ルカ13:31-35「今日も明日も、その次の日も」~十字架へ向かう確かな歩み~

ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』イエスは彼らに言われた。『行って、あの狐にこう言いなさい。「見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。

ルカ13:31-33

1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。
 主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。

4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。
 わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、
 主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。
 あなたにむかって、わたしの心は言います、
 「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

詩編27:1-8

十字架への道:ルカ13:31–35

①背景

イエス様はすでに「十字架へ向かう旅路」の途中にあって、エルサレムへ向かっていました(9:51〜19:27)。ちょうどそのとき、パリサイ人たちがイエス様のところへやってきて言いました。「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」(13:31)親切心から言ったのでしょうか。本当に警告してくれたかもしれませんし、またはエルサレムから遠ざけようと圧力をかけようとしていたかもしれません。両方の解釈があります。

②「狐」:権力者の狡猾さ

狐は、狡猾さの代名詞です。イエス様はヘロデ王のことを「狐」と呼びました。「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。」(13:32)

ヘロデ王は、時の権力者でしたが、政治権力も「神の時」を止めることはできませんでした。実際の死の脅威があるにも関わらず、イエス様はヘロデ王を恐れていません。なぜでしょうか。イエス様は恐れを感じなかったのではなく、恐れよりも父なる神への信頼を愛が勝ったのだと思います。そしてご自分を父なる神様のご計画の中に置いているので、恐れを持っていても前進する力が与えられたのでしょう。

私たちは天気予報を見て、一日の予定を変えることがあります。雨なら出かけるのを辞めたり、延期したりします。しかし「延期できない歩み」があることを心に留めたいと思います。イエス様は「危険です」という知らせを受けました。普通なら予定変更して、エルサレムに行くことを辞めるでしょう。イエス様は「十字架へ向かう歩み」を予定変更されませんでした。

③ 「三日目にわざを終える」(13:32)

十字架へ向かう歩みの到達点は、「救いの完成」です。「イエス様の「十字架上の七つの言葉」の六番目が「完了した」(ヨハネ19:30)でした。イエス様は、十字架で命をかけて苦しみながら、罪と死と戦い抜かれた後、「完了した」とおっしゃったのです。何が完了したのでしょうか。罪の清算、救いが十字架上で完了し、全うされた、完成した、成し遂げられたのです。(τελειοῦμαι)」

④ 「しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。」(13:33)

これは「一日は24時間である」という時間の区切り以上の意味があります。ヘブライ的表現で、「神の定めた期間、使命が完了するまでずっと進み続ける」ということです。つまり、イエス様の「十字架への歩み」は神様のスケジュールで、「予定通り」なのです。イエス様の使命は、状況が原因で中止されるという次元ではないのです。

高校時代、塾の帰り道、最終バスに乗って帰るも、疲れて寝てしまって何度も降りる停留所を乗り過ごしてしまったことがあります。公衆電話から親に電話をして迎えに来てもらいました。親は子どものために雨が降っていても、どんなに遅い時間でも「今日は眠いからやめよう」とは言いませんでした。なぜでしょうか。愛があるからです。

⑤ 「エルサレムへの嘆き」

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(13:34)

ここで突然、語調が変わって、「エルサレムへの嘆き」をイエス様は吐露し、「めんどりがひなを翼の下に集めるように」と母鳥の比喩で愛の嘆きを現わされます。

私の実家でにわとりをたくさん飼っていた時期があり、孵化したひなたちがお母さんの翼の下からぴょこっと顔を出す姿を何度も見たことがあります。暖かそうで安心感があるのでしょう。ふと見るとめんどりの翼の下にいないひなは、受けられる庇護を受けず、庭を駆けずり回っていました。もしそのめんどりが言葉を話すなら、「あなたは私が呼んだ声が聞こえているのに、自分勝手ね。お母さんは悲しいわ。」と言ったかもしれません。

ここで重要なことは、イエス様はエルサレムに対して、「裁きの宣言」ではなく、拒絶されたことに対する「愛の嘆き」を現わしているのです。神様は忍耐される愛の神ですが、開いているドアが閉まる時が来ることも確かです。

ある家では、遅く帰る家族のために玄関の灯りを消さないそうです。誰も帰らない夜でも灯りを残す。「いつ帰ってきてもいいように。」エルサレムを見つめるイエス様の涙は、まさにその灯りのようです。

