ヨハネ7:37-39「渇いた地に川が流れる」
聖書 ヨハネ7:37-39
説教 「渇いた地に川が流れる」
メッセージ 堀部 里子 牧師

37祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。39これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
ヨハネ7:37-39
1 しかし、わがしもべヤコブよ、
イザヤ44:1-4
わたしが選んだイスラエルよ、いま聞け。
2 あなたを造り、あなたを胎内に形造り、
あなたを助ける主はこう言われる、
『わがしもべヤコブよ、
わたしが選んだエシュルンよ、恐れるな。
3 わたしは、かわいた地に水を注ぎ、
干からびた地に流れをそそぎ、
わが霊をあなたの子らにそそぎ、
わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。
4 こうして、彼らは水の中の草のように、
流れのほとりの柳のように、生え育つ。
【五月を迎えて】
おはようございます。皆さん、五月も半ばを迎えていますが、五月病で心や体の疲れは出ていないでしょうか。先週は教会のプリンターが不具合を起こして全く動かなくなってしまいました。印刷機の買い替えを覚悟しましたが、YouTubeで修理動画を見ながら、プリンターを修理でき、まだ頑張れそうです。
デトックスが必要ですか
私たち人間も生きていて活動している限り、体内に溜まる老廃物や有害物質をデトックスしないと、不具合が起こります。最近では心や生活環境をリセットするために、スマホやSNSから一定期間離れて、「デジタルデトックス」をする人もいます。様々な種類の「デトックス」がありますが、生きているだけで重荷や罪が私たちにまとわりついてくるのです。精神的・霊的なデトックスが必要不可欠ではないでしょうか。私たちは神様の元へ行き、重荷を下ろし、罪を赦していただけることで、内側から生きる活力をもらい、新しくされることを知っています。実際に聖書は何と言っているでしょうか。人生という競争を走り抜くために、罪や重荷を捨てて、イエス様から目を離さないようにと勧めています。
「…いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(へブル12:1-2)
「イエス・キリスト」から目を離さないためにはどうしたらよいのでしょうか。私は、イエス様が見えるところにいること、そして必要ならイエス様のそばに行くことだと思います。
私たちが生きているこの世界は、良いニュースばかりではありません。常に不安や恐れ、罪や誘惑などが隣り合わせです。その中で生き続けると、心は乾ききってします。しかし、神様は私たちの内側から「命の水」を湧きあがらせることがお出来になる方です。イエス様の力強い招きの言葉に耳を傾けてみたいと思います。
イエス・キリストの招き
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」(7:37)
「だれでも」とは、年齢も立場も信仰歴も関係ありません。成功している人も、失敗している人も、真面目な人も、傷ついている人も、罪を犯してしまった人も、だれでもです。イエス様の招きに特別な資格は必要ありません。ただ一つの条件は「渇いていること」です。渇きとは、単なる水分不足でなく、魂の必要のことです。

「渇いている者」はどんな人?
① 「頑張っているのに満たされないと感じている人」です。仕事でも、家庭生活でも、教会でも、一生懸命頑張っているのに、心の奥にいつも「何か足りない」と感じている人です。この状態が続くと本当に空しくなります。
② 「自分の弱さや罪に苦しんでいる人」です。自分が繰り返す失敗に落胆したり、人を赦せないと思い続け、苦しさを内側に感じている人のことです。自分の無力さを味わっており、自分では変われない、何も変えられないと葛藤を抱えている状態です。
③ 「神様をもっと知りたいと思っている人」です。もっとイエス様に近づきたい、似る者になりたい、聖く生きたい、信仰を成長させたいと願う心を持っている人です。「内なる渇き」は神様にしか満たすことができません。
反対に自分の内側は、渇いているのに、気づいていないときがないでしょうか。忙しい中でも、ふと一息ついたとき、自分自身に問いかけてみてください、私の内側に渇いた部分が本当に皆無なのかと。私は「渇き」は恵みへの第一歩だと思います。渇いていてよいのです。内側に渇きがある人こそ、満たされる必要性を知っているからです。渇きに気づいたなら、主の前に出ていって静まり、御言葉や祈りの中で示されることを受け取って参りましょう。
イエス・キリストの叫び
ヨハネ7章の背景は、仮庵の祭りです。仮庵の祭りは、約一週間祝われますが、その期間中に祭司は毎日、シロアムの池から黄金の器に水を汲んで、神殿の祭壇に運び、朝夕の供え物と一緒に注いでました。それは出エジプト後の、荒野での神の守りを覚え、雨を降らせてくださった神様に感謝することと、メシア到来を待ち望んでいることを象徴していました。その儀式のクライマックスで、イエス様は立ちあがって叫ばれたのです。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』(7:37-38)
つまり、イエス様は「本当の命の水は、ここにいるわたしだ!」とおっしゃっているのです。イエス様は、決して仮庵の祭りを否定しているのでなく、「形式的な儀式であなたたちは本当に満たされているか?」と問いかけていると思います。「心の奥底」は、「腹・最も深いところ」です。感情でなく、私たちの存在の中心そのものです。
私たちは心にあるものが外へ流れ出ます。心の奥底に悲しみがある人は、悲しみを醸し出しているでしょう。心の奥底に怒りを抱えている人と交わるなら、その人の怒りが伝わってくるでしょう。印象とは伝わり、感じるものです。
内なる人と外なる人~砕かれること~
使徒パウロは、私たち人間の存在を「内なる人と外なる人」という言葉で表現しています。
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(Ⅱコリント4:16)
神様は私たちの「内なる人」の中に住まわれ、外なる人は私たちの外見などです。私たちの霊は「内なる人」で、他人が触れる人は「外なる人」です。「外なる人」はちょうど内なる人が衣服を着ているようなものだと、ある人が解説しています。
神は、ご自身を、ご自身の霊を、ご自身の命を、ご自身の力を、わたしたちの中に、すなわち、わたしたちの内なる人の中に、置かれました。私たちの内なる人の外側には、私たちの思いや、感情や、意志があります。これらすべての外側には、わたしたちの体、すなわち、わたしたちの肉体があります。人が神のために働くためには、彼の内なる人が解放されなければなりません。多くのしもべたちが持つ根本的な問題は、彼らの内なる人が外なる人を破って外に出て来ることができないことです。内なる人が解放されるためには、外なる人は砕かれなければなりません。わたしたちは、自分の働きに対する最初の妨げは、ほかでもなく自分自身であることをはっきり知らなければなりません。
よくクリスチャンは「砕かれる」という言葉を使います。それは、自分自身の弱さや足りなさを神様によって示され、取り扱われることを意味します。彼は、他の箇所で一粒の麦の例えを用いて説明しています。
外側の殻はわたしたちの自分の命であり、内なる命は主が分与してくださる永遠の命です。内なる命が解放されるためには、外なる命は損失を被らなければなりません。外なる人が壊れなければ、内なるものは解放されることはできません。…わたしたちの今日の問題は、どのようにしてこの命を持つかではなく、どのようにしてこの命をわたしたちから流れ出させるかです。…わたしたちの存在そのものは、主によって砕かれなければなりません。

