ヨブ記1:1-22「主は与え、主は取られる」
2025年3月16日(日)主日礼拝メッセージ
聖書 ヨブ記1:1-22
説教 「主は与え、主は取られる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。2彼に男の子七人と女の子三人があり、3その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。4そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。5そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
6ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。7主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。8主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。9サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。10あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。11しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。12主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。
13ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、14使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、15シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。16彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。17彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。18彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、19荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
20このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、21そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。22すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
ヨブ記1:1-22
■【1.祝福の神】
神の祝福:シャロームの経験
以前いた教会で、青年会のキャンプの後の打ち上げだったかと思います。青年のリーダーが集まって、食事をしていた時のことでした。キャンプで深い交わりがもたれ、一体感が生まれ、神の御言葉が語られ、共に祈りに打ち込み、新しい仲間が加わり、神様が祈りに答えて祝福して下さっているという信仰と温かい充実感に満たされていました。ある姉妹が「今までで今が一番楽しい」と言い、僕も「自分もそうかもしれない」と言い、別の姉妹も「今が一番楽しい」と言いました。それを聞いていた別の姉妹が、皆が異口同音に「今が一番楽しい」って言うのって、「すごいことだよ」と言いました。その場にいた4人全員が、今もそれぞれ教会で重要ンあ奉仕を担っています。▼神を中心に皆が一つの心になり、皆が神の祝福と守りを感じて、平安と喜びと奉仕の充実感で満たされている。これは、聖書が言う「平和」シャロームの経験だと思います。
ヨブがかつて経験していたのは、このような「神からの平和」シャロームでした。神の祝福を表す多くの子どもたち。族長のような莫大な財産。子どもたちは仲睦まじく互いに行き来し、ヨブは神を恐れて、家族全体が神の前を歩むように導きました。
6節以下の神様とサタン(悪魔)の会話では、天から見たヨブの祝福が描かれます。8節で神様が「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」と言います。神はヨブをよく知り、彼に心を留めておられました。▼10節では、神がヨブと家族と財産の周りに、「垣」を巡して守り、「彼の手のわざを祝福」されたので、ヨブの家畜は地に増え広がっている、と悪魔が言います。ヨブの繁栄の背後には、神の守りと祝福がありました。
ヨブにとって、目に見える「祝福」があり、目に見えない「神の守り」があり、「神に知られている」ことは、試練の中でも変わりませんでした。
■【2.試練の時】
しかし、この神の守りと祝福が取り去られることがあります。それが試練です。
【2種類の苦しみ】
