ヨハネ17:21-26「わたしたちが一つであるように」

2025年1月26日(日)礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ17:21-26
説教 「わたしたちが一つであるように」
メッセージ 堀部 舜 牧師

わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

21父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。22わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。24父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。25正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。26そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。

ヨハネ17:21-26

【総会と年間聖句】

 今日は教会総会が持たれます。昨年1年間の出来事を思い出して、「あんなこともあった、こんなこともあった」と盛りだくさんの1年でした。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ(られる)」「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」この御言葉の真実さを、改めて心に刻んで頂きました。

今年は、ピリピ1:9-11の御言葉が掲げられています。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、10それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、11イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」▼今年の年間聖句は祈りの言葉ですが、今日は、祈りの箇所を取り上げてみたいと考えて、有名な主イエスの祈りの箇所を読んでいきたいと思います。

【聖書の背景】

今日の聖書箇所のヨハネ17章は、十字架につけられる前の夜、最後の晩餐かゲツセマネの園での祈りの中で祈られた、主イエスの祈りです。十字架を目前にして、主イエスが集中的に祈られた最後の祈りの一つです。それだけに、主イエスの働きの全体と、教会に対する壮大なビジョンが含まれ、キリスト教会のあるべき姿と使命が示されています。全ての時代の教会は、この主イエスの祈りのうちに覚えられています。

【1.すべての人を一つに】

17章全体をまとめる21節以下の祈りは、「みんなの者が一つとなるため」という言葉で始まります。「みんなの者が一つとなるため」とは、どういうことでしょうか?

最後の晩餐の席で弟子たちは「誰が一番偉いか」と言い争いました。主イエスが十字架でご自分の命を与えようとしていた時に、彼らのうちに党派心や競争心が見え隠れしていました。▽しかし主は、一つにされた神の民を起こすために、十字架に向かわれました。

【旧約預言】 聖書の歴史では、ユダヤ人はバビロン捕囚で諸国にバラバラに住むようになりますが、預言者たちは、神が彼らを「一つに集められる」恵みの時代を預言しました。その実現が、新約聖書の一つとされた神の民である「教会」の誕生でした。

【現代】 現代では、JEA日本福音同盟の標語は、ピリピ1:27「一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い…」です(口語訳にて引用)。現代社会の諸課題を前に、聖書を神の言葉と信じる諸教会が、様々な違いを横に置いて、一つになって共に戦う姿勢が表れています。

社会では、奴隷制の廃止でも、米国の黒人差別反対の公民権運動でも、南アフリカの人種隔離政策の廃止と民族和解でも、東欧諸国の冷戦下の状況を変革したのも、ハンセン氏病患者に寄り添い、差別と戦ったのもキリスト者たちでした。▼教会にも多くの過ちがありましたが、教会には、人と人との隔ての中垣を取り除く、主イエスの十字架と復活の力が確かに与えられています。

【2.キリストのうちにある】

私と里子牧師は、性格も育った背景も、趣味も得意分野もまったく違います。イエス様を信じていなければ、全く接点がなかったと思います。ただ一つの共通点が、イエス様を信じていることです。イエス様を信じたからこそ、同じ教会に通い、共に奉仕し、共に時間を過ごし、共通の友人を持ち、キリストにある共通の視点をもっています。

教会も、同じような側面があります。教会に集まる人たちは、性格も職業や背景、ライフステージや家庭環境、健康状態も、あらゆるタイプの人たちです。バラバラであった教会が一つにされているのが、「主イエスのうちにある」ということです。

21節(岩波訳)「父よ、あなたが私のうちにおられ、私もあなたのうちにいるのと同じように、彼らも私たちのうちにありますように。

私たちのうちにある」とありますが、まず、「キリストのうちにある」ということを思い巡らしたいと思います。▽ヨハネ福音書15章では、ぶどうの木のたとえで、この言葉遣いが出てきます。ぶどうの枝が幹に「つながって」いるなら、その養分が枝に届いて、やがて実を結ぶように、「キリストのうちに」とどまり、つながっているなら、幹である主イエスから、永遠の命の養分が流れてきます。「キリストのうちにある」とは、信仰を通してイエス様につながって、そのいのちの恵みにあずかることを指しています。

父よ、あなたが私のうちにおられ、私もあなたのうちにいるのと同じように、彼らも私たちのうちにありますように。」(21節、岩波訳)

