ヨハネ6:51-58「さあ、食べ飲みなさい」

2024年8月18日(日)礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ6:51-58
説教 「さあ、食べ飲みなさい」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。…天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。

ヨハネ6:51、58

『来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め』と。

箴言9:5-6

【かめーかめー攻撃】

さて、沖縄には「かめーかめー攻撃」と呼ばれる攻撃がありますが、耳にしたことはありますか。「かめー」とは沖縄の方言で「食べなさい」という意味ですが、特におじーおばーが食べ物を勧める時に「かめー、かめー」と言うので「かめーかめー攻撃」と呼ばれるようになったのかと思います。お腹がいっぱいになっても「かめー、かめー」と続くことが多いので、観光客の方々が沖縄の食堂などで初めて「かめーかめー攻撃」に遭遇したらびっくりすると思います。私は食べることが好きなので、嬉しいことです。皆さんは食べることは好きでしょうか?

【イエス様の招き】

「いのちのパン」の話が続いていますが、「食べること・飲むこと」=「命を持続させる働き」です。私は若い頃は、好きな物を食べたい時に食べたいだけ自由に食べていました。しかし、三十代半ばを過ぎた辺りから、栄養バランスを考えて食べるようになり、買い物をする時も値段だけでなく、原材料に何が使われているのかをチェックするようになりました。自由に食べることを止めて、考えて食べることをしただけで、自然と10キロ痩せて体が軽くなりました。コイノニアに来る前の話です。(あれからまたリバウンドしてますが)

何をいつどれだけ食べるかで身体の健康状態が決まります。「パン」とは日々の糧を表します。イエス様はご自分のことを「天から下って来た生けるパンです」と自己紹介していますが、もしイエス様がお米を主食とする国で生まれたなら「わたしは生けるご飯(お米)です」とおっしゃったかもしれません。

「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。(ヨハネ6:51)

イエス様がご自分のことを「生きたパンである」とおっしゃったのは、イエス様ご自身のいのちを差し出して「わたし自身を日々の糧としなさい」と招いておられるからです。人間の体に栄養が必要なように、私たちの心と魂にも栄養が必要です。イエス様ご自身を日々の糧として、食べて飲むとは一体どういうことで、何を得ないといけないのでしょうか。

わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。

【聞いて学ばない者でなく】(52-55)

 旧約時代に荒野で、天からのマナを食べても不平不満を表していたイスラエルの民のように、奇跡を見てもいのちのパンを理解できないユダヤ人は、イエス様のことを理解できません。彼らに対してイエス様はもう一度「いのちのパン」とは、人間の罪を贖う十字架を信じる者だけに与えられる永遠のいのちの恵みだと話されました。「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」(ヨハネ6:52)と激しい議論を始めるユダヤ人に、イエス様は「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6:53)と教えられたのです。イエス様が十字架で流された血潮と、裂かれた肉だけが私たちの魂を生かす糧だからです。

ユダヤ人のように、岩地のようなかたくなな心では、つぶやきと不平、粗探しが起こるかもしれません。クリスチャン生活が長く送ると、「倦怠期」のような時期がくるかもしれません。その時、霊の目や耳が何かによって覆われているのです。

「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:16-18)

自分自身の御言葉を聞く態度を振り返り、覆いを除かれ、聞いて学ばない者でなく、学ぶ者でありたいと思います。そして御言葉を行うものとして、栄光から栄光へと進んで行きたいと思います。

【霊において一つになる】(56-57)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」(ヨハネ6:56-57)

イエス様の十字架を信仰を持って受け入れるとき、つまりイエス様を霊の糧として食べて、飲むとき私たちはイエス様とどのような関係になるのでしょうか。それは霊において「イエス様と一つとなる関係」になります。ですから「イエス様を信じる」ということを「イエス様を私の心に受け入れる」という言い方もします。

