ルカ4:1-13「もしあなたが神の子なら」

聖書 ルカ4:1-13
説教 「もしあなたが神の子なら
メッセージ 堀部 舜 牧師

主イエスの荒野の誘惑の舞台とされる「誘惑の山」
Photo by Alexey Goral, from wikimedia commons, CC BY-SA 4.0,

1さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、2荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。3そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。5それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。9それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。

ルカ4:1-13

映画祈りの力

昨夏、クリスチャン映画「祈りの力」を見ました。夫婦関係の問題を抱えている主人公のエリザベスは、クララという婦人に導かれて聖書を学び始め、祈りへと導かれていきます。しかし、なかなか祈りに身が入らず、夫婦関係も次第に停滞していきます。夫のトニーの浮気に気付いた時、エリザベスは怒りと意気消沈の中で一人 神に祈ります。その時、御言葉の約束に目を向けます。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」(ヨハネ10:10)「しかし、主は真実なかたであるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう。」(2テサ3:3)「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ4:7) ▽エリザベスは、特に「神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」という御言葉の約束を固く握り、祈りの小部屋を出て、家の中を歩きながら目に見えない悪魔の前で宣言します。「イエス・キリストがこの家の主人であり、もはやこの家にお前の居場所はない。全ての偽りと企みと非難の言葉と共にこの家から出て行け。」「私の結婚も、私の娘も、私の夫も、お前の自由にはさせない。この家は、イエス・キリストの新しい管理の下にある。私の喜びは、私の友だちでも、仕事でも、私の夫でもない。私の喜びは、主イエスの内にある。キリストはお前を打ち負かした。お前は地獄に戻り、私の家族に近づくな!」と宣言します。そこから歯車が動き出すように、聖霊の働きによって、一面では状況が改善し、他の面ではさらなる困難に巻き込まれながら、様々な人間関係が動き始めます。ここに、御言葉の約束に立つ祈りの力があります。[①]

御言葉の背景

教会暦:レント(受難節)

教会の暦では、今日はレント=受難節の最初の日曜日です。教会では、この時期に(日曜日を除く)40日間、主イエスの十字架を覚えて、自らを戒めて過ごします。今年は4月5日がイースター(復活日)礼拝です。

今日の礼拝では、多くの教会で「主イエスの荒野の誘惑」の記事が読まれます。受難節の40日という期間は、荒野の誘惑の出来事にちなんで定められた、古くから続く教会の慣習です。

受難節というと、断食をしたり、肉を食べるのをやめたり、悔い改めの期間というイメージが強いです。それはこの期間にふさわしいことではありますが、「私たちが何をするか」に焦点を当てる前に、「イエス・キリストがどんな方であるか」に注目したいと思います。

「誘惑の山」

ヨルダン川西岸地区のエリコの町の近くに、「荒野の誘惑」の舞台と言い伝えられる山があります。この地域には、茶色の丸い石がたくさん転がっていて、まるでパンのように見えるそうです。▽眼下にはエリコの町を見下ろすことができます。草木のない荒涼とした岩ばかりの山肌から、繁栄したエリコの町を見ながら、悪魔の誘惑を受けられたのかもしれません。[②]

聖書の文脈

「荒野の誘惑」のエピソードの主イエスの姿は、私たちが「目指すべき模範」というよりも、「唯一無二の救い主」として描かれています。洗礼者ヨハネやエリヤのような、英雄的な預言者の1人としてではなく、旧約聖書の歴史全体を塗り替える使命を負った人物として、描かれています。

直前の記事には、①「主イエスの洗礼」と、②「系図」があります。

①主イエスの洗礼の時には、天からの声が聞こえて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と、主イエスが神の子であることが宣言されました。そして、聖霊が鳩のような形で下り、聖霊が主イエスと共におられることが、目に見える形で示されました。

②主イエスの系図は、ダビデ、アブラハムへとさかのぼり、救い主として正統な家系であることを示しています。系図がアダムと神の創造にまでさかのぼることは、主イエスが「神の子」であり、「人類全体の救い主」であることを示しています。

こうして示された「神の子」としてのアイデンティティに対して悪魔が挑戦するのが、今日の「荒野の誘惑」のエピソードです。悪魔は主イエスに向かって、「もしあなたが神の子であるなら…」と言って、神の子としてのアイデンティティを試します。▽もし主イエスがこの挑発に乗れば、主イエスの救い主としてのあるべき姿から反れてしまいます。しかし、誘惑とは何かを試して、本物であるかどうかを明らかにする「テスト」という意味を持ちます。主イエスが誘惑に打ち勝つ時、主イエスが何者であり、どんな使命を持っているかが、明らかになります。


◆悪魔の誘惑と、キリストの使命

1.パンの誘惑:いのちの言葉に仕える使命

第1の誘惑は、石をパンに変えるようにという誘惑でした。

3そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。

荒野の40年と、40日の荒野の誘惑

ここで主イエスが引用した申命記8:3は、荒野の誘惑の意味合いを明らかにします。

申命記8:2-3  2あなたの神、主がこの四十年の間荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。3それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

この引用から、古代イスラエルの荒野の40年と、主イエスの荒野の40日が重ね合わされていることが分かります。▽古代イスラエル民族が荒野の40年で飢えたように、主イエスも荒野の40日で飢餓を経験しました。古代イスラエル人は不平を言って、神に背いてエジプトに引き返そうとしましたが、主イエスは不平を言わず、むしろ神に信頼して、御言葉に従って忠実に生きることを宣言します。▼イスラエル民族が神に従うことに失敗したのとよく似た状況で、主イエスは神に従い通し、真の「神の子」として歩まれました。