【信仰によって受け取る恵み】

 神様の恵みというのは、基本的には目に見えず、感じることのできない、ただ信仰によって受け取るものです。▽私たちは時に、あるいは絶えず神様の臨在を感じ、恵みの慰めを頂きます。しかし、それは神様が表してくださる一部分だけです。復活の命は、天のキリストのうちに蓄えられて目に見えないように、私たちが知り・感じ・実感することのできる恵みは、天に蓄えられた恵みの本体のごくごく一部分です。私たちは、目に見えない神様に信頼して、この恵みを受け取ります。

【北海道の開拓村】

 私たち夫妻がお世話になったある教会役員さんのお父様の話を伺いました。お父様は戦後間もない時期に、北海道のクリスチャンの開拓村に移住します。しかし、北海道の開拓村の生活は本当に厳しく、本当に食べるものがなかったそうです。お父さんは、村の有力者に呼ばれて、冬になるとここでは生きていけない、家族も飢え死にをするから、帰りなさいと勧められました。しかし、お父さんは「大丈夫です。神がここに導かれたのですから、神が守ってくださいます」と言って、村にとどまりました。「馬鹿な人だね」と言われたそうです。お父さんは農家をしていたのに、冬になると、米櫃からどんどん米がなくなっていく現実を経験しました。しかし、お父さんはそこにとどまりました。多くの子どもが生まれ、その役員さんも貧しい厳しさの中で育たれたのですが、「守られたんです」と証しされました。▼入植から40年近く経って、あの村の有力者の方がやってきました。議員を経験して、高齢になっていました。その方は家には神棚があり、クリスチャンではなかったのですが、お父さんに向かって「あなたの神はすごい」と言われたそうです。そして、その数日後に、有力者の方は亡くなられたそうです。

「キリストのうちに」「キリストにつながって」、目に見えない神の力に信頼して、歩んでまいりましょう。▼キリストと共に歩むことは、キリストの苦難をも共にすることです。主は苦難を与え、時にかなって苦難を乗り越えさせ、苦難を通して、私たちの信仰を成長させ、より深く主を知り・主を愛し・信頼する者としてくださいます。▽苦難の中で御心に従い続ける時に、信仰の一貫性が訓練されて、試練の中でも揺るがないように、信仰が練り強められます。これこそ、主が喜ばれる捧げ物で、私たちを通して主が栄光を受けられます。

【3.三位一体の一致】

キリストのうちにある」ことについて述べてきましたが、21節で「わたしたちのうちにいる」とあるように、「三位一体の神の交わりにあずかる」と言われます。▼22節では「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」とあるように、三位一体の神の一致が、教会の一致のモデルです。三位一体がモデルとは、どういうことでしょうか?

1.交わりの中に生きる

第一に、人間のあるべき姿は、「交わりの中に生きる」生き方だという事です。世界中でベストセラーになった「7つの習慣」という本で、実り豊かな人生を送るために、子どもが大人に成長していくうえで、親に「依存」した生き方から、自分の生き方を自分で主体的に選び・責任を取る、「自立」した人間になることを教えます。しかし、それが最終目標ではありません。▼私たちは、関係性の中で生きています。職場で、家庭で、教会で・地域で、良い実を結んでいくためには、「相互依存」の関係性に成熟してこそ、真に豊かな実を結ぶ人生を送ることができると教えています。▽この本を勧めているわけではありませんが、「自立」だけが重要ではない、人生は本質的に「相互依存」的なものだ、そして、真に「自立」した人だけが、豊かな健全な「相互依存」の関係を歩めることは、真実だと思います。

三位一体の神様は、一つの位格が孤立して存在することはありえません。分かちがたく一体なのです。同じように教会は、一人が苦しめば皆が苦しみ、皆で支え合うものです。この教会も、そのように歩んできました。▽パウロ自身、時に支える側になり、時に支えられる側になって、愛の交わりに生きてきました。私たちも、「与え上手」であり、「受け取り上手」になりたいと思います。

