ルカ1:5-25「神を知るための沈黙」

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10)

2024年12月8日(日)礼拝メッセージ

聖書 ルカ1:5-25
説教 「神を知るための沈黙」
メッセージ 堀部 里子 牧師

ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。

ルカ1:6-7

シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。あなたはもはや災を恐れることはない。

ゼパニヤ3:14-15

おはようございます。アドベント第二の礼拝を迎えて、クランツに二本目のキャンドルが灯されました。今日も共に主の御言葉に聞いて参りましょう。

日々良い日を味わうために

以前、「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)という本をいただきました。副題は『「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』となっていて、その13番目に「雨の日は、雨を聴くこと」とありました。文章を少し引用いたします。

「雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。‥‥どんな日も、その日を思う存分味わう。お茶とは、そういう「生き方」なのだ。…雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も「いい日」になるのだ。」

森下典子「日日是好日」p217

題名の「日日是好日(毎日が良い日)」という意味の通り、その日その時を味わうことが大切で生き方に繋がるのだと。日々を味わうためには、喧噪から離れて自分自身を沈黙させる必要があるのではないでしょうか。

私たちはアドベントを過ごしながら、聖書の真実を味わいたいと思います。そしてどんな日も、主に在って良い日となりますようにと願います。さて、今日はルカの福音書より、神様から沈黙させられた人に学びたいと思います。

ザカリヤとエリサベツは何者?

キリスト誕生以前に、もう一つの「受胎告知」がありました。ルカの福音書は、ある祭司夫婦から始まる祝福を記しています。

「ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。」(ルカ1:5-7)

ザカリヤとエリサベツこそ、神様によって備えられた夫婦でした。ザカリヤはアビヤ組の祭司とありますが、祭司のグループは全部で24組あり、それぞれ年に二度、一週間ずつ神殿の務めを行います(Ⅰ歴代誌24:5-19)。因みに祭司に定年はなかったようです。アビヤ組は8番目の組でした。

エリサベツは祭司アロンの家系で、祭司の娘でした。祭司が祭司の家系の妻を持つことは当時、特別な祝福だったようです。夫婦は年を取っていましたが、「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」とあります。聖書は、二人に罪が全くないとは書いてはいません。「神のみまえに正しい」とは、「神の目には叱責することも非難されることがない」という意味です。

神の前に正しく生きてきた祭司夫妻でしたが、自分たちではどうすることもできない悩みを長年抱えていました。それは、エリサベツが不妊の女性で、子どもがいないということでした。当時、子どもが与えられないことは恥とされ、随分と肩身が狭い思いをしたようです。敬虔な信仰を持つ祭司夫妻に子どもがいないことを、神様が祝福していないのではと思った人もいたかもしれません。

実際には二人はすでに老年期を迎えており、子を得るには年を取り過ぎていました。ですから、子どもをこれから授かることは夢にも思っていなかったと思います。

あなたには長年人知れず祈ってきた事がありますか。もしまだ祈りがきかれていないなら、どのように受け止めているでしょうか。

突然の受胎告知

「さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務をしていたとき、祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。」(ルカ1:8-10)

ザカリヤは、聖所に入って香をたく務めを果たすことになりました。その務めは、祭司の一生に一度あるかないかの務めで、特別なことでした。「すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。」(ルカ1:11-12)ザカリヤは、自分以外誰もいないはずの聖所に誰かがいることにびっくりしたでしょう。主の使いは、恐怖に襲われているザカリヤに「妻が男の子を産むだろう」という衝撃的な言葉を告げました。

「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。」(ルカ1:13-14)

突然現れた主の使いが告げたことに対して、ザカリヤは「やったー」という喜びの反応をしたわけではありません。恐怖で固まっていたでしょう。また「あなたの願いが聞き入れられた」といきなり言われても「え、今更でしょうか?」という気持ちも出て来たかもしれません。

ヨハネ誕生は夫婦の祝福で終わらない

ヨハネの誕生予告は、ザカリヤとエリサベツ夫婦の祈りに対する答えでした。ザカリヤという名前は、「主は覚えておられる」という意味がありますが、名前の通り主はザカリヤの祈りを覚えておられたのです。そしてヨハネの誕生は、彼ら二人の喜びで終わることでなく、多くの人々・神の民イスラエルへの祝福の知らせでした。

ザカリヤとエリサベツ以外にユダヤにもっと若い夫婦がいたはずですが、神様はこの二人を選ばれました。なぜでしょうか。分かることは、人の考えること以上のことを神様は計画され、備えられるということです。そして私たちにその計画が明らかにされた時、私たちは計画された神を信頼し、神がなされる良き事柄を待ち望む姿勢を見せたいと思います。

ヨハネの特徴とは

誕生予告だけでなく、ヨハネは誕生後の運命・使命も主の使いによって語られます(ルカ1:15~17)。それはヨハネの特徴でした。

  1. 聖さ:ぶどう酒や強い酒を飲まない。
  2. 能力:母の胎内にいるときから聖霊に満たされる。エリヤの霊と力で主に先立って歩む。
  3. 使命:イスラエルの子らの多くを、主に立ち返らせる。整えられた民を用意する。

