ヨハネ3:13-17「主を仰ぎ見て」

2023年9月10日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ3:13-17
説教 「主を仰ぎ見て」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

ヨハネ3:16-17
ルーベンス「モーセと青銅の蛇」, Wikimedia Commons

【敬老の日を覚えて】

おはようございます。今朝は「敬老の日」を覚えて共に礼拝をお捧げしたいと思います。

75歳以上の方々の「後期高齢者」のことを、日野原重明先生は「新老人」と呼び換えました。100歳を過ぎても医者として講演活動などもされていた先生は「新老人の会」を設立されました。会のモットーは、「愛し愛されること、創(はじ)めること、耐えること」の三つだそうです。その中でも一番大事なのが「創めること」だそうです。それは寿命が延び、日本が超高齢化社会に入っても尚、新老人たちが生き生きと活躍する社会を作ることが自分に与えられた使命だと考えたからだそうです。

今までやったことのないことをしたり、会ったことのない人に会うことが若さを保つ一番の秘訣だとし、先生ご自身は100歳から俳句を創め、馬に乗り、SNSやパワーポイント作成に挑戦されたそうです。日野原先生は「老化」と「老い」は違うのだとおっしゃいましたが、体は「老化」しても、先生は最期まで「生きがい」を大切にされ、老いていく人生の意味を問い続けた方だと思います。正に人生の完成の向けての大切な時期を生き生きと過ごされたのは多くの人の憧れであると思います。使徒パウロの言葉が思い出されます。パウロは次のように言いました。

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(Ⅱコリント4:16)と。皆同じように年を重ねて行きますが、内面は主によって日々新たにされて行くことを感謝して受け取りたいと思います。

【老いていて新しく生まれる】

「斜め上35度!」とは私に対する夫の口癖です。それは私が猫背で頭が下を向きがちになるからです。この夫の掛け声を聞くと、私は斜め上を見上げます。すると背筋がピンとなり、視線がうつむき加減になっていたなと気付かされます。

さて、今日の聖書箇所の主題は「十字架に上げられた主を見上げること」です。イエス様はこうおっしゃいました。

この言葉は、パリサイ派の議員であるニコデモとの会話の中でおっしゃったイエス様の言葉です。ニコデモは人目につかない夜にイエス様を訪ねて来ました。イエス様が行った数々の奇跡やしるしを見て感銘を受けていたニコデモは、イエス様自身に深い関心を寄せていました。そして、実際にどんな方なのかお会いしたいと思ったのでしょう。会いに来たニコデモにイエス様は次のように言いました。

「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(3)

「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。」(13-14)

びっくりしたニコデモは質問をします。

人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか。」(4)

イエス様のおっしゃった「新しく生まれること」は、霊的な誕生のことを指していましたが、ニコデモは肉体的な誕生のことだと勘違いしました。ですからもう老境に入ろうとしている自分が、どのようにもう一度母の胎から新しく生まれることができるのかと聞いたのです。ニコデモは律法の知識は豊富でしたが、霊的な洞察力には欠けていました。話が、十字架に上げられるイエス様の受難に及ぶと、ニコデモには更に理解が難しくなりました。そこでイエス様は十字架の意味を示すため、旧約聖書に記されている一つの出来事に言及したのです。「モーセが荒野で蛇を上げたこと」です。

【上げられた青銅の蛇~荒野での救い~】

「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」(13-15)

出エジプトをしたイスラエルの民は、カナンの地に向けて順調な旅をしたのではありませんでした。彼らは食べ物や飲み物が不足すると、不平不満を指導者であるモーセにぶつけ、従いませんでした。

民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、『あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました。』」(民数記21:4-5)

するとモーセを指導者として立てた神はイスラエルの民に対して怒り、民の中に燃える蛇たちを送り、蛇にかまれた民は死んでしまいました。するとイスラエルの民はモーセと神に従わなかった罪を認め、蛇を取り去るように願い求めます。モーセが民のために祈ると神様はモーセに言われました。

「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」(8)と。

「モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。」(9)

この出来事は、当時のイスラエルの民にとって荒野で救いを味わう大きな体験となりました。「旗ざおの上に付けられた青銅の蛇」は後のキリストの十字架を象徴しています。

【主イエスの死と栄光】

イエス様はこのモーセの蛇と同じように、御自分も上げられなければならないとおっしゃいました。罪人のためにイエス様も十字架につけられて死にますが、この十字架のイエス様を仰ぎ見る者は皆救われるということです。

ヨハネは「上げられる」フィプソオーのギリシャ語を二つの意味で使っています。①地上で処刑されること、②上へ上げられ全てに勝る存在として高められることです。十字架で一番低く卑しめられ、その後一番高く上げられる栄光の両方の意味です。そして、イスラエルの民が助けを求め神の命令に従い、蛇を仰ぎ見て命が救われたように、十字架に上げられるイエス様を信じて仰ぎ見る者は誰でも、永遠のいのちを贈り物として受けると言われました。

