ヨハネ6:56-69「キリストのいのちにとどまる」

2024年8月25日(日)礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ6:56-69
説教 「キリストが与えるいのち」
メッセージ 堀部 舜 牧師

わたしはいのちのパンである(彫刻:小泉恵一氏作)

【今週の聖書箇所】

56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。57生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。58天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。59これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。

60弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。61しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。62それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。64しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。65そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。

66それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。67そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。68シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。69わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。

ヨハネ6:56-69

【パスカル:心で感じる神】 17世紀のフランスの偉大な数学者にブレーズ・パスカル(1623-62)がいます。彼は敬虔なカトリックの信仰者・著作家でした。▼パスカルは偉大な学者であり、理性の人でしたが、理性の限界を教えています。「理性の最後の〔役割〕は、理性を超えるものが無限にあることを認めることだ」。「神を直感するのは心であって、理性ではない。…理性ではなく、心に感じられる神」なのだ。「知性が知らないことを、心は知っている」と。[1]

今日のテーマは、生けるパン・イエス・キリストを心に頂き、いのちの言葉に生かされることです。

聖書の背景:過越祭

8月は続けてヨハネ福音書6章を読んできました。「天から下ったいのちのパン」として、主イエスがご自分のアイデンティティを示しておられる、ヨハネ福音書でも重要な章だと言われています。

6:4には、「ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた」とあります。[2]▼ヨハネ福音書では、「過越祭」はただの時間的な意味だけでなく、神学的な意味も持ちます。3回目の「過越祭」の時に、主イエスがまことのいけにえとして十字架にかかられるのですが、それに先立つ1回目・2回目の「過越祭」の時にも、主イエスの十字架の犠牲が指し示されています。▼今日の聖書の箇所は、ヨハネ福音書6章の長い対話のまとめの部分にあたり、弟子たちの主イエスに対する異なる反応が描かれています。

■【1.いのちの言葉・主イエス 】 v.56-58

56-59節は、主イエスが会堂でユダヤ人や弟子たちと話された対話の最後の、まとめのような箇所です。

犠牲の死

56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

【犠牲の死】わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という言葉は、文字通りに読めば、非常に強烈で不快でさえある言葉です。旧約聖書で血を飲むことを固く禁じられていたユダヤ人たちは、はるかに強い違和感を受けたはずです。▼「肉」と「血」という言葉は、動物のいけにえを連想させます。当時は過越祭の時期でしたが、1年後に主イエスご自身が十字架上でご自分の肉を裂き・血を流されました。この主イエスご自身の犠牲(「肉と血」)こそ、いのちを与える源です。▼そして、福音書を読んだ人々は、主イエスの十字架を記念する聖餐のパンとぶどう酒を思い起こしたはずです。信仰によって、主ご自身が定めた方法で主に結びつくのです。

その時、「このわたしにおり、このわたしもまたその人におる」と。「わたし」という言葉は、いずれも強調形です。▼旧約聖書の預言者たちは、自分ではなく神を指し示しました。しかし、主イエスは、旧約の神がご自身を指して「わたしに来なさい」と言われたように、「このわたしのうちにとどまりなさい」と招かれます。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。(彫刻:小泉恵一氏作)

生きておられる方

続く57節にも、主イエスがご自分を神と並べる自己表明がなされます。

57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。

【いのちを与える方】 聖書では、いのちを与えるのは神ご自身です。しかしこの箇所で主イエスは、「このわたしを食べる者〔は〕このわたしによって生きるであろう」と言い、「いのちを与える働き」をご自分に帰しています。

【生きておられる方】 旧約聖書の預言者たちは、「主は生きておられる」と言いました。神は、永遠に「生きておられる」方です。そして、この箇所で主イエスは、ご自分を「生きている」(生き続ける)と言われました。▼主イエスは十字架で死なれましたが、復活し、今も「生きている」方です。▼福音書を読む私たちが、「わたしは生きている」という主イエスの言葉を読む時、「生ける神」としての主イエスの自己表現を見ます。

受肉された方

58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」[3]

