ヨハネ6:1-15「5,000人の給食」
2024年7月28日(日)礼拝メッセージ
聖書 ヨハネ6:1-15
説教 「いのちのパン」
メッセージ 堀部 舜 牧師
【今週の聖書箇所】
1そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。2すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。3イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。4時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。5イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。6これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。7すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。8弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、9「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。10イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。11そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。12人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。13そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。14人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。
15イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。
ヨハネ6:1-15
報告:献児式と墓前礼拝
おはようございます。今日は、メッセージ後に献児式を持てることを、心から感謝します。
マタイ19:14「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。
神様が「天の父」と呼ばれるのは、父親のように子どもを愛し・配慮し・守り・養い育ててくださるからです。神と人の前で祝福を頂くひと時を、大切に過ごしたいと思います。
【墓前礼拝】 先週の日曜の午後には、墓前礼拝に行ってきました。不思議なことに私たちは、先週は「人生の終わり」を考え、今週は「人生の始まり」を祝います。▽私たちは4月にドイツを訪ねましたが、カトリックのクリスチャンであるホストマザーが、定期的にお墓を訪ねて、自分の死のことを考える時間を持っているそうです。私たちが牧師であるので、ドイツのお墓を案内してくれたのですが、決して感傷的ではなく、憂鬱でもなく、明るく穏やかな時間でした。▼2コリント5:1「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」▽クリスチャンにとって、死は新しい命に移る瞬間です。私たちの地上の生涯が終われば、次の瞬間から天の生涯が始まります。私たちは、命から命に、神と共に、神に向かって生きるのです。
人生には、祝福も試練も次々にやってきますが、その中で、神が絶えず共にいて・必要を満たし・永遠の命に導いてくださることを、これから成長する幼子も経験できるようにと祈りたいと思います。そして、この礼拝を共にする私たちも、幼子の成長とご家庭の祝福を共に祈り・見守ってまいりましょう。
ジョージ・ミュラー:神が必要を満たしてくださる
19世紀の英国で、1万人の孤児を育てたジョージ・ミュラーという牧師がいます。孤児院の運営のために献金を要請することはせず、神が備えてくださる自発的な献金によって孤児院を運営しました。初めの10年ほどは、毎日がその日暮らしでしたが、孤児院が食事を欠くことは、一度もありませんでした。
ある朝、300人の子どもたちに食べさせる食事がありませんでした。しかし、ミュラーは子供たちを食卓に着かせて祈りました。「愛する父よ、あなたが私たちに食べ物を与えてくださることに感謝します。」すると、ドアを叩く音がして、パン屋がパンを届けてくれました。パン屋は、孤児たちのためにパンを焼くことを神が望んでいると確信して、眠れなかったのでした。すぐに、2 回目のノックが聞こえ、牛乳配達の人でした。孤児院の外で牛乳配達の車が故障したので、孤児のために牛乳を差し入れたのでした。
