ルカ17:11-19「感謝のささげもの」

2022年10月9日(日) 礼拝メッセージ

聖書 ルカによる福音書17章11~19節
説教 「感謝のささげもの」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

12そして、ある村にはいられると、十人の《ツァラアトに冒された人》に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
(ルカ17章11~19節、口語訳から不快語・差別用語を改変)

感謝のささげもの

【新しい季節に感謝】

すっかり秋になりました。イスラエルでは秋が新年で、今年(2022年)は9月26日にユダヤ暦の新年5783年(ロシュ・ハシャナー)を迎えました。そして去る10月5日が大贖罪日(ヨム・キプール)、明日10日から仮庵祭が始まります。

今日は最初に「主に感謝せよ」というイスラエルの賛美をヘブライ語で歌いました。ヘブライ語の「ヤーダー」という言葉には、「感謝をささげる・罪を告白する」という意味があります(他にも複数あり)。「感謝する・罪を告白する」という全く別の意味が一つの言葉に込められていることにびっくりしませんか。

先日、本を読んでいて以下のひとくだりに出会いました。共感しましたので、聖書本文に入る前にご紹介したいと思います。

過去の出来事を感謝するのは、過去にだけしか心が向いていないようでありながら、将来に向かっての基礎を作っているのだと思います。もし過去に対して感謝の思いが一つもなく、不平と不満ばかりであるとするなら、おそらく将来もそういう歩みをするのではないかと思いますが、いかがでしょうか[1]

今朝は聖書より「感謝のささげもの」と題してメッセージをいたします。

【十分の一の感謝】

今日の聖書箇所は、旅の途中で出会った十人の人たちが、イエス様の言葉に従うと病が癒される場面です。イエス様の周りには弟子たちを始め、パリサイ人や律法学者たちも大勢の群衆がいて、直接イエス様の救いの言葉を聞いていました。言葉を聞いて心から悔い改めた取税人や罪人もいました。でも大多数の人は、直接イエス様に感謝を表す反応をする人はいませんでした。イエス様の言葉を聞いて私たちはどのように反応するでしょうか。

特に心に留めたい箇所は癒された者たち十人の内、たった一人のサマリア人だけがイエス様の元に戻って来てひれ伏して感謝したことです。ひれ伏して感謝するとは、イエス様を礼拝したのです。しかもその人はユダヤ人から良く思われていないサマリア人でした。後の九人のユダヤ人はどうしたのでしょうか。主が「私たちに求められる感謝のささげもの」とは何かを共に見て行きたいと思います。

感謝をささげに戻ってきた人

【主イエスにあわれみを求める】

「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。」(11)

ユダヤ人は混血のサマリア人を異邦人と見なし、偏見という壁が少なからずありました。互いに対立し合い、サマリア人はユダヤ人にとって目障りな存在でした。ですからサマリアを通って旅をするユダヤ人は攻撃をよく攻撃を受けたようです。「(サマリアの)村人は、…イエスを歓迎しようとはしなかった」(ルカ9:53)ともあります。サマリアとガリラヤの境を通られたことでイエス様が両者の橋渡しの役割も担っておられたのではないでしょうか。

「そして、ある村にはいられると、十人の《ツァラアトに冒された人》に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。」(12-13)

ガリラヤとサマリアの間にツァラアト(重い皮膚病)に冒された人々の集団居住地があったようです。そこに民族の壁を越えて、ユダヤ人とサマリア人がいたのは皆汚れた状態でいたからでしょう。

沖縄にハンセン氏病の「愛楽園」というキリスト教の施設があり、教会関係者の夫婦がそこに入居されていて訪問したことがあります。社会から隔離されてその施設内で結婚をし、子どもを持つことは許されなかったそうです。多くの偏見や孤独と戦ってこられたと思いますが、信仰を持っておられ明るい笑顔に励まされたことを思い出しました。