【受肉】 この箇所では、「パン」という物質的な比喩が用いられ、「先祖」の歴史的な出来事と比較されていることに注目したいと思います。▼主イエスは人として地上に来られ、供え物のパンのようにご自分の身体を捧げられました。目に見えない永遠の世界の出来事ではなく、モーセの時代のように、歴史上の具体的な時点に到来されました。▽それは、この現実の世界・物質的な世界の・具体的な歴史上の一時点を生きる私たちのために、来てくださったことを意味しています。神は私たちを愛し、私たちの「身近な存在」になり、私たちに合わせ、それぞれの必要に答えて下さいます。

【キリストの命:ブラザー・ローレンス】 17世紀のフランスの修道士ブラザー・ローレンスとして知られるニコラス・エルマン(1614-91)という人がいます。生涯を身分の低い一修道士として過ごしましたが、その敬虔で謙遜な姿が多くの人々に慕われ、その死後に出版された彼の手紙や逸話は、プロテスタント教会を含めた多くの人々に感化を与えました。

ブラザー・ローレンスは、修道院の台所で料理をする時も、修道士の靴の修理をする時も、祈りの時間と同じように、神の臨在を見出しました。彼はしばしばこう言いました。「行動する時も、祈りの時も、区別はありません。台所の騒がしい中で、数人の人から同時にいろいろな違ったものを要求されても、聖餐を受けるためにひざまずいているときと変わりなく、平安の内に神の臨在を覚えています。」▼神の臨在の下に歩むこの訓練は、「心から、愛から生じるものでなければなりません。」「私は神への愛のゆえに、フライパンの小さなオムレツをうらがえします。それが終わって、何もすることがなければ、私は床に伏して私の神を礼拝し、オムレツを作る恵みを与えて下さったことを感謝し、それから、王よりも幸福な気持ちで立ち上がります。…人々はどのようにして神を愛するかと学ぶ方法をさがしています。…さまざまな手段によって神の臨在の下にとどまろうと苦労しています。それよりも、すべてのことを神を愛する愛のためになし、生活の必要の中で果たすべき自分のあらゆる務めを通して、その愛を神に示し、神と心を通わせることによって自分のうちに神の臨在を保つことの方がもっと近道ではなないでしょうか。」

ブラザー・ローレンスの愛によって神の臨在の中を生きた生活が、厳しい自己放棄の上に立っていたことを忘れてはなりません。彼は、「神を悲しませることは何もしないように気を付け、他のものはみな放棄し、全く自分を忘れて仕え」ました。「私は修道会に入ったとき、罪の償いのために自らを全く神に捧げ、神への愛のゆえに、神とかかわりのないものはすべて捨てる決意を固めたのです。 そのころ、祈りの時に私の心にあったのは、たいてい死と裁き、…自分の罪についてのいろいろな思いでした。そこで私は何年かの間、(祈りの時以外の)残りの時間、仕事の最中でも、神の御前に歩むことに思いを集中しようと努力し続けました。…徐々に私は、祈りの時間と同様にできるようになり、それによって絶えず、大きな慰めを与えられました。私のスタートはこういう具合だったのです。でも、率直に申しますが、初めの十年間はとても辛い時でした。私は自分が願っているように、神の者となってはいないのではないかという心配、いつでも私の目の前をちらちらする過去の罪、そして、私に対する神の慈しみ、それらが私の苦しみ、嘆きの源でした。その間中、私はつまずき倒れては、すぐまた立ち上がるという繰り返しを続けました。…このような悩みと思い煩いで一生を終わるしかないと考えていたとき(だからといって神に対する信頼がうすくなったというわけではなく、ますます私の信仰が増し加わるのに役立つだけでしたが)、突如として私は、自分が変えられたことに気付きました。その時までずっと悩みの淵におかれていた私の魂は、奥深くに内なる安らぎを味わいました。 それからは、単純に信仰により謙遜と愛とをもって、神のみ前に働くことができるようになり、神を悲しませるようなことは一つとして考えたり、言ったりしないようにしています。 …今の私のうちに起こっていることを、あなたに言葉で言い表すことはできません。私の状況について自分では落胆や疑惑は少しも感じません。私には、神の御心を行う以外に何も望みはありません。すべてのことに神の御心をなしていくことを求めています。すっかり委ねきっておりますので、一本のわらを拾うにも神の命令なしにはいたしません。神への純粋な愛以外の動機では何も行いたいと思いません。私は、ただひたすら神の聖なる臨在の中にとどまるようつとめました。それは単純に神にきく姿勢、絶えず神に愛のまなざしを向けることによってなすのです。」[4]

