ルカ23:33-43「十字架につけられた王」

2022年11月20日(日) 礼拝メッセージ

聖書 ルカ23章33~43節
説教 「十字架につけられた王」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】
32さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。33されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。34そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。35民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。36兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、37「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。38イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。
 39十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 (1テサロニケ4:13-18、口語訳)

 先週は、召天者記念礼拝に多くの方が出席されて、先に天に召された方を偲びました。地上の思い煩いではなく、天国の希望に目を留めさせて頂き、とても感謝でした。▼午後にはクリスマスリース作りをしました。短時間で個性的なリースができて、私は初めてでしたが楽しく作れました。前方に飾られたリースは、来週にはアドベントの飾りつけに代わります。教会の暦はアドベントから始まりますので、今日は教会の暦で一年の最後の礼拝に当たります。

【INRI】 主イエスの十字架を描いた宗教画に、INRIと描かれたものがあります。これはヨハネ福音書で十字架の罪状書きに記された「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王」という言葉のラテン語の頭文字です。主イエスの罪状として記されましたが、それが主イエスがまことの王であることを示しているので、信仰告白のように使われる重要な言葉です。

主イエスは、私たちのために十字架で苦しまれた「まことの王」です。

【歴史的背景】「ユダヤ人の王」という言葉の背景をお話しします。主イエスの前後の時代、人々は政治・軍事的な解放者としての王を待ち望んでいました。自分こそ聖書が約束した「ユダヤ人の王」メシアだと主張する指導者たちが繰り返し起こりました。▽BC167-160年のマカバイ戦争のユダ・マカバイ、BC37-4年のヘロデ大王、AD66-70年のユダヤ戦争の指導者たち、紀元AD133-135年のバル・コクバの乱のバル・コクバが有名です。[①]

このように「ユダヤ人の王」を名乗る政治的・軍事的指導者が次々に現れて、しばしば帝国に背いた危険な時代でした。その時代に、主イエスは平和の王・罪と死からの解放者として来られました。人々の想像に反して、聖書の預言通りに、苦難を通って人々を救う「主のしもべ」=王メシアとして、十字架によって救いの働きを成し遂げられました。

今日はこの箇所から、「主イエスはまことの王である」ことについて、①聖書はどのように証言しているか、②それは私たちにはどのような意味があるのか、見ていきます。

Andrea Mantegna, Crucifixion, 1457-1460, Wikimedia Commons

■【1.王としての主イエスのしるし】

 主イエスが「まことの王」である第一のしるしは、十字架上での姿です。

①十字架上の主イエスの威厳

 人は苦しみの中で、本当の姿が現れます。▽自分自身を振り返ると、苦しい時には自分のことで精一杯で、人のことを思う余裕がなくなります。主イエスはどうだったでしょうか。

 33節で主イエスは十字架につけられます。「どくろ」という言葉は、アラム語でゴルゴタ、ラテン語でカルバリです。

34そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。

 主イエスはこの時、すでに鞭打たれ、肉は裂けて体力は限界でした。苦痛のただ中で、最後の苦痛の十字架にかけられ、息も絶え絶えになりながら、ご自分を殺そうとして、乱暴に扱い侮辱する人々に思いを向けておられます。

 主は神に「父よ」と親しく呼びかけます。ここに、主イエスと神の関係の意識が表れています。ユダヤ人にとって、神はイスラエル民族の父ですが、通常、個人的な父とは呼びませんでした。主イエスは神をご自分の父と呼んで、その信頼は十字架の上でも変わりません。

 主イエスは十字架にかけられるような罪は犯していません。しかし、強盗のように、またローマ帝国に背いた反逆者のように、十字架で殺されることに抵抗せず、神の摂理に従って苦しみを受けられました。不条理の中で、死の苦しみを味わい、屈辱のただ中で、苦しめる者の赦しを求めた主イエスの姿に、まことの神の子の姿を見ることができます。

 主イエスの敬虔な姿に対して、人々は対照的に侮辱と冒涜に満ちています。

 34節で兵士たちは主イエスの衣を分け合って侮辱します。▽36節では貧しい人々が飲んだ「酸いぶどう酒」をユダヤ人の王に差し出します。

 主イエスは、「もしもお前がキリストなら、自分を救え」と罵られます。議員から(35節)、兵士から(37節)、十字架上の罪状書きで(38節)、犯罪人から(39節)罵られます。外国人兵士からの侮辱、十字架の犯罪者からの罵りは、特に屈辱的なものでした。彼らは一様に、十字架から逃れるようにそそのかします。「もし神のキリスト…なら、自分自身を救うがよい」と。

