ルカ22:39-46「共に/独りでいること」

聖書 ルカ22:39-46、詩編65:1-4
説教 「共に/独りでいること
メッセージ 堀部 里子 牧師

40いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。41そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、42「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

ルカ22:40-42

1 神よ、シオンにて、あなたをほめたたえることは
 ふさわしいことである。
 人はあなたに誓いを果すであろう。
2-3祈を聞かれる方よ、
 すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。
 われらのとががわれらに打ち勝つとき、
 あなたはこれをゆるされる。
4 あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、
 あなたの大庭に住む人はさいわいである。
 われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の
 恵みによって飽くことができる。

詩編65:1-4

昨日から大学入試の「共通テスト」が始まりました。知り合いから祈って欲しいと連絡をいただいて、お祈りをしています。皆さんの関係者で受験生がいらっしゃるでしょうか。合格の恵みが与えられますように。

受験生は集まって一緒にテストを受けますが、一人ひとりがそれぞれにテストに向き合わないといけないわけです。誰かが自分のために試験問題を解いてはくれません。今年、私たち一人ひとりに課せられている神様からの課題(テスト)は何でしょうか。

共にいること/独りでいること

今年の年間聖句に、「ともに」という言葉が二回使われています。今日のメッセージのタイトルは「ともにひとりでいること」ですが、「ともに」とは誰かと一緒にという一般的な意味があるので、ひとりでどのように「ともに」が実現するのかと不思議に思った方もおられたかもしれません。

神学生時代に恩師が「大勢の人の中にいても、ひとりでいることを意識するように。ひとりでいても多くの人に囲まれていることを大切ですよ」と教えてくれました。それはどんなときでも「私という一個の人間が神によって生かされていることを忘れるな」という意味だと受け取りました。時間を経て、その意味が深まっているように感じます。今朝はイエス様の「ゲッセマネの祈り」を通して学びたいと思います。

聖書の中で使われる「ともに」が、単に物理的に誰かと「一緒にいること」でなく、目に見えない神がともに私たちとおられることを示しています。また聖書の「ともに」は、関係性や結びつき、また神の臨在を強く示す意味があるので、私たちの人生の目的や運命、存在を共有するという意味合いも含んでいます。

「共に」と「独り」の実際

CGN(Christian Global Network)という24時間放送しているクリスチャンの番組がありますが、その番組は韓国のオンヌリ教会が、教会で派遣している数多くの宣教師たちのために作った放送局でした。海外で孤軍奮闘している宣教師たちが、孤独の中で霊的に枯渇しないように、励ますためであったと。今では日本を含む様々な国に支部ができ、日本語でも番組が作られるようになりました。教会の無い地域や、牧師のいない無牧の教会がその番組で放送されるメッセージで、礼拝をしているそうです。私自身も、毎朝「リビングライフ」という短い番組を通して恵みをいただいています。一人で御言葉に耳を傾け、祈りますが、同じように多くの人たちが同じ御言葉を聞いて励ましを受けているだろうと思うと、目には見えないですが、キリストに在る大きな神の家族なのだなと感謝の気持ちが湧いてきます。

しかし、家族はいつも一緒にいられるわけではありません。人生の節目を迎えると、家族であってもそれぞれの歩みをします。私の甥っ子も今年高校卒業をして、沖縄の航空会社に就職が決まり、4月1日には入社式は東京とのことです。小さかった甥っ子が社会人になるとは!

イエス様にとって、弟子たちは家族のようでありました。ともに食事をし、ともに行動して宣教活動をしていました。エルサレム入られて、十字架にかかる前の最後の一週間は、夕方になるといつもオリーブ山で祈りのときを持っていたようです。ルカはイエス様が捕らえられる夜の祈りの時だけを記しています。イエス様は毎日祈っていたと思いますが、特別なときにこそ「いつものように」「いつもの場所」での祈りを大切にされていました。「39イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。40いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、『誘惑に陥らないように祈りなさい』」(ルカ22:39-40)

ともに祈ることができない弟子たち

 イエス様はいつものようにオリーブ山へ行き、弟子たちと共に祈ろうとされました。しかし彼らに「誘惑に陥らないように祈りなさい」とおっしゃり、少し離れてひざまずいて祈っている間に、弟子たちは眠ってしまいます。彼らは疲れもあったと思いますが、「悲しみのはて寝入って」いた(ルカ22:45)と記されているように、イエス様が十字架に向かうことを知っており、別離が近いことで悲しみに覆われていました。この悲しみをどうすることもできず、もしかして祈ろうとしても祈れなかったのかもしれません。イエス様を待てずに眠りに落ちてしまいました。イエス様はおひとりで苦悶の祈りをささげました。イエス様と弟子たちの姿が実に対照的です。