参照:ブラザー・ローレンス「敬虔な生涯 改訂版」p3,105-107, 52-54
ブラザー・ローレンス wikipediaより

ブラザー・ローレンスは、生けるキリストの臨在の中に――すなわち、キリストの命に――生きました。▽それは、礼拝の時間だけでなく、台所仕事や靴修理のような実際的な仕事の中でも変わることなく、神の臨在が彼のうちに現実となったのでした(信仰の受肉)。▽それは、妥協のない罪の悔い改めと、自分の願いを求めない徹底した自己放棄と克己に根差すもので、長い修練の先に、突然、神からの無償の恵みとして与えられた恵みの境地でした。

【公の場での教え】ここまで56-58節で、主イエスは神に等しいご自分のアイデンティティを宣言されました。▽主イエスはこの教えを「会堂で話された」とあります(59節)。「会堂で」とは、逃げも隠れもせず、公の場所でこれらのことを教えたことを意味します。しかし、ユダヤ人たちは、主イエスを捕えることはありませんでした。 ▼旧約聖書では、神は預言者を通して語られました。しかしここでは、神ご自身が人となって来られて、人々に語りかけます。それでも、人々は耳を貸しません。 ▽主イエスに従ってきていた人々の反応は、二つに分かれます。

■【2.いのちの言葉への反応①】 v60-66

60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。

「弟子たち」とありますが、その心は主イエスを王とするためにやって来た群衆と大差なかったのかもしれません。▼人々は、5000人の給食の奇跡を見て、食べ物を食べて満足し、主イエスを王にするためにやってきました。しかし、人々の思いは、食べ物やローマの支配から解放する軍事的な指導者など、地上の事柄にからめとられていたようです。彼らは、神から出た主イエスの権威を認めませんでした。主イエスが、世のためにご自分の命をお捨てになる十字架の死を暗示されると、人々はこれを理解できず、受け入れることもできませんでした。

61b「このことがあなたがたのつまずきになるのか。62それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。

主イエスが「天から下ってきた」と言った言葉に憤り、騒いでいるなら、やがて主イエスが天に上り、神の右の座に着かれるのを目の当たりに見る時、いったい何と言うことになるのか。▽主イエスの権威を認めず、その言葉を侮り、主イエスを見下した人々は、やがて栄光の御姿を見る時、自分が侮ったのが主ご自身であったことを知り、恥を受けます。

63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

「聖霊が、命を与える方である」と主イエスは教えます。聖霊の導きを離れた人間の知恵や動機によっては、神を理解することはできず、永遠の命にも至りません。▼彼らが主イエスの言葉を理解できず・信じないのは、彼らが聖霊に背いているからであることを明らかにされます。

神の言葉

【神の言葉】 「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われたように、主イエスの言葉は、力ある神の言葉です。▼旧約聖書で、神は言葉によって世界を創造し、言葉によって神の民を導きました。

イザヤ55:11「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」

主イエスが語られた言葉は、そのような力ある「神の口から出た言葉」でした。言葉を通して聖霊が働き、いのちを与えます。

【聖書を通して語りかける】 現代の私たちは、聖書を通してイエス・キリストを知り、聖書を通してイエス・キリストに出会います。聖書を通してイエス・キリストへの信仰を抱きます。聖書はキリストを証しし、聖霊は聖書の言葉が与える信仰を通して働かれます。聖書とイエス・キリスト、聖書と聖霊は、切り離すことができません。

【適用】 私たちは、誰の言葉に従っているでしょうか?私たちの価値観の基準は何でしょうか?自分でしょうか、聖書でしょうか? ▼私たちは、聖書の教えに虚心坦懐に耳を傾けているでしょうか?それとも、自分なりの理解を聖書に押し付けているでしょうか? まっさらな気持ちで聖書に向かっているでしょうか?20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトは、主著を次々と書いていた時、なお「私は今、福音書を読んでいるところです。子どものように、まるで初めて読むように、毎日聖書を読んでいます」と言ったそうです[5]。▼私たちも、自分に語りかける神の言葉を聞くように、聖書に向かいたいと思います。