砕かれる経験
私が神学院の二年生の頃です。当時の在校生は全部で三人でした。三人とも個性豊かでぶつかり合っていました。ある日の授業のとき、先生が教室に入って来られると何かを感じてすぐにこうおっしゃいました。「皆さんはこの一週間で、何か霊的なことを体験しましたか?先週に比べて急に成長しましたね」と。誰も何も先生に報告していないのに、先生は気づいたのです。
実は私たちはお互いにぶつかり合い過ぎて、ピークを迎えていました。しかしチャペル(礼拝)のときに語られた御言葉で、一人に悔い改めの心が与えられたのです。そのとき、お互いに本当に意味で赦せたかは分かりませんが、お互いを受け入れる一歩を踏み始めた頃でした。教授の先生は私たちの内側に起きた霊的な変化を、霊によって感じたのでしょう。それまで私たちから流れ出すものは、一致とは言い難いものでした。しかし牧師になる勉強をしている者たちがこのままではいけないと、三人が感じていたと思います。神様は三人を砕かれたのでした。
香油の壺(土の器)が砕かれるとき
マルコ14:3-9に「ナルドの香油」の記事があります。壺よりも中の香油が高価なものです。マリアは石膏の壺を割り、イエス様の頭に香油が注がれました。イエス様は怒るどころか、「良いことをしてくれたのです」とおっしゃいました。マリアは、やがて十字架に架かり死ぬイエス様のために、自分ができる最高のことをしたのでした。イエス様も、「彼女は私のために埋葬の準備をしたのだ」と評価してくださいました。
壺が砕かれないと、純粋で高価なナルド香油は外に流れ出ることができません。聖書で私たちは「土の器」(Ⅱコリント4:7)だと言っています。土の器は高価なものではありませんが、壺のような入れ物で、中に何を入れるかで価値が決まります。神様は私たちの外側の「土の器」を砕いて、中のもの(イエス・キリストご自身)が外に出て行くようにとされる方です。
神様の命はすでにありますが、覆っている「外なる人」が砕かれることで、主の霊が自由に流れ出すことができます。外なる人とは、自我、頑固さ、プライド、何かへの執着でもあります。砕かれるとは、それらが神様の手に委ねられて、ねりきよめられることです。何度も何度も砕かれる必要があります。

命の真清水を求めて
また「生ける水の川」とは聖霊のことを表しています。聖霊が渇きを満たし、他者を潤し、キリストご自身を現わしてくださいます。
イザヤ書44:3-4を読みます。
「3わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。4こうして、彼らは水の中の草のように、流れのほとりの柳のように、生え育つ。」(イザヤ44:3-4)
聖霊が注がれると、人は柳のように生き生きと育つことができます。沖縄には、海の中から真水が湧き出る場所があります。私の母教会の牧師先生が一度、その場所へ連れて行ってくれました。糸満市の遠浅の海岸で、周囲は塩水なのに、その場所だけ小さいですが泉になっていて、深いところから清らかな水がこんこんと湧き出ているのです。試しに水を飲んでみましたが、確かにその水は真水でした。
一説によると、「ジョン万次郎」が上陸した場所とも言われているようです。ジョン万次郎は少年のとき、漁師として船に乗っていましたが、漂流してしまい、アメリカ船の船長に助けられて、養子となり、教育を受けて日本に帰国した人です。アメリカで洗礼を受け、クリスチャンになったそうです。
来週はペンテコステ礼拝ですが、ペンテコステ(聖霊降臨祭)を前にして、私たちは自分自身の内側に渇きがあるかどうかを確認したいと思います。もしあるなら「主よ、私は乾いています」と自分の渇きを認め、主の元に行き、水を飲みましょう。また砕かれることを恐れずに主に委ねたいと思います。
この世界の暗さの中でも、私たちの心の奥底から、キリストの命の水が流れ出ますように。
♪満たして下さる方♪
作詞・作曲 北村聖慈
主よ わたしは うえかわいて 今ここに来ました
主よ あなたに 両手上げて 心から崇めます
主よ あなただけが わたしを満たしてくださる方
主よ あなただけに 賛美の歌をささげます