 激しい侮辱の中で、主イエスは御父に信頼し、敵のために祈られました。

②キリストご自身の証言

 主イエスが「まことの王」である第二のしるしは、主イエスの証言です。

【キリストの自己証言】 クリスチャンには意外かもしれませんが、主イエスがご自分でキリストであることをはっきりと言われた箇所は多くありません。多くは福音書記者の言葉や、たとえや奇跡による証しです。しかし、十字架の前の夜、大祭司の前に裁判に引き出された時、主イエスは「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」と言われ、全世界を支配する神の権威の座に、ご自分が共に着くことを証しされました。この証言のために、主イエスは「ユダヤ人の王」という罪状で十字架にかけられました。

【適用】 社会の多くの人は、主イエスの教えを褒め、高潔な生き方を尊敬します。しかし、主イエスがご自分を、世界を支配する「全能の神の右に座する」者としたこと、その主張のために十字架で苦しまれたことを考慮しません。主イエスの教えに耳を傾けるなら、主イエスが全世界の王であり、神に等しい権威を持っているという主イエスの言葉にも、耳を傾けるべきです。

 主イエスが「まことの王」である第二のしるしは、主イエスの証言でした。

③預言の成就

 主イエスが「まことの王」である第三のしるしは、実現した聖書の預言です。主イエスの十字架の記事は、旧約聖書の成就として描かれています。

 特に、詩篇22篇では、苦しみの中で主に信頼する詩人に、人々があざけりを浴びせます。この詩篇は、主イエスよりはるか前に書かれたものです。

22:7-8「7すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、8『彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と。」

 ――議員たち、兵士たち、犯罪人は、まさに詩篇22篇に記された「主に彼を助けさせよ」という言葉で、主イエスを罵りました。

 衣服をくじ引きにしたことについて、詩篇22:18です。「18彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

 主イエスの苦しみととりなし祈りについては、イザヤ書53:12です。「12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

 聖書は、主イエスが来られる何百年も前から、救い主である王メシアはこのような人物でなければならないと預言してきました。十字架こそ、苦難のしもべであるキリストが通るように定められたものでした。

イザヤ53:4-5「4まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

 主イエスが「まことの王」である第三のしるしは、実現した預言です。

④救いの約束

 43節で、主イエスは楽園への鍵を持っていることを示しておられます。

43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

 「このわたしと一緒に」という強調のなかに、主イエスが特別な権威を持っていることが示されています。アダムの罪によって追放されたエデンの園のような、やがて来る御国の楽園に入る鍵を、主イエスが持っておられることを示しています。

 ここまで、主イエスがまことの王キリストであることを見てきました。主イエスの①④苦難のただ中での雄々しく敬虔な姿から、また、②主イエスご自身が自らを証しした言葉から、そして③聖書の預言の言葉から、主イエスこそまことの王であることを見ました。

■【2.私たちにどんな意味があるか】

 今日の御言葉は、現代の私たちに、どのような意味があるでしょうか?

【例話:26聖人】 私は10年ほど前に、長崎に一人旅に行きました。長崎市内に26聖人殉教地があります。豊臣秀吉の時代に、カトリックの26人の聖徒が殉教した所です。記念館に史料が展示されていて、殉教者たちの最後の手紙などを読むことができました。そのリーダーであったパウロ三木という修道士は、殉教した十字架の上から人々に説教しました。

「…私は何の罪も犯さなかったが、ただ私の主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私にお与えくださった大いなる恵みだと思う。今、この時を前にして貴方がたを欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵と、自分に害を加えた人々を赦すように教えているので、私は(死刑を命じた)太閤(秀吉)と私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。太閤に対して憎しみはなく、むしろ彼 と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。」

日本二十六聖人記念館ホームページより
http://210.136.236.116/26Martyrscom_old/1パ-ウロ三木の説教.html

 記念館には、栄光の間という部屋があり、殉教者たちの遺骨が安置されていました。その部屋には、大きく御言葉が掲げられていて「神は愛なり」とありました。殉教者たちが、天を見上げて、誰も恨むことなく、ただ神の愛に満たされて殉教していったことが分かりました。全き愛は恐れを締め出すことを覚えました。暗闇の力が押し迫ってくる時、それに全く打ち勝つのは、神様の愛に満たされて、全き愛に生きることだと信じます。

Photo by Masoud Akbari, Site of martyrdom of 26 saints of Japan in 1862, Wikimedia Commons.