64節のユダの裏切りの予告は、十字架に向かう歩みを指し示しています。

66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。

ここでは、一部の弟子が主イエスから離れていき、一部の弟子が主イエスにとどまる姿が、はっきりと描かれています。主イエスに対する反応が真っ二つに分かれることは、ある意味、起こるべくして起こることです。

【適用】 この箇所の裏返しの危険にも注意をしたいと思います。主イエスから離れてしまうをことを恐れるあまり、「○〇教会に行かなければ、神様から離れてしまう」とか、「○○先生の教えや、○○のミニストリーに参加しないと、神様の恵みを受けることができない」といった考えには、注意が必要です。▼特定の教会や牧師やミニストリーに参加しなければ、私と神様の関係が切れてしまうかのような考えに、決して入り込ませてはなりません。よく分からない「他人の言葉・視線」や「心の声」に惑わされてはなりません。▼イエス・キリストに従うことを、「○○教会に所属すること」や「○○のミニストリーに参加すること」「○○牧師の集会に出席すること」に置き換えないでください。どんな教会も牧師もミニストリーも、主イエスに代わる位置を占めることは許されません。▼私がどこにいて、何をしようと、「私はイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従う」という立場を明確にしてください。「イエス・キリスト」。それが、私たちのただ一人の主です。

■【3.いのちの言葉への反応②】 v67-69

67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。68シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。69わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。

寄る辺のない信仰者

【寄る辺のない信仰者】 聖書を表面的に読むならば、ペテロの言葉は、主イエスに従い通した信仰の英雄のかっこいい言葉に聞こえるかもしれません。しかし、ペテロの意図を丁寧にみれば、他に頼るところのない無力な者としての信仰者の姿が見えてきます。

「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう」。――53節には次のようにあります。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」。ペテロは、主イエスから離れれば自分のうちに、永遠の命はないことを知っていました。むしろ自分には、汚れた罪と不信仰に満ちていることを知っていました。そして、キリストのほかに頼れるものは何もないことを知っていました。

クリスチャンとは、自分自身に優れた力や判断があるのではないことを知っている人です。自分の罪を知り、不信仰を知り、ただイエス・キリストのみによりすがり、イエス・キリストに逃れていく者、それがクリスチャンです。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう」

しかし、主イエスの内には、優れたものがあります。主イエスは人として、貧しさと素朴さと苦難に身を低くしておられますが、そのうちには永遠の命の言葉を持ち、それを人々に分かち与える権威を持っておられます。聖書は、キリストのうちに、神の豊かさがあると教えます。

クリスチャンは、自分で神を選び取るのではありません。自分の貧しさ・惨めさのために、そうせずにはいられなくて、神に引き寄せられ、神のもとに行くのです。神の導きに引き寄せられて、神の言葉に引き寄せられて、神の愛と恵みと温かい臨在に引き寄せられて、主イエスの信仰へと導かれます。

【サムエル・ブレングル:聖潔の経験】 20世紀の初めに救世軍のリーダーであったサムエル・ブレングル(1860-1936)の証しを紹介します。信仰の入門者の証しではなく、非常に練達した信仰者の証しですが、神の愛を求めているという方向性は変わらない、とも言えると思います。

彼は、説教者として働き始めた頃、「ホーリネス」「聖化」について関心を持ち、「全ききよめ」について聖書を学び、学生たちと討論しているうちに、自分でその経験をしたいと思うようになりました。それは、単なる賜物ではなく、神ご自身であることに気付き、神ご自身を求め、学び、祈り、自分自身を吟味しました。彼は、手に持っているものを捨て、無心にならなければ、神ご自身をつかむことができないと考えました。自分の高慢さを思い、イエスのへりくだりを思いました。イエスの純粋さという光の中で、自分の不純な心を吟味して、自分の野心とイエスの謙遜に気付きました。自分が清くないことと、イエスのきよさを知り、「私はイエスと自分以外の誰にも目を向けず、そして、自分を嫌うようになった」といいます。