A.T.ピアソンという牧師が、米国からミュラーに面会に行きました。ミュラー牧師は彼に施設を案内し、食事に招き、夜は自宅に泊めてくれました。寝る前に二人は一緒に祈りました。ピアソン牧師は力強い雷のような祈りを期待していましたが、ミュラー牧師は小声で祈る人でした。ミュラー牧師は静かに神様に祈り、最後にこう付け加えたそうです。「二千人の子供の明日の朝食がないのです」。ピアソン牧師は、衝撃で椅子から崩れ落ちそうになったといいます。▽翌朝、街で一番大きなパン屋の主人は眠ることができず、朝2時に工場長の家を訪ねました。「孤児院の朝食に必要な数のパンを、孤児院に届けてほしい。」工場長は不思議に思って訪ねます。「朝二時に、それだけの用件ですか?」 するとパン屋の主人は言いました。「いや、1週間分の数にしよう。いや、1か月分にしよう…。そうでもしないと、眠れないんだ。」こうして、その日も孤児たちに温かい食事が備えられました。[①]
神がご自分の民の必要を満たして下さることは、昔も今も変わりません。今日は、神が備えて下さる「もてなしの食卓」5000人の給食の記事です。
1.聖書の背景
今日の聖書の出来事は、4節を見ると「過越の祭り」の頃の出来事でした。多くの学者が、「過越の祭り」が今日の聖書箇所の重要な背景になっている、と述べています。
(1)過越祭の由来
歴史的には、過越の祭りは、主イエスより千数百年前に、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族を、神様が指導者モーセを通して、エジプトから脱出させた出来事を記念するのが「過越の祭り」です。▼イスラエル民族全体が経験した「救い」の出来事として、民族の記憶に深く刻まれた出来事です。
イスラエル民族は、その後千数百年の間に、王朝の繁栄と栄光、滅亡と外国の支配の苦しみを経験します。▽「神は、イスラエル民族をもう一度憐れんで、救い出して下さる」。聖書の約束に基づいて、救い主の到来が待ち望まれていたのが、主イエスの時代でした。
(2)主イエスの時代の過越祭
「過越祭」は、歴史上の大きな「救いの出来事」を思い出させる時でした。そして、かつてと同じように、今も神は救ってくださるという約束と希望を与え、救いの「モデル」を示すのが「過越祭」でした。
福音書は、「過越祭」の時期に言及することで、かつての出エジプトの時と同じように、主イエスが真の救い主としてイスラエルに来られたということを示そうとしています。[②]
【5000人の給食の状況】
この日、大勢の群衆が主イエスの所に集まりました。10節で男性たちの数が5000人とあります。女性や子どもは数えられていませんから、10,000~20,000名近くの人がいただろうと言われます。▼10,000人の食事を用意するのは、本当に大変です。▽昨年私たちは1,300人くらいの集会の裏方をしましたが、1,000人分の弁当は、大きな段ボールに20-30箱になります。地方の施設では、近所のレストランも満員になります。その場で何とかするというのは、ほとんと不可能です。▼少年が「大麦のパン五つと、魚二匹」を持っていました。これは、貧しい少年の質素な弁当でした。▼「二百デナリ(約200万円)のパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」「ここに、(食べ物)を持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」という弟子の反応は、ごく自然な反応です。▽弟子たちの反応によって、群衆がどれほど多かったか、手元にあった食料の乏しさと弟子たちの無力さが明らかになって、5000人の給食の奇跡の大きさが明らかになります。
【適用】
5…「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。6これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
主イエスのこの言葉は、出来事の結末を知っている私たちに問いかけています。▼私たちは、主イエスをどのように考えているでしょうか? 具体的な必要を満たす力があると信じているでしょうか? 現代を生きる私たちにも、必要を満たして下さると信頼できるでしょうか?
■【2.神のもてなし】
【聖書の背景】 主イエスは群衆を座らせて、食事を与えます。奇跡の描写は簡潔ですが、ヨハネ福音書では出エジプトの出来事と結びつけられます。▼モーセの時代にエジプトを脱出した人々は、食べ物のない荒野を移動した時に、神様が備えた食べ物「マナ」を食べました。主イエスの5000人の給食の奇跡を見た人々は、荒野のマナの奇跡を連想しました。[③]
聖書では、食事は、家族や親しい人たちが心を開いて分かち合う、楽しい大切な時間とされています。そして、やがて来る救い主が、天国であらゆる人々を招いて開かれる盛大な食事が予告されています。▽今日の5000人の給食は、天国で救い主・主イエスを囲んで開かれる大宴会を先取りした、「盛大なもてなし」とも言えます。
【神のもてなし】
10節で、主イエスが「人々をすわらせなさい」と言われた言葉は、古代ローマ時代に台の上で身体を横にして正式の食事をした時に使われた言葉です。▼11節では、「彼らの望むだけ分け与えられた」と、惜しみなくふるまわれたことを表しています。
当時のユダヤ人は、客には惜しみなく食べ物を振舞ってもてなすとともに、残った食物を無駄にしないという習慣があったそうです[④]。主イエスは、パン切れを「少しでもむだにならないように」集めさせます。▼こんなに大勢の人たちでは、200万円分のパンがあっても、到底足りないと思っていたのが、満ち足りるまで食べて、なお残りました。5つのパンと2匹の魚という小さな弁当が、最後には残ったパンくずで12の大きなかごを満たすほどにまで増えていました。▼この奇跡は、主イエスが何者であるかを示す「しるし」としてなされた奇跡でした。