イエス様と一つになった人は、イエス様との結びつきによる人生の優先順位や価値観が変化します。お金、地位、名誉、学歴が一番とならず、天で宝を積むことを喜びとするのです。

ある青年の証し

クリスチャンホームで育った青年がいました。「僕はイエス様を信じて洗礼も受けたけど、そして教会にも毎週来ているけれど、本当に救われているのか分からない」と言っていました。その青年がある集会で、献身の招きに応答して前に出て行きました。私はその青年に「どうして献身の招きに応答したのか、どんな変化が内側にあったのか」と聞くと、彼はこう応えました。「僕の今まで歩んできた人生は、自分が何事も一番でした。自分のために生きて来たのです。でも何しても心が空しく、やる気も起きなくて、人生はこんなもんかと諦めていました。でもこんな僕のために、イエス様が命をかけて救ってくださった十字架の恵みが迫ってきたのです。イエス様が『わたしのために生きてくれないか』と僕を呼んでくれたのです。僕は今、イエス様に応えないと一生後悔すると思いました。これから神学校に行くのか分かりませんが、導かれる道に進みます」と目をキラキラさせて喜んで語ってくれたことを思い出します。今、彼は地元で社会人として、力強く家族と教会を支えています。折に触れてその青年のことを思い出しています。

私自身も小さい頃から教会に行き、中学校一年生で洗礼を受けましたが、献身に導かれるまで自分が一番の生活を送ってきました。イエス様にすべてを差し出し、弟子として歩む決心を主に捧げてから、新たな人生の歩みが始まりました。義務感で送るクリスチャンライフではなく、また自分の都合や気分で礼拝に行くかを決めるのでなく、霊において一つとさせていただいた主が先導する人生なのです。

【永遠のいのち】(58-59)

キリストと一つに結ばれた者に与えられるものが「永遠のいのち」です。たとえ肉体が死んでも、霊が主と共に永遠に生きるいのちです。イエス様はいのちのパンについて語りながら、信仰を通して「永遠のいのち」を受けるように教えてくださっています。普段、日常生活を送る中で、「永遠のいのち」を強く意識することは少ないかもしれません。しかし、人生の旅路の途中で起きる様々な困難を通して、新たに「永遠のいのち」の恵みとありがたみ、重みを確信することがこれから起こってくるかもしれません。「永遠のいのち」これは「希望」そのものです。この地上を生きる私たちに与えられる神のいのちだからです。

天国へのパスポート

私が幼くしてイエス様を信じた時、教会の先生から「永遠のいのちは、天国へのパスポートですよ。このパスポートを持たないと天国に入れないのよ」と教えてもらいました。「地獄でなく天国に行きたい」と思った私は単純に「永遠のいのちを持ちたい」と思ったのです。

イエス様が天から下って来られて、いのちのパンとしてご自分を与えてくださったのは、信じる者すべてに「永遠のいのち」を与えて救うためです。そしてパスポートは更新が必要なように、私たちも永遠のいのちをいただいたから終わりでなく、生き生きしたいのちを保つために、いのちの源なる方の肉(まことの糧)と血(まことの飲み物)を飲むことが、日々必要不可欠なことです。

体のご飯も毎日食べて飲まなければなりません。魂の健康を保つためにも、今日もキリストのいのちをいただくことで、新しい力に満たされます。

天国へのパスポート

【デボーションの勧め~霊的食物の摂取~】

イエス様ご自身を日々の糧とするとは、先ず神の言葉である聖書を毎日読む、もしくは聞くことです。テレビやインターネットなど様々な情報が溢れていますが、聖書はそのような情報ではなく、「真理の言葉」です。情報社会に生きる私たちが、聖書の言葉に触れるためにはその時間を聖別する努力が必要です。

毎日忙しく働き疲れている人にも

以前に私がいた教会では毎朝、早天祈祷会がありました。私は朝が苦手で恥ずかしいのですが、よく居眠りをしてしまいました。不思議なものでどんなに居眠りをしていても、自分がお祈りに当てられると、さっと立って祈っている自分がいました。同僚の先生から「眠っていたのによくメッセージの応答の祈りができるね。きっと皮膚から御言葉が浸透していっているのよ」と変に感心されたこともありました。 

