ヨハネ15:9-17「主イエスの愛にとどまる」

2024年5月5日(日)礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ15:9-17,Ⅰヨハネ5:1-6
説教 「主イエスの愛にとどまる」
メッセージ 堀部 里子 牧師

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。ヨハネ15:4-5

【今週の聖書箇所】

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。

ヨハネ15:9-10

 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

1ヨハネ5:3-5

おはようございます。ドイツ訪問から戻って来て一週間以上が経ちましたが、改めてお祈りをありがとうございました。私たちが留守中に、教会と礼拝を守ってくださった皆さんと神様にただ感謝の気持ちでいっぱいです。目を閉じると心はドイツに飛ぶことができます。

星野富弘さん

帰国してから星野富弘さんが召天されたニュースを耳にしました。教会員のY兄は星野さんの隣りの町のご出身で、YouTubeで葬儀に参加されたとのこと。Y兄がお好きな詩画をシェアしてくださいました。

「いのちが 一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

若くして事故により首から下が動かなくなった星野さんにとって「いのちより大切なもの」とは何だったのでしょうか。体育の先生であった星野さんが口で筆を持ち、詩や絵を描いたりすることに目覚める動機が「本当の愛・神の愛」に出会ったからではないでしょうか。

星野さんは聖書に書かれている神と出会い、その愛の中に生涯とどまった人だと言えます。

神様は見えませんが、愛を体現化することは可能です。私は高校時代に一年間の交換留学でしたが、お世話になったホストファミリーとなぜ数十年も連絡を互いに取り続けることができたのだろうかと考えてみました。答えは「ホストファミリーからの一方的な無償の愛の故」に尽きます。毎日のご飯を作っていただき、ドイツ語や文化・習慣を教えてもらい、休みには旅行に連れて行ってもらい、毎月お小遣いをいただき、至れり尽くせりの一年でした。日本に帰国してからも誕生日とクリスマスにはギフトとして送金してくる家族でした。クリスチャンであるホストファミリーは正に神の愛を見える形で私に表してくれたのです。

ホストファミリーとのつながり

しかし私は当時、言葉や態度で感謝をあまり表してこなかったように思います。なぜこんなに愛されているのか分かりませんでした。ですから私は日本に帰国してからはホストファミリーに注いでもらった愛に応えようとまめに連絡を取っていたと思います。

今回ドイツに行って、ホストファミリーが見せてくれたものがありました。当時私が作成した「Dankbuch(ThankYouBook))」です。私はその存在をすっかり忘れていたのですが、そこには私が今回会ったら伝えたいと思っていた感謝の言葉が写真と共に綴られていました。ホストファミリーは私が帰国後、折に触れて何度もDankbuchを読み返しては共に過ごした一年を思い返し、知人や友人にDankbuchを見せて当時の恵みや祝福を話したと言っていました。留学はホストファミリーで決まると言っても過言ではありません。ホストファミリーが神様を愛し、隣人を愛する姿に私は多くを教えられました。そして「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)の聖書の言葉を自分の意思で行ったことを思い出します。ホストファミリーとの関係を通して私は「関係を維持する」ことは、正に神様との関係の維持、つまり神様の中にとどまることと同じだなと思わされました。

ぶどうの木のたとえ

今朝、開かれた聖書の箇所はヨハネの福音書15章ですが、そこには「ぶどうの木と枝」のたとえを用いてイエス様がご自分と結ばれることの大切さを教えてくださっています。イエス様はご自分をぶどうの木、父なる神様を農夫、そして信じる者をぶどうの木に例えられました。ぶどうの木と枝は一つに繋がっているからこそ、根からの養分が幹を通して枝まで行き渡り、実を結ぶことができます。木と枝の関係は一つであることです。これは命を左右する繋がりです。枝が木を離れると枯れてしまいます。

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(15:4-5)

