ヨハネ11:32-44「イエスの涙」
2024年11月10日(日)礼拝メッセージ
聖書 ヨハネ11:32-44、イザヤ25:6-9
説教 「イエスの涙」
メッセージ 堀部 里子 牧師
イエスは涙を流された。…
ヨハネ11:35、39、40、44
「その石を取りのけなさい。」…
「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」…
「彼をほどいてやって、帰らせなさい」
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
イザヤ25:8-9
その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう』と。
おはようございます。今日は「召天者記念礼拝」です。先に天に召された方々を偲び、すべての時を司る主イエス様に心を共に向けたいと思います。
流す涙の意味
ある葬儀に参加した時のことです。献花を終えると牧師夫人が私を待っていて、思いっきり正面から抱きしめてくださり、共に泣きました。後から、そのことを思い返した時、それは羊の群れを牧する者としての「牧者の涙」だと思いました。牧会者として一匹の羊を失う悲しみ、悔しさ、至らなさ、天にある喜び、慰めなど様々な思いが入り混じった涙でした。親や家族が流す涙があり、友人や同僚が流す涙があり、同じ立場の者が流す涙があります。
共に泣く主イエス
イエス様も涙を流されました。「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)英語では「Jesus wept」で、聖書で一番短い節です。イエス様に対しては、「静かに涙を流された」という意味の単語が使われています。33節のマリアとユダヤ人たちも泣いていますが、違うギリシャ語が使用されています。
「イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり…」(ヨハネ11:33)
ユダヤ人の葬儀では、嘆き悲しんで泣くことはとても重要でした。人が死ぬと家族は嘆き悲しむことで近所に葬儀を知らせたそうです。ユダヤ人にとって泣く行為は、自然な悲しみであると同時に、死者に対する礼儀であるという認識があるからです。ですから、親族も弔問客も皆大声で泣くのだそうです。また、葬儀が終わった後も一週間泣き続けるために、専門の泣き女や二人以上の笛を吹く人を雇ったりするほどだそうです。
ラザロの死の意味
マリアとマルタの兄弟ラザロが病気であり、彼女たちはイエス様なら彼を助け癒してくださるだろうとヨルダン川の向こうにいらしたイエス様に使いを送りました。しかし、イエス様は「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(ヨハネ11:4)とおっしゃり、ラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられました。結局はラザロが死んで四日後にべタニアに到着されました。なぜイエス様は遅れてラザロの元に行かれたのでしょうか。
イエス様はラザロが病気で死ぬことをご存じでした。しかし、イエス様の「死」に対する捉え方は他のユダヤ人たちと違っていました。「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」(ヨハネ11:11)、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(ヨハネ11:23)イエス様はラザロが眠っているだけで、起こしに行く、よみがえるとおっしゃったのです。
私には二人の弟がいますが、先週沖縄に一時帰省した時、三人で半日を一緒に過ごしました。弟たちにわざわざ仕事を休んでもらい食事をし、親戚を訪問し、地元の運玉森の展望台に登り、いろいろな話をしました。私は留学に行ったり、大学から関東で暮らしたので、お互い大人になり過ごす時間は初めてでした。昔は自分のことで精いっぱいで、顔を合わせると喧嘩していた弟たちが父親になり、話してみると私が知らない面もたくさんありました。特に家族のことを真剣に話す姿に尊敬の念を抱きました。娘の初任給で買ってもらったアクセサリーを見せてくれた上の弟、思春期真っただ中の子どもたちとの対応に苦慮しながらも前進している下の弟、どちらも私の目には輝いていました。
マリアとマルタの弟のラザロが病気で瀕死の状態になった時、イエス様に癒してもらおうと願った姉たちの気持ちは容易に理解できます。私も二人の弟のどちらかでも病気になったら自分にできることを必死にすると思います。しかし、同時に神の時を信頼して待ち望みたいと思います。