聖書によれば、苦しみには、①自分の罪や過ちが招いた苦しみと、②自分には落ち度なく降りかかってくる苦しみがあります。ヨブの場合は、ヨブの側には落ち度がなく、苦しみに遭う典型的なケースです。
【試練が誘惑となる時】
主の祈りで、私たちはいつも「試みに合わせないでください」と祈ります。自分から進んで試練を受けるほど、試練とは生易しいものではありません。▼試練に遭う時に、私たちは弱くなります。私たちがもともと持っている一番弱い部分があらわれます。▽他人にどう思われているか、なんと言われているかが気になります。▽神以外の別のものに慰めを求めるようになります。すぐに手に入る短絡的な喜びに逃げ、入り浸るようになります。▽そして、神に信頼するよりも、人間に頼ります。神に祈り求める熱意が減り、祈りの時間がおろそかになります。そうなれば、神との関係性が後退していきます。
【試練は試すもの】
試練は私たちの信仰を試し、練り清め、その真実を証明するものです。
1ペテロ1:6-7 「…今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」
金属を火で溶かして精錬するように、私たちが試練の炉に入れられて、私たちが信仰の忍耐を働かせて、苦しみの中でひたすら神を求めるならば、私たちの信仰は純粋で、さらに神に喜ばれるものにかえられていきます。
悪魔は、ヨブが「神に守られているから、神を敬っているにすぎない。財産が取り除かれれば神を呪うに違いない」、すなわちヨブはご利益信仰に違いないと考えました。▼しかし、ヨブは試練の中で、損得勘定を越えて神を敬う姿を見せて、その信仰の真実さを証明しました。試練は、私たちの信仰を試し、純粋にし、その隠れた性質を明らかにするものです。
【試練を通して与えられる恵み】
以前、私が親しくして頂いたご婦人は、若い頃にご次男が悪性リンパ腫になりました。彼の病気を通して教会に来るようになり、ご次男はイエス様に出会いました。厳しい手術を繰り返し、頭が割れるような痛みの中で、彼は「母さん、感謝だね、感謝だね」と言い続けたそうです。姉妹は、その息子さんを見て、イエス様を信じました。
ご次男は数年の激しい闘病の後に天に召されます。それを機に、ご長男もイエス様を信じるようになりました。やがてこのご婦人のお宅に、同じようにご家族を亡くして悲しむ方々が集うようになり、多くの方が御言葉と交わりを通して慰められていきました。
長い年月が経って、姉妹ご自身がご次男と同じ悪性リンパ腫になりました。最も恐れていた病気でした。その方は、ご次男が激しい苦痛の中で感謝で満ちていた姿が、生涯、不思議だったそうです。しかし、彼女自身の最後の時、「感謝だね、感謝だね」と言いながら召されたて、そのお顔は、まるでずっと会いたかったイエス様にお会いしたような喜びにあふれた笑顔でした。苦難を通して開かれる恵みの境地があるのだと思います。
■【3.試練の神はどんな方か】
今日の聖書箇所を選んだ時に削ってしまったのですが、ヨブ記1:6-12に天上での神様とサタンのやり取りが出てきます。ヨブ記1章で、ヨブに対する神の御心がはっきりと記されているのは、この箇所です。この箇所から、私たちに試練を許される神様は、どんな方なのか、見てみたいと思います。
1.私たちを知っておられる方
ヨブ1:8 主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
主はヨブの心を知っておられ、その生き方を知っておられます。神様がヨブに心を留めておられます。▽神様は、私たちの愛も、真実も、また弱さも悔い改めも知っておられます。私たちが神を知っている以上に、神が私たちを知っておられて、最も良いものを与えて下さることを覚えて、主に感謝して信頼いたしましょう。
2.信頼してくださる方
神様はサタンの前で、ヨブを誇ります。サタンは神様をそそのかして、ヨブの財産と家族を奪い去ろうとします。しかし主は、ヨブの真実を知っておられて、ヨブを信頼して、サタンに「<ヨブ>の財産をすべておまえの手に任せる」と言われました。人間にとっては恐ろしいことですが、ここに神の深い知恵と、私たちへの信頼が込められています。試練の中に、私たちへの神様の深い信頼があることを覚える時、試練の中で神の愛を感じて、慰めを頂きます。
3.私たちが試練にどのように応答するかを知っておられる方
神はなぜこのような試練を赦されたのか、ということの背後に、「神は、試練の中で私たちがどのように振る舞うかをあらかじめ知っておられる」ことがあります。[1] 神が私たちの選択と選択をあらかじめ知っておられて、最善のものを私たちに下さいます。神は私たちが「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない」のです(1コリント10:13)。神様が、私たちの力と信仰とその限界を知っておられて、それを越える試練に遭わせることはない、ということは、大きな励ましではないでしょうか。
4.試練に限界を定められる方
主は私たちの信仰と弱さを知っておられて、どのような試練の中でどのように反応するかを知っておられて、耐えられない試練はお与えになりません。試練に限界を定められます。