【主イエスの愛にとどまるには】

①思い起こすこと

では主の愛の内にとどまるためにはどうしたらよいのでしょうか。一つ目は思い起こすことです。日本的な言い方をするなら「恩義を忘れないこと」です。私のホストファミリーは私のDankbuchを何度も読み返して一年間の祝福を思い起こして神様に感謝をしていたと言いました。

今朝は聖餐式がありますが、イエス様は最後の晩餐の時、弟子たちに杯とパンを取って「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)とおっしゃいました。今日、私たちが聖餐式に与るのは、主イエス様が愛を体現化してくださった十字架を想起するためです。私たちは、イエス様が十字架に架かり、命を懸けて救ってくださったことを絶えず思い起こし、そこに立ち返り続けるのです。

②「主の言葉を守ること」

「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。」(15:10)

先週の子ども礼拝の後に一人の子が質問をしました。「おばあちゃんは教会に来ないのに、なぜ僕は毎週教会に来ないといけないの?僕は強制されて来たくない」と。私は彼に「正直に自分の気持ちを話してくれてありがとう」と言った瞬間、彼はポロポロと大粒の涙を床に落としました。私も幼い頃は周りの大人に連れられて教会の礼拝に出席していました。その時の日曜日は礼拝に行くという習慣が、今の私の教会生活を形造ったと思っています。後になって良かったと思えるのです。

・後で分かるようになる

イエス様が十字架に架かる前、弟子たちの足を洗いました。ペテロはなぜ師であるイエス様が弟子の足を洗うのか分かりませんでした。イエス様は言いました。「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(13:7)今は分からなくても後ではっきりと分かる時が来ると信じます。私たちも次の世代の子どもたちのために、ある程度の方向付けをしてあげ、子どもの気持ちに寄り添いつつ、イエス様が私たちのために死なれた意味を何度も分かりやすく説明し、証しを交えながら伝えて行きたいものです。

礼拝を毎週守ることはキリスト者の習慣です。習慣は慣れていない人から見るなら、義務に見えて大変だなぁと思うかもしれません。毎日聖書を読むことやお祈りすること、そして毎週礼拝に出席することなどは、コツコツと信仰生活を積み上げていることになり、そのプロセスの中で生きた神様を体験していく大切な霊的耳や目を養っているのです。習慣を辞めることは簡単ですが、再び同じように習慣を持つことは倍のエネルギーが必要になります。子どもの内は分からないことでも、大きくなって自分で信仰の決断を迫られる時が必ず来ます。

・一番大切な戒め

父なる神様の戒めを守ること、守り続けることはキリストの愛の中にとどまっていることなのです。その大きな戒めの一つが「互いに愛し合うこと」です。

「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(15:12)

ある時、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」(マタイ22:36)と律法の専門家がイエス様に質問をしました。イエス様は質問に対して次のように答えました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ22:37-40)

「互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めは、この二つの戒めをまとめた教えです。神を愛し、隣人を愛することをまとめると、「互いに愛し合うこと」になります。愛は一人で全うすることはできません。必ず相手が必要です。愛そうとするとき、難なくできればよいのですが、あらゆる関係性の中に愛することを難しくさせるものが存在します。難しくても愛することは簡単でないことを学ぶ良い機会となり、それによって成熟の道を辿り、愛することに対して知恵や工夫する心を主が与えてくださいます。人を愛せないとき、神様を愛することに軸を置き、集中したいと思います。

・遠くから愛する

私はある時、平和な関係を保つのが難しい人がいました。その人は、私のすることにいちいち口を出してきて、必要なこと以上に言葉が多いと私は感じていました。平和を保つためにあらゆることを試してみました。ある時、限界を感じて更に神様に祈ると、「遠くから愛してみなさい」という思いが与えられました。近くで愛するから傷ついたり、嫌な思いをするのだと気付き、遠くから愛することを実践してみました。実際の距離感はあまり変わらないのですが、間に神様が入る余地が生まれ、嫌いになったり憎んだりすることから私の心が守られました。そして時を経て、ゆっくりと愛することができるようになっていきました。