皆さんに決して礼拝や集会中の居眠りを勧めているのではないです。私たちが忙しい毎日を送る中でも、御言葉を聞くために御前に必死にぬかずく私たちの存在を神様が喜んでおられることをお伝えしたいのです。私が忙しくていつも体が疲れていて、眠かった時に慰められ、励まされた御言葉をシェアします。

「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」(詩篇127:2)

御言葉を食べる工夫

舜牧師は、シャワーを浴びる時や自分が台所に立つ時は、「聴く聖書」をスマホでスピーカーに繋げて大きな音量で聴いています。御言葉に耳を傾けるだけで、他の考え事や雑念が意外と入って来ないものです。

電車に乗っている時や車に乗っている時に聖書の朗読を聞くことも良いでしょう。聞いていてそして読んでいてもし分からないところがあったら、牧師に質問してください。私が今使用しているデボーションガイドは書き込み式なので、気付いたこと、決心したこと、祈りの課題なども書けるので長く使用しています。

私が社会人として働いていた時は、朝に主と静まる時間を持てなかった時が多くありました。お昼時間に一人になれるところを探して、アパ・ルームを読んでお祈りしていました。ある時、一人でお祈りしていると、「あら、あなたクリスチャンなの?」と別の部署の先輩から声をかけられ、その方もクリスチャンだと分かり、時々一緒に御言葉の分かち合いと祈る時を持って共に励まし合ったことを思い出します。当時、職場でクリスチャンの先輩と出会ったことで、平日の喜びが増したことを覚えています。

どうぞ、一日のどこかで神の言葉に耳を傾ける時間を大切にしていただきたいと思います。

「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネ6:51)

わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である

【“良いコーチ”とは】

最後にオリンピックに因んだ話をして終わりたいと思います。去るパリオリンピックでカルロス・ユーロというフィリピン出身の体操選手がフィリピンの体操選手として初めて金メダルを獲得しました。カルロス選手はフィリピンに派遣されていた日本人コーチに出会い、将来を見込まれて、コーチが日本へ帰国するタイミングで日本に来ました。カルロス選手は、日本人コーチの家で共同生活をしながら、日本の高校、大学に通いながら体操のトレーニングを受けました。日本人コーチはカルロスのために、ご飯を用意し、食べさせ、日本語と体操を教え、訓練をしていたのです。

しかし、カルロス選手はとても内気な性格で、なかなか自分の内面を表現しないため、競技にもその影響が出ていたそうです。失敗をすると落ち込み、コーチから注意をされるとふさぎ込み、本来の演技ができなくなるという状況に陥ったりしました。それでもコーチは忍耐強く彼に向き合い、ある時からは毎日、日本語で日記を書かせて自分の気持ちを表現するように促しました。少しでも彼の考えていることを理解しようと思ったからだそうです。

カルロス選手は、パリオリンピックで見事金メダルを取りました。カルロス選手の努力や才能もさることながら、彼に寄り添って体操競技だけでなく、手取り足取り日本語や文化を教え、彼の持っている能力を引き出すために、養い育てた日本人コーチがすごいと思いました。

良いコーチとの出会いが将来を左右します。良いコーチと出会って指導を受けるなら、優勝というゴールを目指して進んで行けるのです。

イエス様こそ「人生の良いコーチ」です。良いコーチは選手のために、家族として愛情を注ぎ忍耐をもって、成長を導きます。日本人のやり投げで金メダルを獲得した北口榛花選手も良いコーチを求めてチェコまで行き、訓練を受けて後の快挙でした。私たちはどこかに行かなくてもいのちを与えるコーチから、永遠のいのちを得ているのです。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)

「来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め」と。(箴言9:5-6)