十人のツァラアトの人々は一般の人々に直接会うことは許されていませんでした。だから「遠くの方で立ちとどまり」イエス様に叫んだのです。遠くから大声で叫ぶしか気づいてもらう方法がなかったのだと思います。彼らは「私たちの病を癒してください」ではなく、「わたしたちをあわれんでください」と叫びました。先ずあわれみを求めたのです。この叫びはイエス様が癒し主であることを認めた者の信仰の叫びです。

【主イエスのあわれみにすがる】

「患部のある《ツァラアトに冒された人》は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。」(レビ13:45)

彼らは家族や社会から隔離されて過ごさなければなりませんでした。ツァラアトに罹った人が隔離されなければならないのは、衛生的な理由というよりも、宗教的な理由でした。当時、ツァラアトは神の律法に背き、悪い考えや行いの結果で発症すると考えられていたようです。レビ記を見ると、ツァラアトの症状が出た人はすぐにイスラエルの幕屋の外に追い出されてしまいました。疎外され惨めな気持ちを持って生きていたと思います。ルカによる福音書の著者であるルカは医者として、病の癒しの記事をたくさん記していますが、医学的な立場からでなく記者としてイエス様の周りで起こった癒しをただ事実としてそのまま伝えています。

ツァラアトの人々は自分が重い皮膚病であることを周りの人に知らせるために、自ら「汚れている」と叫ばないといけませんでした。イエス様はそのような人たちに出会うために来られました。イエス様は彼らをあわれまれ、無条件で十人を一人残らず癒されました。この癒しはイエス様へ叫んだ信仰の結果です。私たちもこの十人のようにただイエス様のあわれみにすがるほかない存在ではないでしょうか。

【癒された感謝】

「イエスは彼らをごらんになって、『祭司たちのところに行って、からだを見せなさい』と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。」(14) 

ツァラアトは汚れた病気とされていたので、単なる癒しでなくきよい者に回復される必要がありました。祭司が彼らのからだを調べて、症状が治まっていれば、「きよめられた」と宣言してもらいます。そして初めて、彼らは社会生活が営めるようになるのです。またいけにえを神にささげてきよめの手続きを終えることができます。ですから普通は癒されてから祭司のところに行くべきですが、十人はイエス様の言葉に従って出発すると、祭司のところに行く途中で癒されました。

肉体の癒しの恵みを受け取った十人の内、一人が戻って来て感謝をささげました。

「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。」(15-16)

癒される前も叫びましたが、癒された後の彼の大声は最初の叫びよりも大きかったかもしれません。彼がイエス様の元に戻って来て、神をほめたたえたのは自分が完全に癒されたことを知ったからです。「感謝した」という言葉は現在分詞で書かれており、感謝し続けたことの意味です。形式的でなく心からほとばしりでる感謝であったと思います。

【二重の祝福を受ける】

「イエスは彼にむかって言われた、『きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか』。」(17-18)

他の九人のユダヤ人が戻って来てイエス様に感謝しなかったのはなぜでしょうか。イエス様が癒したのでなく、祭司に見せに行くようにという命令に自分たちが従った結果起こった癒しなので、取り立ててイエス様に感謝する必要はないと思ったのでしょうか。感謝をささげたサマリア人はイエス様から二重の祝福を受けました。

「それから、その人に言われた、『立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ』。」(19)

このサマリア人はツァラアトからきよめられただけでなく、イエス様が彼に更に救いを宣言されました。後の九人は癒される恵みは受けましたが、結果的に救いの宣言を受けることはありませんでした。この救いの宣言は罪からの救いの意味も含みます。私たちは神様からの恵みに十分に感謝をしているでしょうか。

【イエス様の関心の範囲】

イエス様の関心は病人だけでなく全ての人の救いにありました。ユダヤ人も異邦人も例外なく神の前では同じように倫理的・道徳的に汚れている霊的ツァラアト(病い)に冒された者なのです。イエス様の弟子たちも含めて、取税人、娼婦、一般の人たちも皆罪人なのです。彼らと一緒に食事をするイエス様に対して、文句を言うパリサイ人や律法学者たちにイエス様はこう答えられました。「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:31-32)。