【適用】
主イエスは言われました。
マタイ4:4「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」
マタイ6:33「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
必要なものは全て、神が備えて下さる。だから、心配しなくてよい。将来のこと、お金のことを、心配しなくて良い、と主イエスは教えています。最初に紹介したジョージ・ミュラーのように、神が私たちのために必要を満たして下さることを信じるところから、緊張から解放されて安心することができ、神様に与えられた使命に打ち込むことができます。
■【3.群衆の反応】
さて、5000人の給食のしるしを見た群衆の反応は、どうだったでしょうか。後の箇所を見ると、人々は主イエスが別の場所に移動すると、主イエスを探して追いかけていきます。しかし、それは「パンを食べて満腹したから」でした(26-27節)。▽人々は主イエスを「世にきたるべき預言者」だと考えて、「(主イエス)をとらえて王にしよう」としました。▼確かに主イエスは「来るべき預言者」であり、「まことの王」です。しかし、彼らは、自分たちの欲のため・利益のために、主イエスを王にしようとしたのです。
これが全く的外れだということが、分かるでしょうか? 神と人との関係は、結婚関係にたとえられます。夫婦が結婚をするのが、お金が目的だったらどうでしょうか?料理や家事をしてもらうことが目的で結婚するとしたら、その結婚はゆがんでいます。結婚関係は、人格的な関係によるもので、利益のためにするものではありません。「パンを食べて満腹したから」主イエスを追いかけた群衆は、結局自分中心なのであって、神を求めているのではありません。
■【4.いのちのパン】
今日の5000人の給食の記事は、ヨハネ福音書では、もう一つの意味付けがあります。それは、聖餐式のイメージです。▼主イエスが十字架に架けられる前の夜、最後の晩餐の席で主イエスは、十字架で裂かれる主イエスの身体と、流される血の犠牲を記念して、「パンを裂き、ぶどう酒を飲む」聖餐式を制定されました。使徒たちの時代の教会も、これを守りました。▼そのパンが分けられ・食べられるのが、ヨハネ福音書では、最後の晩餐ではなく、5000人の給食の記事です[⑤]。
ヨハネ6:11「そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。」
「感謝の祈りをささげる」ユーカリステオーという言葉は、一般的な言葉でしたが、後の時代には聖餐と関連するようになる言葉です。
ヨハネ6:51「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
このパンは、イエス・キリストの肉体を表します。世の人々が命を得るように、主イエスの身体が十字架の上で裂かれることを示しています。
【生けるパン】
「それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」とあります。▽このパン=キリストを「食べる」とは、どういうことでしょうか。いろいろな言い方ができると思います。①過越祭でいけにえの子羊が屠られ・食べられたように、主イエスが十字架で死なれたことによって、主イエスご自身が私たちのものになります。②主イエスを信じ・信仰によって結ばれることによって、主が私たちのものになります。③私たちが聖書の御言葉を食べるように読み・消化し、聖餐式のパンとぶどう液を頂く時に、主イエスご自身が私たちの内に生きられます。
そのように、(1)「命のパン」である主イエスは、私たちに養分を与え・私たちの命を育みます。それだけでなく、(2)主イエスは「生きているパン」=今も生きておられる方なので、私たちの内でキリストご自身が生き、ご自分の命で私たちを生かしてくださいます。
イゾベル・クーン:キリストの命に養われる
20世紀の前半に中国南部で活躍したカナダ人の宣教師イゾベル・クーンと言う人がいます。
彼女が米国の神学校で学んでいたころ、アルバイトで授業料や生活費を稼ぎながら勉強を続けていました。非常に忙しい日々でも神を第一にする習慣を大切にしていました。
ある日、イゾベルは学内のパーティーでメッセンジャーに指名され、劇にも出演するためにずっと動き回っていました。その前の週は、アルバイトと勉強があまりに忙しく、メッセージの準備に十分な時間がとれませんでした。メッセージ当日、夕食の30分の時間をどのように使うか、彼女は迷いました。①夕食を食べるべきか、②夕食を抜いてメッセージを準備をするか、③30分を主にささげることで神を第一とするか。彼女は、自分のベッドの脇に身を投げ出すようにひざまずいて、泣きながらささやきました。「おお主よ、わたしはあなたを選びます!」その瞬間、主の臨在が部屋中に満ち溢れ、疲れと失神するような気持ちはすっかりなくなったといいます。彼女は自叙伝に次のように記しています。