【主イエスの目的】~信じるため、神の栄光のため~
イエス様はマリアとマルタが願ったようにすぐにはラザロのところに来てくださいませんでした。実際にラザロが死んだと聞いてからも動揺されませんでした。
「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」(ヨハネ11:14‐15)と、ラザロが死んだことを確認して出発されたようにも思います。このようなイエス様の言動には明確な目的がありました。それは、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。
はっきりと「信じるため」であると語っておられるのです。
「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ11:40)
「あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」(ヨハネ11:42)。
イエス様は神の子として地上に遣わされ、もうすぐ十字架で死ぬことが決まっていました。これまでに多くの人の病を癒し、奇跡を行われて来ましたが、人間イエスとしての奇跡はラザロのよみがえりが最後の奇跡となります。イエス様はラザロの死を通して、周りの者たちが復活の主を信じ、また神の栄光のためであると目的をはっきりおっしゃっています。「神を信じること」と、「神の栄光を見ること」が一つのセットなのです。神を信じずに奇跡(神の栄光)を見ることを求める人が多いのではないでしょうか。イエス様は人間の不可能に挑戦されました。
イエス様はラザロの遺体の場所を聞かれ、ラザロのところへと行きます。「彼をどこに置いたのか」(ヨハネ11:34)
「イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。」(ヨハネ11:38)
主イエスの涙を見た人たちの反応(36-37)
①主イエスの涙はラザロに対する深い愛であったのだと理解した人たち
②ラザロの死の前に何もできない無力さを嘆いていると誤解した人たち
両方の人たちの反応には人間としての限界がありました。つまり、イエス様を救い主だと信じておらず、且つラザロの復活までは考えていない反応でした。イエス様はマリアや共にいる人々と一緒に涙を流されましたが、その涙の意味は愛する者に対する深い憐れみの涙でありましたが、人々の不信仰のために流した涙であり、更には人間が経験する死に対する憤りの涙でもありました。ですから私たちは絶望を感じて嘆く必要はないのです。私たちの痛みも悲しみも知ってくださる主に、心の思いをぶつけて祈り、恵みを待ち望むことができます。死が終わりだと考える多くの人たちに対して、私たちはその気持ちに共感しながらも、真の慰め主である主を指し示すことができますようにと願います。人間の生死が問題でなく、信じて神の栄光を現されることが目的なのだと信じたいと思います。
【主イエスのチャレンジ】~共に労する喜びへの招き~
ラザロが葬られたお墓に来られたイエス様は人々にお墓の入口を塞いでいる石を取りのけるように言いました。「石を取りのけなさい」(ヨハネ11:39)この石は何でしょうか?この石こそ私たちの信じる心を妨げる石ではないでしょうか。イエス様の招きや命令に対して言い訳はいくらでもできます。「もう死んで四日も経っているから。臭くなっているし元には戻らない。もうし死んでしまったのだから何をしても無駄だ」等々。
またこの石は私たちの現実の中の一般常識、頑なな心ではないでしょうか。「こんなに祈っているのに結果が見えない、この状況の中で神は本当に働いているのだろうか」という不信仰な思い、前に進めない恐れ。。。だからこそイエス様はおっしゃったのです。「石を取りのけなさい」(ヨハネ11:39)と。
イエス様は神の子ですからイエス様の力で墓の前の石を取りのけることがお出来になったでしょう。しかし、イエス様は敢えて人々に取りのけることをさせました。そして、ラザロを生き返らせた後も、ラザロの手足と顔に巻かれていた長い布を人々に「彼をほどいてやって、帰らせなさい」(ヨハネ11:44)とおっしゃいました。それは私たちが傍観者で終わるのでなく、主の働きに共に与るように招かれたのです。「一緒にしよう」と。イエス様は新しく主を信じることへの開眼と共に労する喜びへの招きを同時にされたのです。
ただ共に涙を流し、泣くことしかできなかったラザロを取り巻く人々に、彼らがするべき働きを与えて神に業に与らせたのです。正に「沖へ出でよ」と弟子たちに言ったようにです。信じる信仰は主の奇跡を入れる器となります。