男性も女性もユダヤ人も異邦人も関係なく、イエス様に対する信仰によって救いを得るのだということをはっきりと示しています。

【ナアマン将軍の癒し】

旧約聖書のⅡ列王記5章に、ツァラアトに罹り、癒された異邦人のナアマン将軍のお話があります。アラムの王様の軍の長であったナアマンは思い皮膚病であるツァラアトにかかっていました。彼の妻のお世話をしていたイスラエル出身の捕虜の女性の言葉を通して預言者エリシャのことを耳にしました。

ナアマンは病気が治りたい一心でエリシャに会いに行きました。するとエリシャは使者を遣わしてこう言いました。「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。」(同5:10)エリシャの使者の言葉を聞いたナアマンは激怒して帰ろうとします。自分の想像していた癒しと違っていたからです。するとナアマンのしもべたちがナアマンにこう言いました。

「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。

彼はすべての従者を連れて神の人のもとに帰ってきて、その前に立って言った、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。…これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。」(13-17)

しもべたちに促されたナアマンは素直にヨルダン川へ行き、川に七回身を浸しました。すると癒されたのです。ナアマン将軍も預言者エリシャのところに引き返して感謝の意を表し、信仰告白をしました。癒し主と個人的に出会う時、私たちは癒された感謝と主に対する信仰を新たにさせられるのです。

【主を覚え礼拝する】

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

この聖書の言葉は私が一年間お世話になったドイツのホームスティ先の家の壁に日本語で掲げられていました。私の母がお友だちに頼んで書いてもらい、ドイツの家族へのお土産として持たせてくれた大きな掛け軸でした。私は毎日この御言葉を見て学校に行き、学校から帰って来ては目にしていました。留学中はいつも言葉と文化の壁があり、喜んでばかりはいられないことも多々ありました。しかし神様に頼り、祈ることを学んだ一年でもありました。感謝できないこともありました。しかし、毎日この御言葉を見ている内に、その日感謝できることを探して感謝することに神様が導いてくださり、感謝している内に心が晴れ晴れとしたことが何度もありました。今日は何も感謝することが全くないという日はないのです。美味しいご飯が食べられて感謝、事故なく怪我無く一日を過ごせて感謝、今日は昨日より授業についていけていた、学校の帰り道に虹を見た、犬の散歩に行けた、など冷静に自分自身の言動を振り返り、感謝することができました。

また一日を振り返ると、感謝だけでなく失敗したことや反省も出て来て、自然に悔い改め(罪の告白)へと神様は導いてくださいました。ヘブライ語のヤーダーのように「感謝と罪の告白」はセットなんだと身をもって体験したことです。この御言葉を日本の書道というお土産として持参したのですが、結果的に私の留学生活を支え続けた御言葉となりました。「喜ぶこと、祈ること、そして感謝すること」は三位一体のようにいつも繋がっています。

皆様の今週の歩みの中にもたくさんの感謝する材料を信仰の目で見つけて「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(別訳「安心して行きなさい」)と主の二重の祝福が注がれますようにと祈ります。私たちの肉体の癒し以上に心を留めるべきお方は肉体も心も魂も癒すことのできる全人的な癒し主・救い主であるイエス・キリストだからです。私たちに求められる感謝のささげものとは、正にこの主を常に覚え、「喜ぶこと+祈ること+感謝すること=主への礼拝」なのです。私たち自身の礼拝を「ささげもの」としたいと思います。

このページの口語訳聖書では「らい病人」という言葉が使われていますが、差別用語とされているため、《ツァラアトに冒された人》という言葉で置き換えました。


[1] 松木祐三著「主に従う者に与えられる祝福の道」より