ヨブ1:12「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。
ヨブ2:6「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
神はサタンの挑戦をある程度受け入れて、1章ではサタンがヨブの財産と家族を奪うことを許します。しかし、ヨブ自身を傷つけることは許されません。2章ではさらに進んで、ヨブを病気で打つことまで許されますが、命を奪うことは許されません。▼神は全てを知ったうえで、ヨブの信仰が倒れてしまうような試練には合わせられませんでした。
【神の守りの経験】
これは単なる理論ではありません。様々な試練の中で、健康上の試練の中で、精神的な試練の中で、予想もできない形/神様の助けとしか思えない形で乗り越えることができたという証しがよくあります。
私自身の経験で言えば、①人間関係の悩みや霊的な試練の中にいた時に、思いもかけない方から連絡を頂き、励まされ・慰められこと。 ②経済的な必要を誰にも言っていなかったのに、思いがけないところからその必要がちょうど満たされたこと。 ③辛い出来事があった後に、思いもかけずいろいろなプレゼントを頂いて、神様からの慰めを感じたこと。 ④会社や教会の働きの中で悩んでいる時に、思いがけない人との出会いでなすべきことがスムーズに動いたことなど、そういった出来事を何度も繰り返し経験しました。▼うまくいかないこともあります。しかし、神の守りと導きを知り、経験してきた人は、「うまくいかないこと」、神の導きと守りの中にあることを学んでいきます。
5.最終的に祝福を与えられる方
ヨブ記では、一番最後には、神様はヨブの病気を癒し、全ての財産を元通りにし、彼の「後の半生を前の半生に増して祝福」し、彼は天寿を全うして「満ち足りた生涯」を送ります。▼ヨブ記は、理由なく訪れる苦難に遭う義人の生き方を尋ねる文学ですが、しかし、神の究極的な意図は「ヨブに祝福を与える」ことでした。▽ヨブは、考えられる限りの苦難の中で、嘆き苦しみ、その苦しみの中で、神がご自分を現されます。この物語全体を、「神は生きておられ」、「神は善い方である」という信仰が貫いています。この確信に立って、ヨブは苦難の中でも神の前を歩み続けます。▼新約聖書では
ローマ8:28 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」
1ペテロでは、私たちの試練は「キリストの苦難」にあずかることであり、試練で試された信仰は、やがて「称賛と栄光と誉れ」をもたらすのだ、と教えています(4:12-13、1:6-7)。
今私たちが苦難の中にあっても、恵みの神がこの試練を与えられたのは、私を苦しめるためではなく、豊かな祝福を増し加えるためであることを信頼して歩んでまいりましょう。
■【4.ヨブに学ぶ試練と謙遜】
いよいよ試練に遭ったヨブの姿を見ていきます。災いは突然、東西南北のあらゆる方向から押し寄せました。まさに、神ご自身がヨブに敵対して向かってこられたのでした(ヨブ2:3)。
ヨブ1:20-21 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
ヨブは、試練の中でも揺るがない敬虔な姿で神の前に歩みました。ヨブの敬虔な姿の内にあるヨブの心は、どのようなものだったか、見ていきたいと思います。▼それは、一言でいえばヨブの「謙遜」であったと思います。ヨブは強力な試練の中で、無力なありのままの人として、神に向かいました。▼謙遜はあらゆる罪の根と言われる高慢の反対で、あらゆる徳の基礎と言われます。ヨブの神の前での謙虚さが、試練の中で敬虔な姿を保たせました。
◆悲しみを受け入れる
ヨブが知らせを聞いて「上着を引き裂き、頭を剃った」のは、悲しみのしるしでした。激しい苦悩の中で、その現実を認め、神の前にその痛みと悲しみを表しました。地にひれ伏して神を認め、神が与えたこの試練を受け止めます。▼この苦しみから逃れようとせず、事実を認めた後は、否定もせず、誰かのところに逃れることもなく、地にひれ伏してこれを受け止めた姿に、この危機を乗り越えることのできたヨブの強靭さ・しなやかさがあります。
◆何も持たない裸の者だと認める
そして、ヨブは、何も持たない裸の者であることを認め・告白します。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。」▼なんと謙虚な告白でしょうか。私たちの多くが、人より優れた者となるためにあくせく働き、自分がどれだけ得たかを誇り、人を批判し、見下します。だからこそ、多く失えば、悲しみ・落胆し・絶望します。▽「コップの中に水が半分しかない、ではなくまだ半分もある」と考えなさいと言われますが、ヨブは、「コップの中に水は残っていないけれど、もともと何もなかったのだ、もとに戻っただけだ」と言っています。▽ヨブは東の地域で一番の有力者でした。富も地位も名声も幸せな家庭も全てを持っていたヨブが、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」と言う心を保っていました。それは、彼が自分の力と意志で獲得したのではなく、神により頼み・神の祝福としてこれらを受け取っていたことを表しています。