主の御顔を求める:詩篇27篇

今朝開かれた詩篇27篇を見ると、作者であるダビデは敵に囲まれ、悪を行う者に囲まれていました。しかし、ダビデは「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう」と告白して、問題解決よりも先ず、主の臨在を求めました。「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。ダビデから学ぶことは、主を慕い求める信仰とは、義務ではなく自ら進んでの応答なのです。忙しい人ほど予定表に「本当に大切なこと」を先に入れるそうです。そうしないと、全部が重要に見えてしまうからです。ダビデは王であり戦士でしたが、彼の予定表の一番上には恐らく「主の御顔を求める」が書かれていたことでしょう。

イエス様は、「十字架へ向かう確かな歩み」をされました。ダビデは、「主の御顔を求める歩み」をしました。私たちも、「恐れの中でも主に従う歩み」をしたいと思います。

◇恐れが語りかける声(ルカ13:31)

恐れが語りかける声(ルカ13:31)とは、どんな声があるでしょうか。「危険です」「やめた方がいい」「無理です」

私たちを取り巻く現実には、恐れが語り掛ける声以外にも、日々の疲れ、体調不良、不安などがあるでしょう。イエス様の姿を思い出しましょう。イエスは、恐れによって進退を決めませんでした。父なる神への信頼と使命がイエス様を前進させました。

◇神の時の中を歩まれる主(13:32–33)

「今日も明日も、その次の日も」。イエス様は、焦らず、逃げず、神の計画の中の歩みを止めませんでした。私たちの生活も働きも神の時の中にあることを覚えたいと思います。例え完璧でなくても、主の歩みに参与しているのです。

◇嘆きながら愛される主(13:34)

イエス様は、人々から拒絶されても、理解されなくても、怒って進むのでなく、嘆きを心に持ちながらも進まれ、愛することをやめませんでした。十字架へ向かう道は、愛の持続なのです。

◇一つのことを願う歩み(詩篇27)

ダビデの信仰は、「ただ一つのことを求める」歩みでした。決して大きな成功も成果を求めるのでなく、 主の御顔を求め続けました。私たちも完全でなくても、ただ主の御顔を求めて歩み続けましょう。

◇使命のために進む

先週は、予定通り進まない一週間でした。集会の奉仕が続き、時間が足りず、花粉症で目はかゆく、集中も続かず、「ちゃんと準備できるはずだったのに」と思う一週間でした。そして心のどこかで、「神様、ごめんなさい」と思っていました。ルカの福音書を読んで気づかされたのです。イエス様も、落ち着いた安全な場所ではなく、命の危険の知らせを受けながらこう言われました。

今日も明日も、その次の日も、わたしは進む。」完璧な状況だから進んだのではなく、使命があるから進まれたのです。

◇恐れに支配されない歩み

王子消防署に女性の消防士が勤務されています。消防士は火事を見て逃げません。私たちは危険を見ると離れますが、彼らは使命によって方向が決まっています。イエス様も同じでした。危険が進路を決めたのではなく、使命が進路を決めたのです。

◇「今日も明日も」の歩み

大きな手術を受けたら、回復は必ずしも劇的ではありません。理学療法士は言うでしょう。「今日は一歩だけ歩きましょう。」次の日も一歩。その次の日も一歩。その積み重ねが回復になります。神の働きも、多くの場合、奇跡ではなく今日も明日も続く小さな忠実さではないでしょうか。

信仰とは、速く走ることではありません。主と同じ方向に歩き続けることです。イエス様は言われました。「きょうもあすも、またその次の日も」。主の歩みは、華やかな勝利の行進ではありませんでした。誤解され、拒まれ、危険を知らされながら、それでも十字架へ向かう歩みでした。なぜ進まれたのでしょうか。強かったからではありません。愛しておられたからです。

詩篇27篇でダビデは言いました。「ただ一つのことを私は願う。」問題がなくなることではなく、主の御顔を求めることでした。

私たちの一週間も、整ってはいません。疲れもあり、不安もあり、思い通りにならない日もあります。それでも主は今日も言われます。「今日も明日も、またその次の日も、私と共に歩みなさい」と。ただ主の御顔を求めながら、主と同じ方向へ一歩進む。その歩みを、主は喜ばれます。今週も、主と共に歩み出しましょう。