。福音は、イエス様が約束したとおり、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤ全土、そして地の果てにまで伝えられていきました。

すでにマタイとマルコとルカによってイエス様の生涯が福音書で正確に描き記されており、それは各地の教会から教会へと行き巡っていました。そして、12使徒は、ヨハネを除いてみな殉教によってすでに天に召されていました。ヨハネ自身も、90歳ぐらいのおじいさんです。

広く福音が言い広められて、教会も多く建て上げられ、かなり落ち着き始めた頃に、ヨハネは祈りの中で、イエス様の本質は何なのかをまだだれも記していないのではないか、まだ何かが足りないと感じました。

イエス様とはいったいどういうお方なのかを伝えたいという強い思いがあったヨハネに、ギリシヤ語で「ロゴス」という言葉が神様から与えられました。

イエス様は神様の言葉そのものであり、神様がご自分を表現された究極の言語なのだとして、この福音書を次のように書き始めました。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」

【光がもたらす喜びに満ちた交わり・クリスマス】

イエス様の誕生を祝うため、その誕生を待ち望む期間が、アドベントの時ですね。

私たち一人ひとりが心の扉を開いてイエス・キリストを救い主として受け容れ、イエス様が心のうちに住みはじめてくださったときのことをそれぞれ思い出しながら、クリスマスについて考えてみていただきたいと思います。

キリスト教会ではクリスマスの祝会が各地の教会ごとに持たれますが、コロナ禍以前のコイノニア・クリスチャン・チャーチの祝会・愛餐会は何といっても、「おいしいクリスマス」と表現していいほどに豊かな食物で満たされていました。

皆さんが持ち寄る逸品料理は、前菜から主菜、デザートに至るまで、見た目のすばらしさもさることながら、種類と量の豊富さ、おいしさに圧倒されたものでした。

準備は大変だったと思いますが、私にとっては、心も体も豊かにしてくれる、1年に一度の最高に楽しいイベントでした。

「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 

また、ヨハネの福音書8:12には、「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』。」とあります。

イエス様がこの世に来られて、私たちの光となってくださったからこそ、このように「喜びに満ちた交わり」ができてきたのです。

【ある牧師の証し】

クリスマスというと、とても印象に残っている証詞があります。すでに天に召されている牧師の話ですが、献身する前の高校生の時の話でした。

【ある牧師の証し】

中学生のころまで、教会に通われていたそうです。その目的はというと、牧師に聖書をテキストとして英語を教えてもらうためでした。高校に進学してからは教会にはいかなくなってしまいました。中学生のころ一緒に教会に通っていた友人たちは、高校生になっても信仰を持って教会に通い続けていたので、クリスマス・イブには信者さんたちの自宅を周りながら、玄関前でキャロリングをしていました。

その途中、高校生になって全く教会に顔を見せなくなった彼のために、かつて同級生だった友人たちが彼の所にも行こうという話になって、彼の家の前でクリスマスキャロルを歌っただけでなく、本人がいるかどうかもわからなかったけれど、みんなで大きな声で「○○君、また教会に来てね」と声をかけてくれたそうです。

2階の部屋でそれを聞いた「○○君」はその時、心の中にかつて教会に行っていたことが思い出されて、それがきっかけで、こんどはまじめに教会に通うようになったそうです。

大学卒業後、献身するようにと神様からの召しの語りかけが心の中に何度も何度もあって、母教会の牧師に相談したものの、神学校に入学するための推薦をしてくれなかったというのです。

ふつうはそれで諦めるのでしょうが、それでも神学校の校長に入学許可を頂く為、直談判に行って訴えたところ、校長もその熱心さに押されて「君がそれほどいうならやってみなさい」と入学を許可して下さったそうです。

あの時の友人たちの声掛けが無ければ、教会にも行かず献身もしていなかっただろうとしみじみとおっしゃっていました。

彼の友人たちの友情を用いて神様がみわざをなしてくださった事にとても感動した記憶があります。

古くからの信者の方々も30年以上教会に集っていたけれど、その時初めて聞いた証だと言って、私同様に大変感動しておられました。

【私たちの心を照らす主の光】

聖書に戻ります。最初に言いましたが、まず先に闇があったのです。

「光はやみの中に輝いている。」

イエス・キリストを信じていない状態は、光のない暗闇なのです。

【証し】

私は、自分では自分自身のことも周りのことも十分に見えていると思っていましたが、実は全く見えていなかったのです。

私自身の真実の心がイエス様の光に照らされたとき、なんとみじめな自分勝手な心しかなかったのかと礼拝の祈りの中でわかりました。自分が情けなく涙があふれました。こんな私のために、あなたが私に代わって十字架にかかられ私の身代わりに罰を受けて下さり、私は許されたのだと分り、それを事実としてすんなり受け入れられました。