「主のご愛に浸りきって、ゆったりとした気分になり、気持ちが一新されたのです。半分はひざまずき、半分は身を横たえたまま、何も言わずにただ主を愛し、主の優しさを飲み干している時、主は私に語りかけてくださいました。その晩のパーティーの最後に私が取り次がなければならない霊的なメッセージのアウトラインとその大事な箇所を、主は、静かに、一つずつ語ってくださったのです。それは、忘れることのできない経験であるとともに、忘れることのできない教訓でした。主を第一とすることには、常にその報いがあるのです。」[⑥]
イゾベルは、キリストご自身の命に養われ、力づけられたのです。
■【5.一つも無駄にしないように】
12節で主イエスは、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」と言われました。「むだにならないように」という言葉は、「アポリューミ」というギリシャ語です。この言葉は、6:39では人間の魂が「失われる」という意味で使われています。(3:16の「滅びる」も同じ言葉です。)
6:39「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。」
主イエスがパン切れを大切に「一つも無駄にならないように」集めさせたように、主イエスは終わりの日に、主イエスを信じる人が「一人も滅びることなく」よみがえらせてくださいます。
信仰によってキリストに結ばれ、生きておられるキリストご自身に、私たちの心の内に住んで頂きましょう。そして、12弟子が大切にそのパン切れを集めたように、キリストがご自分のもとに全ての人を集められる働きに、私たちも共に携わらせて頂きましょう。▽主イエスを信じるすべての人を、主は一人も失うことなく、終りの日によみがえらせてくださいます。
【祈り】
天の父なる神様。命のパンであるイエス・キリストを私たちに与えて下さって、ありがとうございます。十字架で死んでよみがえられた主イエスが、私たちの内で生きておられることをありがとうございます。そして、終わりの日に身体をもって復活させてくださる約束をありがとうございます。あなたの約束の内に、安心してこの地上の人生を全うさせてください。この地上の生涯で私たちに備えられた使命に、私たちの目を開いてください。そして、この地上ですべての必要を満たしてくださる主に信頼して、毎日を感謝して生きることができるようにしてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
[①] https://christianhistoryinstitute.org/magazine/article/did-you-know-mueller
ジョージ・ミュラー「祈りの力」p164-166
[②] ヨハネ6:3「山」は、出エジプトでも神がモーセに出会った啓示の場所であった。ここでも、主イエスが神の民をもてなした場所として「山」であったと述べられる。ここでの「山」は、標高の低い丘陵地帯であったかもしれない。
ヨハネ福音書では「過越祭」が3回描かれており、①「宮きよめ」(2:13)、②5000人の給食(6:4)、③受難の時(13:1など)である。いずれも、主イエスの働きが、出エジプトの救いをモデルとした、救い主の働きとして描かれている。
[③] ヨハネ6:31「わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
[④] D. A. Carson, The Gospel according to John, The Pillar New Testament Commentary. 6:12-13., J. Ramsey Michaels, The Gospel of John, The New International Commentary on the New Testament. 6:12
[⑤] 厳密には、「パンとぶどう酒」ではなく「パンと魚」であるなど、違いがある。しかし、続くヨハネ6:51に「わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」とあるように、福音書記者は聖餐と結びつけられているように思われる。
[⑥] 「多くの証人に囲まれて」イゾベル・クーン著、52頁
【参考文献】
D. A. Carson, The Gospel according to John, The Pillar New Testament Commentary.
J. Ramsey Michaels, The Gospel of John, The New International Commentary on the New Testament.
Edward W. Klink III, John, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament.
Craig S. Keener, The Gospel of John A Commentary, VOLUME ONE.
N. T. Wright, “John for everyone.”, NT for everyone