ここでイエス様がおっしゃる「永遠のいのち」とは、=死後、永遠に生きるいのちというだけでなく、信じる者に今与えられる神との新しい関係と生きた交わりのことを指します。

【最強のお守り】

 先週、一ヶ月に一回の愛餐会を持ちました。ただ一緒に食事をするだけでなく、教会の愛餐会には大きな意味があります。その真ん中にイエス様をお迎えして、イエス様を中心に交わりをすることで、お互いを知り、神の家族としての認識を深めて行きます。Bさんが初めて愛餐会に参加をされ、温かい交わりと美味しい食事に感動され、先週電話をいただきました。「私はイエス様を心に信じ受け入れましたが、正式に皆さまと同じように洗礼を受けたいのですが、どうしたらいいのですか」

Bさんはずっと神社のお守りを持っておられましたが、ある時、神社に行って聞いたそうです。「このお守りよりももっと強力なお守りがありますか」そしたら神社の神主さんが「いや、それより強力なお守りはないよ」と答えたそうです。その答えを聞いたBさんは確信したそうです。「これが今まで私が持っていた神社のお守りの限界だ、私が信じたイエス様は私とずっと一緒にいて守ってくださる方だ。イエス様が私にとっての最高のお守りなんだ」と。このイエス様について行こうと決心したそうです。

Bさんの洗礼準備のためにどのテキストを使おうかと思いましたが、聖書のイエス様の生涯を読んで分かち合おうというスタイルになりました。第一回の学び(マタイ1章の系図)を終えて、Bさんに感想を伺ったら「聖書って深いんですね。とっても楽しかったです」と。私も初心に戻され共にイエス様の愛を分かち合う有意義な時でした。

Bさんとの学びを通して改めて教えられたことは、信仰とはどれだけ聖書を理解するかの前に、イエス様を信じて、どれだけイエス様を身近に感じるかということです。ニコデモは律法の知識はありましたが、それだけでイエス様が神であることを完全に理解できませんでした。人間の知恵や知識を超えて神様が示してくださっているイエス様こそ「天から下った者」として、その事実を受け取るかにかかっています。

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」(ヘブル1:1-3)

 

【主イエスを仰ぎ見るなら】

イエス様のメッセージは実に単純です。一言で表すなら「私(イエス様)を見なさい」ということです。ヨハネ3:16の聖書箇所は、キリスト教のメッセージがギュッと要約されて神の愛が語られている箇所です。ヨハネ3:16の御言葉は、コイノニアの礼拝堂にも掲げられて、コイノニアの住所でもあり、車のナンバーでもあり、とても大切な聖書箇所です。もう一度お読みします。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(16-17)

週報にも書きましたが、救いの主体は神様です。「ひとり子」は唯一の父かる神から生まれた方という特別な意味です。「お与えになった」という言葉は単純に「与える」という意味でなく、「放棄され、任された」という意味を含みます。

つまり、神が唯一のひとり子を世に引き渡されたことは、神様ご自身を明け渡される「犠牲的な行為」でした。神が救いたい対象は世界のすべての人々です。その理由は神のひとり子であるイエス・キリストを十字架にかけるほどに世の人々(私たち一人ひとり)を愛している故です。方法はイエス様の地上への派遣です。救われる条件はただ一つ、その主を信じることです。そして救いの結果として、「永遠のいのち」が与えられます。この救いの計画は、私たちのものです。その神様の愛は天地創造の前からありました。アダムとエバが罪を犯して堕落する前からです。神の愛は初めからいのちが満ちています。「永遠のいのちは」神様の本質であり、イエス様を信じる者が永遠のいのちそのものである神との交わりの中に招き入れられ、交わりの中で、神の持つ愛と平安、喜びに満たされて行くのです。この永遠のいのちこそ、救いの希望です。私は、人間最大の限界の壁である罪と死を打ち破り、勝利したイエス様のいのちに与ることが、人生最大の祝福だと心から信じています。イエス様がこの世に来られたのは、救いが目的であり、決して裁きが目的ではありません。

神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(17)

私たちの肉体は日々「老化現象」を辿って行きますが、本当の意味での「老いること」は、イエス様の永遠のいのちに与った者が、地上の人生の完成を目指して命の源である神の御手の中で、円熟してくことです。そのために忘れてならない大切なことが「主イエス様を仰ぎ見続けること」なのです。なぜなら私たちは弱く、迷いやすいからです。今日も昨日も永遠に変わらないイエス様を仰ぎ見ることは、ぶれない生き方に繋がります。最後の一息まで、主の栄光を現し、天国で「忠実な善いしもべだ」と神様から言われたいものです。

「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル12:1-2)

皆さまの新しい一週間の上に、主の豊かな恵みと祝福がありますように。