イエス様は「眠ってはいけません」とはおっしゃいませんでした。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とおっしゃりました。「誘惑」とは何でしょうか。ここで言う「誘惑」とは神様から離す力のことです。イエス様も洗礼を受けた後、荒野で誘惑を受けられました。誘惑は誰でも受けますが、誘惑に陥らないことが大切なのです。イエス様は弟子たちに祈りの援護射撃を望んでおられましたが、弟子たちはしっかり祈ることができませんでした。

先週、イランで暴動が起こり、公開処刑が行われるとのことで、クリスチャンYouTuberが水曜日の21:30に皆で祈ることを呼びかけました。実際には公開処刑は延期されました。呼びかけたYouTuberの方は、祈ってくれた皆に感謝をしていました。そして続けて祈ってくださいと促していました。祈りは、ともに苦しみさえも分かち合い、自分のこととして一人で神の前に出ることであると改めて思いました。

弟子たちは悲しみましたが、悲しみを神に訴え、打ち明けて祈るまでには至りませんでした。ともに祈れず、ともに眠ってしまいました。物理的にそばにいることだけでなく、遠くからでも心の目を覚まして苦しみの中にある心の祈りを分かち合うことが大切なのではないでしょうか。たとえ短くても真剣に心を合わせて祈ることを重ねていきたいと思います。

イエス様の祈り

祈りの本を多く書いたO.ハレスビーは、「祈りとはその真ん中に神ご自身をお迎えすること」と言っています。またアンドリュー・マーレ―は「自己中心は祈りを殺すものである」(祈りの生活p.98)と言いました。イエス様は「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と祈られました。この杯(十字架)を取り去って欲しいと、自分の願いを申し上げても、その真ん中に神を迎えているからこそ、祈りを聞いてくださるか、そうでないかの決断は神に委ねています。たとえ自分の願い通りにいかなくても、それが神のみこころなら受け入れます、という信仰を私たちは神様に見せる必要があるのです。

イエス様は「父よ」と祈られました。神が遠い存在でなく、私たちも神様を「父」として近くお呼びして祈ることが許されています。イエス様の祈りから分かることは、祈りはひとりで父の前に出ることで、神の子として生きるために父の御心と恵みを切に求めることであることが分かります。イエス様の祈りの中心は、自分の願いの成就でなく、自分に対する神の御心の成就でした。

去年から北区のボランティアとして活動しているのですが、お一人の方と一緒に物の片付けと整理をしながら、いろいろなお話を伺う機会が与えられています。先月、クリスマスの時期に、その方の家にピアノがあるので、一緒に讃美歌を歌って初めてお祈りをしました。聖書を読んだことがある方でした。その方と先週、イエス様のゲッセマネの祈りの話になり、「私にはあのような祈りはできないです。」とおっしゃいました。私はその時、「そうですか、そうですよね」としか言えませんでした。その日以来、そのことを反芻していました。確かに口先だけで祈りを唱えることは誰でもできると思います。心の底から同意して祈ることは確かに難しいと思います。数日を経て、自分の足りなさや小ささに目を留めるのでなく、神の大きさに目を留めることが大切だと確信しました。

ヤマト運輸の創設者の息子さんの話

救世軍の小隊(教会)で救われて、後にカトリック信者の奥さまと出会い、ご自分もカトリックの信者になった経営者である小倉昌男さんはあるとき、なぜ神を信じているのかという質問を受けました。

「小倉さんはクリスチャンということは、神の存在を信じているわけですよね。その根拠はどういうものなんですか」その問いに小倉は、静かに答えた。「たとえば人間。この人間である自分の心身をつぶさに見るといい。こんな精緻(せいち)きわまりない創造物をだれが創りうる?神以外ないではないか。神の存在を信じるゆえんだよ。」(小倉昌男 祈りと経営~ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの 森健著p.161)

「神の存在を信じるゆえん」は人それぞれかもしれません。人間の存在と限界を超える偉大な方が確かにおられること、その方は小さな私でさえも気にかけてくださっていることを知り、その神に信頼して生きることは、新しい世界が開けることでしょう。そして神の存在を知った人は、祈る人となります。