このようにヨハネは生まれる前から神に認められ、備えられていました。しかし、父親になるザカリヤは「どうしてそんな事が、わたしに(強調の主語)わかるでしょうか。(なぜなら)わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(ルカ1:18)と返事しました。ザカリヤは主の使いの言葉を完全に信じることができなかったのです。結果、ザカリヤはヨハネが生まれるまで口をきけなくなり、言葉を発せなくなってしまいました。「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから」(ルカ1:20)

十ヶ月間の沈黙

この瞬間から、ザカリヤは沈黙させられました。実際に20節の「ものが言えなくなる」というギリシャ語は、「沈黙している」という意味があります。10ヶ月間もです。外で祈りながらザカリヤが出て来るのを待っていた民はザカリヤが手間取っていることを不思議に思いました。通常祭司が、香をたく奉仕を終えたら、祝祷「アロンの祝福の祈り」をすることになっていました。実際にザカリヤが出て来て口がきけなくなっている状態を目の当たりにし、神によって特別な事態が起こったのだと理解したようです。

ザカリヤが口がきけなくなったのは、信じなかったからということで、神の罰とも取れますが、「確信を与えるためのしるし」でもありました。

受胎告知は神殿での奉仕の真っ最中だった

先ず、ザカリヤが主の使いと出会った場所が神殿でした。ザカリヤは特別な奉仕の祈りの中で「ヨハネという男の子が与えられる」という受胎告知を受けたのです。出発点が神の宮で祈りの奉仕であったという点に大きな意味があります。

ヤン・リーフェンス「神殿にいるザカリア」

神を知る時として

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10)

ザカリヤは沈黙させられたことによって、否が応でも自分自身と向き合い、人や物事を客観視する機会が与えられたはずです。「静まって」とは新共同訳では「力を捨てよ」で、英語ではBe still(静まって)となっています。

私の一番下の弟が高校卒業後、茨城県の専門学校で学ぶために一人暮らしを始めました。沖縄から来て友だちもいない中、最初は一日誰とも話さないで過ごす日があったようです。ある日、私に電話をしてきて「ねーねー、俺、今日、誰とも話さなかった。電話で初めてしゃべってる」と言うのです。びっくりしました。「こんな時こそお祈りするんだよ」と言ったら、「何をどう祈っていいか分からない」とのこと。「主の祈りを祈ったらいいよ」と教えました。親元を離れて孤独を体験した弟は、二年後とても逞しく成長しました。弟は専門学校時代に出会った女性と結婚に導かれ、今では三人の娘のパパです。神様の御計画は素晴らしいです。

口を閉ざされたなら、神様に全ての状況を委ね、将来を導く神ご自身を知る時とさせていただきたいと思います。

神と対話する時として

カトリック教会では「沈黙」を黙想する時としてとても大切にする習慣があります。神学院のリトリートはよくカトリックの修道院でもたれました。おしゃべりな私は最初は大変でしたが、新しく神様の声を聞くチャンスを与えられ、御言葉を与えられ励まされた思い出があります。

2014年に「大いなる沈黙へ」という映画があり、見に行きました。フランスのアルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院に初めてカメラが入ったと話題になったのです。撮影の許可を得るまで16年、監督が、半年間修道士たちと生活をしながら一人でカメラをまわしたそうです。映画の編集が終わると、撮影許可を申請した時から実に21年が経過していたそうです。ナレーションも照明も音楽もない2時間49分の深い瞑想の映画とも言えます。作品のキャッチフレーズに、「音がないからこそ聴こえてくるものがある。言葉がないからこそ、見えてくるものがある」とありました。

私たちも沈黙させられる時があると思います。与えられた沈黙を大切にし、祝福の時として主を待ち望みましょう。

神の御計画の中で

メシア誕生はある日突然成し遂げられたのでなく、神様の長い御計画の中にありました。そしていよいよ新しい時代の幕開け直前に、神様が備えられた一組の老夫婦に赤ちゃんが生まれるという人間の限界と不可能を乗り越えていったのです。

ザカリヤだけでなくエリサベツも5カ月間、沈黙を保ちました。そして「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」(ルカ1:25)と告白しました。イエス・キリストの誕生の目的こそ、私たちの恥を取り去り、罪を洗い流すことです。ヨハネの名前は「主は恵み深い」という意味がありますが、正にイエス様を指し示しています。その時が来れば実現する良き知らせを、私たちはすでに知っています。

ザカリヤとエリサベツという老夫婦をキリスト誕生の直前に備えられた、神様の御計画は何と素晴らしいことでしょう。彼らの人間的な限界と不可能を突破され、ヨハネを誕生させ、イエス様の前を歩ませた神ご自身を褒めたたえたいと思います。