2.上下関係がない

第二に、教会のモデルである三位一体の神には、上下関係はありません。信仰告白が、そのことを明確にしています。キリストは、神に等しい存在でありながら、自ら自分を低くし、神に従われました。それは、自発的な服従です。劣った存在として服従するのではなく、等しい存在でありながら、自らを低くして、服従されました。三位一体の神は、自分の栄光を求めず、互いの栄光を表します。▼ここに、教会のモデルがあります。教会の交わりに上下はありません。ユダヤ人も異邦人も、男も女も、奴隷も自由人も、富める者も貧しい者も、分け隔てなく一つの民とされました。貧富の差も、年功序列もそこにはありません。互いに仕え、互いを敬い、相手を自分より優れた者と思います。▽教会にあるのは、身分の上下ではなく、役割の違いです。優れた役職につく者は、キリストがそうされたように、すべての人に仕える者となるのです。▽「(三位一体の神)が一つであるように、教会も一つになる」という愛の一体性は、そのようにしてのみ、実現されます。

3.神の性質を反映した交わり

第三に、教会の交わりが、神のご性質を反映したものとなる時に、「(三位一体の神)が一つであるように、教会も一つに」なります。23節や26節で、神の「愛」が述べられます。同時に19節で、教会が「真理によって聖別される」=「聖なるものとされる」ようにと祈られました。▼私たちの愛には、聖なる愛でなければなりません。教会は、真理の上に建てられなければなりません。互いの徳を建てる愛によって、教会は結び合わされます。

コロサイ3:12-14「12だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。13互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。

【パイナップルの話】

 ニューギニアの宣教師の逸話を思い起こしました。遠い宣教地の話だと思わないでください。この話は、すべての奉仕者に通じる霊的法則を教えています。

宣教師が、新鮮な果物の乏しいジャングルに、100本のパイナップルを植えました。パイナップルの木は、3年かかってようやく実がなりました。楽しみに畑に行くと、パイナップルは、皆盗まれていました。宣教師は怒って住民のための病院を閉めてしまいます。しかし、病気の人が来て診療を始めると、パイナップルはまた盗まれました。パイナップルを植えるために現地人を雇ったのですが、彼らの法律では木は植えた人の物になるのでした。宣教師は悩んだ末にパイナップルの木をみな抜いて捨ててしまいました。

 宣教師は再びパイナップルの木を植えさせ、3年間待ちました。今回は、盗まれないためにいろいろな工夫をして、雇った庭師に贈り物をしたり、盗んだ罰を与えたり、大きな番犬を飼ったりしましたが、しばらくするとパイナップルはまた盗まれました。

そんな時、宣教師は安息年になり、母国に戻って聖会に参加しました。「与えなさい。そうすれば受けます。」「持っているものを神様に捧げなさい。そうすれば神様は豊かにあなたを満たしてくださいます」と教えられました。

ある夜、彼は一人で畑で神様に祈りました。「主よ、私はこのパイナップルのために、自分の所有権を主張して、怒り、何度もけんかをしました。私は正当な権利を主張しているつもりでした。ああ、でも、それは間違っていたことがやっと分かりました。悔い改めます。このパイナップル畑をあなたに明け渡します。私にくださるも、彼らにあげるも、御心のままになさってください。」しかし、住民は相変わらずパイナップルを盗んでいきました。

ところがある日、原住民の一人が私のところに来て言いました。「外人さん、あなたは今やっとクリスチャンになったようですね。そうでしょう。クリスチャンでしょう。今は私たちがパイナップルの実を盗んでも、あなたは全然怒らないじゃないですか」▼ある青年が言いました。「あなたは今はどうして怒らないのですか?」「私はその畑をあげてしまったからですよ。もう私の物ではないのですから、あなたがたがその果物を盗んでも、私には怒る理由がありません。」▽今度は別の青年が心配そうに尋ねてきました。「あなたはこのパイナップル畑を誰にあげたのですか?」「神様に捧げたんですよ。」彼らは互いに言いました。「おい、皆、俺たちが今誰のパイナップルを盗んでいるか知っているか?あの外人は、パイナップル畑を神様に捧げたんだって!」「何?神様のところにパイナップルがないのか?」「そのせいで俺たちが狩りに行ってもいつも何も取れないんだ」「子どもたちが病気にかかるのも、子どもが生まれないのも、魚が取れないのも、そのせいだったんだ。」「この畑が神様のものなら、もうこれ以上盗んじゃいけないね。そうでしょう、外人さん?」

パイナップルが熟した時、住民たちはもう盗みませんでした。宣教師は神様に捧げた果物でしたが、勧められて熟した実を収獲して、住民にも分け与えて、神に感謝して食べました。宣教師が互いに愛し合いなさいと教えるだけでなく、それに生きるようになった時に、多くの原住民がクリスチャンになりました。