ボンヘッファー:「共に生きる」

ナチスと戦ったドイツの神学者ボンヘッファーにとって、祈りは自分のためよりも隣人のため、国家のための執り成しの祈りであったと思います。ボンヘッファーは「兄弟のために祈ることをやめたとき、私はその兄弟を裁き始める」と言いました。

イエス様は苦しみもがきながらも、祈りも弟子たちを愛することもやめませんでした。弟子たちが祈れなくなることを知っていても彼らのために祈り続けました。ペテロがイエス様を三回否む前を思い出してください。イエス様はペテロに声掛けをされます。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)信仰がなくならないように背後で祈ってくださっていたイエス様の祈りを覚えたいと思います。そして私たちも心に浮かぶどなたかのために、信仰がなくならないように祈り続けていきましょう。

私たちはひとりで神との交わりと祈りを経て、他者ともに生きることを諦めずに互いの愛が深まるのではないでしょうか。

ボンヘッファーの映画が公開されて、すぐに見に行きました。ボンヘッファーは難題が押し寄せてくるたびに、ナチスの手から逃げたくなりましたが、諦めませんでした。海外へ逃れても、やはり危険を冒してでも再度、祖国ドイツの地を踏むのです。ボンヘッファーが書いた本に「共に生きる生活」という本があります。その中に、次のような一節がありました。

ひとりでいることのできないものは、交わり(にはいることを)用心しなさい。…交わりの中にいないものは、ひとりでいることを用心しなさい。…われわれは、ただ交わりの中にいる時にのみひとりであることができ、ただひとりであるもののみが交わりの中で生きることができる。この二つのことは、たがいに関連しているのである。ただ交わりの中においてのみ、われわれは、まさしくひとりであることを学ぶのであり、またただひとりであることにおいてのみ、まさしく交わりの中にあることを学ぶのである。どちらか一つが、他の一つに先立ってあるのではなく、この二つは、同時に、すなわちイエス・キリストの召しと共に、始まるのである。…ひとりでいることなしに交わりを望む者は、言葉と感情の空虚さにおちいり、交わりなしにひとりでいることを求める者は、虚無と自己幻惑と絶望の深みにほろびる。…ひとりでいる日がなければ、他者と共なる日は、交わりにとっても、個人にとっても、実りのないものとなる

ボンヘッファー「共に生きる生活」3 ひとりでいる日

「ひとりでいるとき、交わりの中にいるとき…」ボンヘッファーの言葉は、聖書に「いろいろな時」があると書いてあることを私に思い起こさせました。

「黙るに時があり、語るに時があり…」(伝道者の書3:7)

「ともに」とは自分の願い、弱さをもったまま、神の前に出てキリストの祈りに支えられて生きることではないでしょうか。

主イエスの祈り

イエス様が苦しみの中で祈られたとき、御使いがイエス様の祈りを助けられました。汗が血のしずくのように地に落ちながら祈るイエス様は決して一人ではなかったのです。後にエルサレムの教会は、ペテロが投獄されたとき、イエス様のこの祈りにならって祈りました。

イエス様は神の御心を受け取り、ご自分の十字架を背負われることを良しとされました。イエス様の十字架の重さは、人間が負わなければならなかった罪と死の重さです。イエス様にとって十字架の死が耐え難かったのは、十字架が肉体的に過酷な刑だからではなく、光である方が光を失い、父なる神の沈黙と闇の中で、断絶を味わい、栄光を捨てて死ななくてはならないことに苦しまれたと思います。

神の子でありながら、祈りの人であるイエス様が、今日私たちを新たに招いておられます。「自分の十字架を背負ってわたしについて来なさい」と。自分の十字架は私にしか負えません。神の招きは十字架の道ですが、同時に栄光の道でもあります。十字架は死ですが、その向こうには復活があるからです。神の子でありながら、低く低くなられたイエス様は、高く高く上げられました。聖書はいつも逆説的ですが、その示す真理は私たちを生かします。

「ともに泣き、ともに喜ぶこと」が教会の年間聖句ですが、「ともに」ということはその根っこに「先ずひとりで神の前に出ていくこと」があります。神との交わりの中で、私たちそれぞれのゲッセマネの祈りに招かれているということです。自分の十字架を背負って父の御心を求めて「ともに」生きることへ前進して参りましょう。