私は「神様すみませんでした」と悔い改めた時に、なんとも言えない穏やかな気持ちに変えられて「イエス様、ありがとうございます」と心から感謝しました。

それからも、人生を生きていく中で、恐れや不安や悲しみが襲い、信仰から引き離されそうになることも確かに起こりました。社会生活をしていく中では、周りの人と調子を合わせなければ、とても生きにくさを感じました。周りの人と波風立てずに過ごすことや自分のやりたいことを中心にしていくと、必ずひずみが現れて、信仰生活だけでなく社会生活からも脱線してしまいます。

私がそのような状況になってしまったときに、妻と松下先生が祈り、支えてくださいました。その祈りと助けがなければ、このように再び教会に戻ることはできなかったと思います。そのような恥ずかしい過去をもつ私であっても、神様から離れたことを悔い改めたとき、再び赦されて教会に集い、神様をほめたたえさせていただけたのでした。

「そして、やみはこれ(光)に勝たなかった。」

この御言葉は事実であり、闇は光に打ち勝つことはありません。今日はこのことをしっかり覚えていただきたいと思います。

【毎日のデボーションより~誠実に歩む~】

さて、私は毎日の生活の中で、色々考えさせられます。ジョン・ストットの「日毎の聖書」の他に、40年以上前にプレゼントしていただいた、羽鳥明先生が書かれた「今日の知恵・明日の知恵」も読み続けています。その中で、誠実に歩むことについてこんなことが書かれていましたものを引用します。

【例話:天野半九郎】

『江戸時代の初めころ、岡崎城主水野忠義という殿様のもとに、無類の忠義者、奉公一辺倒の天野半九郎という武士がいました。

彼は、6時起床という決まりなのに、5時には起きて殿様の洗面のために金だらいにお湯を入れて待ちます。何事にも、先へ先へとまわり、とにかく励みました。ところがやがて、この人は殿様からお役御免にされてしまいました。どうしてか理由が全くわからず、殿様の御前に出てわけをただしました。

半九郎「私は殿様のおんため、一途に励んで参りました。なのにこのお役御免、なぜでございましょう」、

殿様に「お前の奉公は、お前いちにんの奉公。他の者をしのいで、お前ひとりだけ奉公すればよいという奉公じゃ。余は肩が張ってかなわぬ。もうよいわ」と言われました。

自分の正しさに固執する、肩ひじ張った誠実さだったのでしょう。そして、ダビデの詩篇26:11「しかしわたしは誠実に歩みます。
わたしをあがない、わたしをあわれんでください。」
を引用されて、神を恐れ、神に祈り、神に信頼して一筋に偽りなく歩む・・・これが誠実に歩むことだ』とまとめておられました。

私も、この年、教会の働きの中で、自分の正しさに固執することなく、誠実に歩むことが大切なのだと教えていただきました。間違いを指摘するだけでは、物事はなかなか解決しません。

【教会の歴史・それぞれの信仰の歩み】

さて、コイノニア・クリスチャン・チャーチは、1980年に「コイノニア・キリスト教会」として、豊島五丁目団地の1室で産声を上げました。1984年に王子1丁目に会堂を借りて、外に向かって伝道を開始し、1987年には、新会堂を現在の王子3-16-7に建築し、福音伝道の拠点を得ました。

2016年には、松下明子先生が加わって下さり、松下和弘先生を支え、その後主任牧師として教会をも支えて下さいました。今年から王子5丁目団地の一室で「憩いのみぎわ」を開設され、お二人での伝道活動を始めておられます。2022年は、堀部里子先生が主任牧師となられ、堀部舜先生とともに、本格的に御言葉を取り次ぐ伝道の働きを始められた区切りの年となり、特別な年として教会誌の1ページに残ることになりました。教会に歴史があるように、皆様お一人お一人の人生に歴史がありますね。

皆さんが、生まれてからどんな時に、どういう状況で、イエス・キリストをご自身の救い主と信じる決心をされて、洗礼を受けたのか、聖書を読み心に留まった御言葉のこと、祈りがどのように答えられたか、または答えられなかったか、教会の礼拝を守り神様をどのようにほめたたえてきたか、他のクリスチャンたちと交わりを続けてきた中で感じたこと、救われて本当に良かったと感じられたこと、また今も良かったと感じ続けていること、実際に生活する中で困難や厳しい状況をイエス様とともにどのようにして乗り越えてきたか、それらの体験や一つ一つの出来事を、具体的に、ご自身の言葉で書き留めておいて、ご自身の歴史書としてそのことをいつでも、紐解けるようにしておいていただきたいと思います。

イエス様と皆さんお一人ひとりの個人的な関り、その事実こそが神様の御業のすばらしさを現すことができる証詞となっていて、その証詞を伝道の働きに神様がもちいてくださることをもっと体験させていただきましょう。

来週はいよいよクリスマスを迎え、礼拝・祝会・愛餐会がもたれます。イエス・キリストの誕生を心からお祝いするとともに、今年もここまで守られてきたことを感謝したいと思います。

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』。」8:12)

「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(1:4-5)