後に宣教師の息子が病気で危篤になりますが、町の医者に連れていくことはできませんでした。非常に難しいことでしたが、宣教師は息子の命を保たれるのも、取られるのも主の御心のままに委ねました。「主よ、息子を主にお捧げいたします。主がお望みになる通りになさってください」その夜、熱は下がり、息子はすっかり元気になりました。

【適用】 この話は、ジャングルでの宣教に限りません。神の恵みの流れを妨げているものが取り除かれる時、命の恵みが流れます。それは常識的には私たちの正当な権利かもしれません。しかし、主が求めておられるその事柄を、主に捧げていく時に、主の豊かな恵みが流れ出します。▽私たちが、自分の権利に固執しているところはないでしょうか。神様にお捧げするべき領域・自分の力で獲得するのでなく、主の手に委ねるべきことは、何でしょうか?

総会を準備する中で、1年を振り返って素敵な笑顔の写真がいくつもあったのが印象的でした。食事会や子どもの集会、ファミリーコンサートなどで、初めて来られた方たちが、教会の交わりを喜んでおられることを、改めて思い出しました。皆さんが温かい交わりに心を開いておられたことを覚えて、お一人お一人とのやり取りを思い出しました。▽また、陰に表に、弱さを覚える互いのために、助け合う配慮と献身があるいくつもことを覚えて、主に感謝します。▽主にある愛の奉仕が、この年も用いられていきますように、お祈りしてまいります。

【4.愛による宣教】

21「21父よ、それは、…みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」

教会が愛し合い、一つになる時に、世はイエス・キリストを信じるようになると教えています。23節も、同じ内容があります。

ヨハネ13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

昨年は、教会に様々な形で出入りされている方々から、まだイエス様を信じていない方々からも「キリスト教は良いものだから」という言葉を聞きました。礼拝に来られている方からも、町内会の方からも、教会学校の関係の方からも、私の家族や友人からも、繰り返しそのような言葉を聞きました。▼私たちの間に、真実な愛がある時、私たちがイエス様の弟子であることを、すべての人が認めるようになります。私たちの愛が真実であるように、真実な「愛がいよいよ豊かになる」ように、求めて参りましょう。

世の人は、真実なものを求めて、真実な愛と交わりとを求めているのではないでしょうか。教会を通して真実な愛を見る時、人々は愛の源であるキリストに来るでしょう。

【5.キリストの栄光への招き】

23-24節には、神様が私たちを愛され、召しておられる愛の深みが示されています。

23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

神様は、主イエスを愛されたように、同じように、私たちをも愛して下さいます。それは、教会が「完全に一つになるため」――全き愛の帯によって結び合わされて、神のうちで・神と一つになることです。その究極の姿が24節に述べられます。

24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。

キリストの神としての栄光を、私たちが見るため――それは、やがて再臨の時、キリストの御姿を目の当たりに見て、私たちもその栄光の姿に変えられる時を示しています(1ヨハネ3:2)。その時、主イエスが受ける栄光に、私たちも共に与かると約束されています(ローマ8:17)。

【6.まとめ:一つにされる】

十字架の前夜、主イエスが祈った最後の祈りは、神の民が一つにされることでした。

それは、キリストの十字架と復活の御業によって、キリストに連なり、キリストの命に接ぎ木されることから始まります。三位一体の神は、互いの存在なしには考えることができないように、私たちもそれぞれが自立しつつ、なくてはならない互いの存在に支えられながら、一人では決して味わえない交わりの豊かさの中に生きるものです。三位一体の神が互いに愛し・尊び・栄光を表すように、私たちも互いに愛し・仕え・忍び・相手の徳を立てることを選びましょう。キリストが聖なる方であり、私たちを聖別して下さったのですから、私たちも自らをきよめ、主の召しに相応しく歩もうと努めましょう。自分の栄光を求めず、神の栄光を求め、忍耐と寛容を示し、共に生きるために献身します。▼そのような、自分の権利を捧げた全き献身において初めて、「三位一体の神が一つであるように、教会が一つである」という祈りの実現に向けて、私たちの品性が整えられていくのです。

今年の年間聖句は、このようにして私たちの内に前進していきます。「…あなたがたの愛が、…いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが…キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」(ピリピ1:9-11)