ヨブは、何も持たない貧しい裸の者であった過去を記憶していました。そして、何も持たない貧しい裸の者となった今の現実を受け入れました。そして、やがて死んで主のみもとに行く時に、どんな富も地位も持っていくことはできないという人間の運命を直視していました。そして、今も・過去も・死後においても、共にいてくださる神の前で、ありのままの裸の姿で、謙遜にひれ伏して神を礼拝しました。
◆神の手から受ける
ヨブは、「主が与え、主が取られた」と告白します。「主が与え、悪魔が奪った」ではありません。「主が与え、主が取られた」のです。2:10ではヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と妻を諭します。▼天上での会話では、悪魔が神様をそそのかして、試練をもたらしました。ヨブはこの経緯を知りません。しかし、いずれにせよ、この災いを悪魔に帰すことはしませんでした。ヨブは、悪魔によってもたらされたこの災いが、究極的には神の許しのもとで起こっていることを認めました。究極的には、神の主権の下で起こっていることなのだと。▼この信仰は、理由のない苦しみの中で、神との激しい格闘になっていきます。しかしヨブは、これら全てが、神の主権と許しの下で起こったこと、善い恵みの神様の下で、これらすべての理由のない苦悩が起こったことを、信じて疑いませんでした。
◆試練の中で神をほめたたえる
ヨブは、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言って、試練の中で神をほめたたえます。讃美は、自分がおかれた状況によりません。自分に良くしてくださったから礼拝するのではなく、神が良い方であり、神の力が偉大だから讃美し、礼拝します。 ▼これこそ、悪魔がヨブを試みた点でした。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」――あなたが彼の財産を守っておられるから、ヨブはあなたを礼拝しているのです」と。▼私たちはどうでしょうか?神が楽しませてくださるから、神を礼拝するのでしょうか?私たちは、神が神であるから礼拝するのでしょうか。それとも、自分にご利益があるから礼拝するのでしょうか?▼逆境の中でも、「主は善いお方」と信頼して礼拝することを学んでまいりましょう。
ヨブは、神の厳しい試練の中でも、自分の確信を曲げることなく、神の前に立ち続けました。神の前に嘆き、率直な祈りと叫び求める声をあげました。彼が真実であり続けたので、主は彼に答えられ、ご自分を現してくださいました。人ではなく、神に求め続けたヨブの姿があります。友人たちの争ったヨブは傲慢だったでしょうか?神は3人の友人たちを偽りとされました。ヨブは、神の前で謙遜であり、神に対して罪を犯すことがありませんでした。神を見上げて神により頼む謙虚さこそ、試練の中でヨブを敬虔に保った土台でした。
■【5.キリストの試練】
今日は、ヨブを通して、厳しい試練の中で、身を低くして神に信頼し、どんな逆境でも神を讃美し、試練に打ち勝って神に栄光を帰し、その真実さを証明し・祝福と栄誉を受けたことを見ました。ヨブの試練と忍耐は、私たちの主イエス・キリストの姿を思い起こさせます。
1ペテロ2:22-23「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」
迫害と侮辱と苦しみを忍ばれ、十字架の死までも受けられ、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。▼私たちがクリスチャンとして生きるために味わう苦しみは、「キリストの苦しみにあずかる」ことなのだと、使徒たちは教えます(1ペテロ4:13,16)。キリストの名のゆえに、天におられるキリストに代わって、キリストと共に、苦しみを受けるのです。その時、「栄光の御霊」ご自身が、「私たちの上にとどまって」くださいます。
■【まとめ】
試練の中で、神がどんな方であるかを覚えましょう。①神は私を知っておられ、②信頼して下さり、③私の力と限界を知り、④耐えられない試練はお与えにならず、⑤祝福を受け継ぐために私たちを招かれました。▼私の試練のただ中で、①試練の痛みをまっすぐに受け止め、②貧しい裸の者であることを認め、③すべてを治める最善の神様が、試練を与えられたことを覚えて、④どんな時でも良い神さまを讃美する、主を見上げる謙虚な平安の中を歩んでまいりましょう。
人として苦しみを耐えられたキリストを見つめて、
キリストの苦しみに共に与かることを喜びつつ、
私たちの上にとどまってくださる栄光の御霊と共に、
忍耐する者に約束されたいのちの冠を約束を握って、
歩んでまいりましょう。
[1] ヤコブス・アルミニウスの神学で、哲学的には「中間知」と呼ばれます。