人生の転機に共におられる主
ヨハネの福音書でイエス様の奇跡は、「カナの婚礼」から始まり11章の「ラザロのよみがえり」で終わります。人の人生の転機にイエス様はいつも共におられるお方です。ラザロは「ラザロよ、出てきなさい」(ヨハネ11:43)というイエス様の言葉一つで起き上がりました。ラザロに「あなたにはまだ地上で使命がある。墓の中にとどまっていないで出て来なさい」と言わんばかりに。正に天地創造の時、父なる神が言葉で「光あれ」と一つひとつを形造って行かれたことを彷彿させる場面ではないでしょうか。またラザロの復活は、この後に続くイエス様の十字架の死と復活の予兆とも言えます。
ラザロの家族はイエス様を信じ、イエス様と親しい関係を築いてきました。それなのに、ラザロの病気と死という苦しみと悲しみが家族を襲いました。クリスチャンだからといって苦しみがないわけではありません。
私の知り合いの方が病気になりました。その方のお孫さんが、家族の病の癒しを願って、毎週教会に来るようになりました。しかし、家族は召されて行きました。するとお孫さんは「イエス様は命を助けてくれなかった、もう信じない」と言い、教会に来なくなってしまいました。皆さんならこのお孫さんにどのように声をかけるでしょうか。神様は癒すこともあれば、病を残すこともされます。私たちは神様の目的に注目したいと思います。病という試練を通して信仰が成長し、神の栄光を共に見ることができますように。
I姉のこと
2018年にお召されになったIさんの証しを今回読みました。召天される一年前ほどの礼拝での証しです。Iさんは幼くしてお父様を天に送り、苦労された人生を送られました。ご結婚されてからも様々な試練が彼女を襲いました。40歳の時にクリスチャンの女性に誘われて教会に通うようになりました。
そして「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招きいれてくださった神ご自身があなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、固くたたせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10新改訳第3版)の聖書の言葉で洗礼に導かれました。その後、病に倒れますが不思議な体験をされ「すべてをお委ねしますので、恵みと憐れみをもって導き、たくさんの御言葉を与えてください」と祈るようになり、神様は生きておられ、私を困難から救い出してくださると確信するようになりました。
Iさんの言葉を引用いたします。「振り返れば、本当に戦いの多い人生でした。だからこそ、主のご愛の深さがよくわかるようになったのだと信じています。…癌が肝臓に転移していることもわかり、地上の生涯の時間がそう長くないことを知らされました。…ですから、残された日々を、主が私のために苦しんでくださったように、自分の痛みを主の十字架の苦しみに重ねながら、精一杯主に感謝して生きることが私の務めであると信じています。信じる主イエス・キリストの御足の跡を辿ってゆきたいと願っています。」
主イエスと共なる終活
皆さんも今までにいろいろな種類の涙を流されてきたことでしょう。そしてこれからも涙することがあるでしょう。しかし、イエス様は涙の向こうにある命を見せてくださった方です。私たちはいつか肉体の死を迎えます。ラザロも一度は生き返りましたが、その後死にました。私たちはいつどのように死を迎えるのか分かりません。いきなり死を迎えるのでなく、死ぬことに対する準備が必要でないでしょうか。
「終活」という言葉がありますが、終わりを見据えて今を生き抜くために、イエス様が「あなたの同伴者とならせて欲しい」と声をかけてくださっています。一度死んでよみがえり、今も生きておられる方はイエス・キリストだけです。生きておられる神を信じることで、神の栄光を共に拝して行こうではありませんか。肉体は死ですべてが終わるのではありません。そこから始まる「永遠の世界」があるのです。
イエス様の言葉の権威によってよみがえる「復活の信仰」を私たちの内に働くよう聖霊の導きを求めたいと思います。いかなる環境に身を置いていたとしてもイエス様を人生の中心にお迎えし導いていただきましょう。
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
詩篇126:5-6
種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。