①「今日」――無償の恵み

 第一に、43節の主イエスの言葉は、無償の恵みを表しています。

 39節以下に、二人の犯罪者が出てきます。二人はどちらも犯罪を犯して十字架刑になりましたが、その態度は対照的です。▼一人目の犯罪人は、39節で「悪口を言いつづけた」とありますが、これは「冒涜し続けた」という意味です。人々の嘲る声がやんでも、自分も十字架にかけられていることを棚に上げて、この男はキリストを侮辱し続けました。▼もう一人の犯罪人は、彼をたしなめ、自分の罪を認めて、神の前で高ぶって嘲ることを止めて、へりくだりました。マタイとマルコの福音書を見ると、この人もはじめは主イエスを罵ったようです(マタイ27:44、マルコ15:32)。しかし、彼は、主イエスが嘲られても敵のためにとりなす祈りを聞いて、目が開かれたのでしょうか。ルカ福音書では、主イエスの無実を認めて、救い主であることを認めています。

42「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

 卑屈にならず、自暴自棄にならず、主イエスを信頼して、神を恐れながら憐れみを求めています。そんな彼に、主イエスは、救い主の権威をもって、はっきりと恵みを約束されます。

43「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

 パラダイスは、死者が行く楽園・天国です。憐れみを求める犯罪人に、主イエスは「このわたしとともに」=「あなたもともにパラダイスに入るのだ」と言われました。▼「今日」とあります。犯罪人は確かにこの日、命を落としますが、「今日」楽園にいるとは、24時間の日付ではありません。「今日」とは、直ちにこの恵みにあずかることを意味しています。

 ジョン・ウェスレーは、「今日」「今」という言葉を、行いなしに、信仰だけを通して受ける「無償の恵み」を表す神学的な目印としました(参照:Kenneth Collins, The Theology of John Wesley、ウェスレー説教43「聖書における救いの道」三・18)。神に何も差し出すもののない、ありのままの十字架上の犯罪人が、「今日」受け取ることのできるのが無償の恵みです。▽十字架上の犯罪人は、礼拝に行くことも、犯罪の償いをすることも、善い行いをすることもできません。救いを得るために、自分では何もすることができない彼が「今日」パラダイスに入ることができるのが、無償の恵みです。犯罪人は、嘲りを止め、キリストを見て、キリストだけに信頼して、主の憐れみを求めました。そして、主イエスのはっきりとした約束の御言葉を、個人的に頂きました。状況が許すならば、彼はあらゆる面で恵みに応えたに違いありません。

 恵みに値しない者に、信仰のみを通して与えられるのが、無償の恵みです。100%の恵みですので、主が良しとされるなら、「今日」にでも直ちに頂くことができます。私たちも、へりくだってありのままに罪を告白し、主の憐れみを求めて、恵みを頂きましょう。

②「父よ」――神への信頼

 第二に、主イエスが苦しみの中で父なる神に信頼した姿に学びましょう。

 主は死の苦しみと侮辱の中で、威厳と愛を失いませんでした。それは、神の子としての揺るがないアイデンティティと、神様への深い信頼から生まれました。呪いの十字架の上で、「父」なる神に信頼の祈りを捧げ続けました。

【適用】 神の独り子としてのアイデンティティは、主イエスだけのものです。しかし、主イエスは、私たちにも、「天におられる我らの父よ」と祈るように教えられました。主イエスの信頼に倣いたいと思います。試練のただ中でも、神は私たちを愛し、祈りに答えてくださるという信頼を深め続ける者でありたいと思います。▽主イエスが侮辱に耐え、敵のために祈り、求める者に祝福を与えた愛は、父なる神への深い信頼から出たものでした。

 十字架の上で父なる神に信頼した主イエスに従う者でありましょう。

③「選ばれた者」――私の願いではなく、御心が

 第三に、不当な苦しみを耐え忍ぶことです。

 主イエスは、何も悪をしなかったのに、十字架につけられました。人々の赦しを求めましたが、その人々から嘲られました。しかし、主イエスは、悪を悪で返さず、不当な苦しみを耐え忍ばれました。(1ペテロ2:21-24)。

 主イエスは、聖書から「26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入る」(ルカ24:26)ことを知って、使命に固く立たれました。 ▼十字架の前の夜、ゲツセマネの園で心を注ぎ出して祈り、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と心を定められました(ルカ22:42)。十字架を避けるのではなく、十字架の先にある栄光の約束に心を留め、ひたすらに父なる神に信頼し心を向けて、十字架を忍ばれました。

 その限りない神への信仰の従順のために、神は主イエスを死者の中から復活させ、天に引き挙げ、主イエスによって多くの人々を救われました(ピリピ2:8-11、イザヤ53:10-12)。

【適用】逆境に遭う時、私は自分の弱さを痛感します。順調な時は信仰に満ちていても、苦難が来ると失望して不満が出て、周りの状況に心を奪われて、御心から目を離してしまいます。しかし主は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われました。十字架こそ命の道なのだ、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と言われました(ルカ9:23-24)。

 主が与えられた、避けようのない逆境や苦しみを、主からの十字架として受け止めて、ひたすら神により頼みながら、まことのクリスチャンとして、神の招きに答えてまいりたいと願います。

 自分の十字架を負い、主イエスの十字架を覚えながら、主イエスの十字架に感謝しながら歩んでまいりましょう。


[①] N.T.ライト「シンプリー・ジーザス」第9章 p192-212