最初は、ブレングルが求めていることの中に、自分本位の思いが入り込んできました。「聖霊が伴ってくだされば、自分は偉大な説教者になれる。大きな教会に任命されて多くの人を得ることができる。」そのようにして神に栄光を帰することができる、と彼は考えました。しかし、祈るうちに、それが自分本位の大井であることに気付きました。そこで彼は言いました。「主よ、あなたが私をきよめてくださるなら、最も小さい任命でも頂きます」。

彼は、最も小さな任地でも、自分は偉大な説教者になれると考えました。しかし、聖霊はそこにもまだ自分本位の思いと野心があることを示されました。彼はついに祈りました。「主よ、私は雄弁な説教者になりたいと思いましたが、口ごもったり、どもったりすることで、雄弁以上にあなたに栄光を期することができるなら、どうぞ私を口ごもらせ、どもらせてください。」これが神に全く明け渡す最後の段階でした。彼は最大の野心を祭壇の上に置き、「神がわたしをきよくし、私のうちに住んでくださるならば、失敗者と見られてもかまわないと思ったのだ」といいます。

ブレングルは聖霊の臨在を実感することを期待しましたが、何も起こりません。手も心も全くからっぽの状態でした。

突然、良く知っていた言葉が、新しい意味をもって、彼の耳に聞こえてきました。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめて下さいます。」その言葉はまるで明るい光のようでした。彼はすぐに頭をたれ、祈りました。「主よ、信じます。」平安が彼の霊魂に満ちました。

30分ほど後、友人に本を返しに行くと、友人は彼の変化に気付きました。

2日後の朝、喜びが沸き上がりました。「朝食前にボストンコモンを歩き、喜びのあまり泣き、神を賛美した。ああ、私は何と愛していたことだろう!その時間で私はイエスを知り、私の心が愛で張り裂けそうになるほど彼を愛した。私は神の創造物すべてへの愛で満たされた。小さなスズメを…愛した。私は犬を愛し、馬を愛し、道端の小さな悪ガキを愛し、私の前を急いで通り過ぎる見知らぬ人を愛し、異教徒を愛し、全世界を愛した。」

40年後も、彼はその経験を証ししました。「神を求めて、生ける神を求めて、私はどれほど飢え渇く思いをしたことか。神は私の心の願いを聞き届けられました。神は私を満ちたらせてくださいました。そうです、神は私を満ちたらせてくださったのです。神は私の教師、導き手、助言者、私のすべてのすべてとなられました。」

参照:アリス・R・スタイルズ「聖潔の教師サムエル・ローガン・ブレングル」p29-33
サムエル・ブレングル wikipediaより

 生きておられるキリストが私たちの内に住んでくださいます。それは、キリストの愛に生きることです。それは、聖書の御言葉に導かれ、キリストへの信仰によって生きることです。それは、真実な悔い改めと全き明け渡しの先に、ただ恵みによって与えられる、生ける神ご自身の豊かな臨在です。

■まとめ

【祈り】私たちの父なる神様。いのちの源であるイエス・キリストを遣わして下さったことをありがとうございます。主イエスが私たちのために死なれ、復活され、今も生きておられることを、ありがとうございます。

 主を待ち望み、主の御言葉を慕い求めます。主が嫌われるものをかなぐり捨てて、主を慕い求める者にしてください。主をほめたたえつつ、あなたの恵みを待ち望み、主を感謝してほめたたえる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


[1] http://james.3zoku.com/kojintekina.com/pascal/pascal_additional01.html

金子晴勇 霊性思想史勉強会 資料「7パスカルの霊性思想」、(参照:金子晴勇「キリスト教霊性思想史」12章p363-369)

[2] ヨハネ福音書には過越祭が3回あり、ヨハネ6章は2回目。ヨハネ福音書に過越祭が3回記されていることから、主イエスの公の働きは約3年間だろうと、多くの人は考える。その考え方に従えば、ヨハネ6章の出来事は、主イエスが十字架につかれた過越祭のちょうど1年前の時期だった可能性がある。

[3] 主イエスはこの箇所でも、ご自分について①「天から下った」神的権威を主張し、②モーセにまさる権威を主張し、③「永遠の命」を与える権威を宣言します。

[4] ブラザー・ローレンス「敬虔な生涯 改訂版」p3,105-107, 52-54

[5] 高野勝夫「キリスト教逸話例話集」p109