「神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:2-5)

③「神の任命を信じること」

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(15:16)

主の愛にとどまることの三つ目のポイントは、「神様が私を選んでくださった」と信じ感謝することです。「神の選び」を思う時、県費交換留学制度に応募したことを思い出します。応募のきっかけは、自分の状況を変えるためでした。親の意志でなく、自分の意思で応募しました。しかし、実際に留学生活が始まると多くの壁にぶつかりました。壁にぶつかるとホストファミリーの両親は私の状況を悟ってよくドライブに連れて行ってくれました。そしてかけてくれた言葉が「神様があなたを選んで私たちの家族にしてくれた」ということでした。当時、私は神様から選ばれたという意識が薄かったのですが、何度もそのように言われると不思議に「本当に神様が選んでくださったのだ」と信じるに至るようになりました。「神の選び」は私たちの意志を越えたものです。様々な状況に私たちは置かれますが、その背後に神の意思決定、そして選びがあることを覚えたいと思います。そして、選ばれた者は信仰の戦いが待っており、霊の戦いに勝利しなければなりません。勝利するためには「主の愛にとどまる」ことが必須になります。

・戦いに勝利する

先週、日本サッカーのAFC U-23アジアカップサッカーリーグがありました。オリンピック出場をかけた試合で、見事日本が優勝しました。その代表チームの一人に沖縄県出身の野澤大志ブランドン・プロサッカー選手がいます。2002年12月25日生まれの21歳、FC東京所属のゴールキーパーです。FC東京の選手紹介を読むと彼がはっきりと自分の信仰を言い表していることに感銘を受けました。

試合前に必ずすること⇒聖書を読む、祈る。

試合後に必ずすること⇒聖書を読む、祈る。

夜寝る前にすること⇒聖書を読む、祈る。

ストレス解消法⇒聖書を読む、祈る。

一番大切なもの⇒聖書、祈り。

今シーズンの目標(プライベート)⇒聖書を読むことと祈りに励む。

公式HPに自己紹介にこんなにはっきりと自分がイエス・キリストを信じる者だと表している若い選手は最近では稀だと思います。勝負の世界で信仰を持って生きることはどういうことでしょうか。元テニス選手でクリスチャンと公言している世界ランキング二位まで上り詰めたマイケル・チャン氏は信仰と勝負は似ていると言いました。

「トップ選手の間では、勝因は二割は身体面、八割は精神面と言われる。勝つと信じなければ絶対に勝てない。同じように人生での出来事は偶然ではなく、神がいると信じたとき、人生を理解できます。」

キリストの死から復活した勝利を土台に歩む人生は、神の愛に打ち立てられた人生です。三位一体の神の交わりに招き入れられ、キリストと結ばれ一つとなる人生です。ぶどうの木のたとえは、霊的に結ばれることを意味しています。主の十字架の死が私たちの死となり、主の復活が私たちの復活となり、主の聖さによって私たちも聖くされるのです。イエス様を信じることは、イエス様と結ばれてその命を受けて生きて行く存在とされたことを意味します。

「わたしの愛のうちにいなさい」(15:9)の「いなさい(別訳:とどまりなさい)」は「イエス様の連合に入ること」の意味があります。15章だけで何度も、言語が同じ「つながる」という言葉が使われています。もはや「主の愛のうちにとどまること」は枝である私たちの大切な役割ではないでしょうか。とどまることで命が流れ、生命が保たれ、喜びがあふれてくると主は言っています。

「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(15:11)

イエス様の愛にとどまることは決して受け身ではありません。積極的な行動です。なぜなら私たちの応答が求められるからです。ペンテコステを前にしています。主の愛にとどまり、更に聖霊の力を共に待ち望みましょう。「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。(ルカ24:49)