適用:神の供給への信頼

私たちは、肉体の必要を覚える時、神の前でどのように振る舞うでしょうか?私たちが主に従って歩む時、(パウロも経験したように)貧しい境遇を経験することがあります。ギリギリ・カツカツの状況を通ることがあります。その時に、自分の心の中で葛藤することがあります。「神がおられるなら、必要は満たされるはずではないか?」「なぜ貧しいのか?」――私たちは、乏しくなることを恐れ、乏しいことを恥とする誘惑を受けることがあります。▽パウロは、「わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」と言いました[③]。ペテロは、「低い身分の(別訳:貧しい)兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい」と言いました[④]。▽私たちは、乏しくなることを恐れ、貧しいことを恥とするならば、神により頼まず、神に仕えるより富に仕え、自分の腹に仕えて保身へと流されてしまいます。

人間の造り出した神は、飢えや渇きを満たすことはできません。しかし、天地を創造した神は、私たちの全ての必要を満たす力があることを信頼したいと願います。

いのちのパン:主イエスの使命

主イエスは、自分の空腹を満たすために神の力を利用せず、むしろ神の言葉に従うことを選びました。▽主イエスは、多くの人々の肉体の必要を満たしましたが、それは主イエスの働きの中心ではありませんでした。5000人に食べ物を与えた後、パンで満腹して主イエスについてきた人たちに言われました。「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」(ヨハネ6:27)「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ6:35) 主イエスは、地上の命を軽んじませんが、その使命はむしろ神と共に生きる永遠の命を与えることでした。主イエスは、永遠の命をもたらす霊の糧としてご自分を与えるという使命に集中して、悪魔の誘惑に打ち勝ちました。

2.栄華の誘惑:十字架で自らを捧げる使命

第2の誘惑は、非常に分かりやすいものでした。

5それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。[⑤]

【悪魔の権威】 悪魔は全世界の権力と栄光を与えると約束します。▽聖書によれば、神から離れた世界を支配しているのは、確かに悪魔です。1ヨハネ5:19「わたしたちは…全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている[⑥]。この世にはびこる拝金主義、不倫や性的倒錯、戦争と憎しみの連鎖、人を自死に追い込むいじめなど、人間性の崩壊を感じさせるような社会現象の背後には、目に見えない悪魔の支配があると私は考えます。確かに悪魔は、これらの富や名誉を与えることによって、人を神から遠ざけ、その心を支配するのではないでしょうか。富や権力や栄誉を与えて、神と共にある永遠の命を奪うのです。

悪魔の誘惑と、十字架の使命

悪魔が、神の子・救い主である主イエスに全世界の権力と栄光を与えようとする時、それはまさに十字架なしに栄光を受ける道を提示しました。それは、主イエスが歩まれた十字架の救い主の使命と正反対の道でした。

ピリピ2:6-11  6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、…8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、…あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

主イエスは、救い主として、「主」として、全ての栄光と権威とを受ける方です。しかしその方法は、仕える者となることによってであり、十字架の死を通ってのみ、復活されて神に等しい座にあげられることになるのです。十字架なしに自ら神の座に着こうとすることは、まさしく悪魔が求めて天から追放された悪魔の道でした。

ある証し:絶望のどん底で出会った十字架

アパルームに、こんな証しがありました。

「愛する主よ」と私は祈りました。「私は絶望のどん底にいるような気分です。」私は息子の葬儀から家に帰る途中でした。通りを歩く人々は、どうしてそんなふうに幸せでいられるのでしょうか?

あの楽器店の前では、どうしてミュージシャンが楽しそうな音楽を演奏しているのでしょうか? 私の世界は閉ざされていました。あの人たちにはそのことが分かっているのでしょうか?その道は暗闇の中へと、私の前に恐ろしげに立ちはだかっていました。しかし次の瞬間、驚いたことに、小さな村に近づくと、教会の上の電飾を施された十字架が私の目に飛び込んできました。「神様、あなたは私と一緒にいてくださるのですね」と私は思いました。あなたは私の悲しみの深さをご存じです。その十字架は、イエス様が私のために耐えてくださった苦しみを思い起こさせてくれました。私は慰められました。

私は、時が経てば、息子の突然の死を受け入れなければならないことを知っていました。…時間は本当に癒し主です。しかし、その事実は最初に悲しみが襲ってきた時には何の慰めにもなりません。…悲しみに向き合うことは、簡単なことではありませんが、それは必要なことです。そして、私は神様の変わらぬ愛こそが、私たちを絶望から解き放ってくださることを知っています。

アパルーム2025年11月22日

神様は、私たちの苦しみの中で、私たちの所まで来て、共に立って下さる方です。そして、様々なことを通して、私たちにご臨在を示してくださいます。御言葉を通して、祈りの答えを通して、讃美を通して、交わりを通して、様々な出会いと導きを通して。主は、私たちのこの地上でもがく私たちの所にまで下って来て、そばに立って下さる方です。

3.神を試す誘惑:神への全き信頼による使命

第3の誘惑は、神殿の屋根から身を投げて、自分が神の子であることを証明せよというそそのかしでした。

9それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。

しるしを求める不信仰

神殿の屋根とは、深い崖に面した神殿の東側の門ではないかとも言われます。神が臨在される神殿という場所で、すべての人々が注目する前で、「あなたが神の子であることを証明しなさい」と悪魔はそそのかします。

福音書には、人々が主イエスに、救い主であるしるしを求める言葉がいくつもあります。宗教指導者たちは、「イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたい」と言いました。主イエスの兄弟たちも、主イエスに「ユダヤに行ってはいかがです。…自分をはっきりと世にあらわしなさい」と言います。また、十字架上の主イエスの前でも、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」とあざける者がいました[⑦]。▼このようなしるしを求めることの背後にあるのは、「神はあなたを救わない」という不信仰です。

主イエスの信頼

12節で主イエスが引用した旧約聖書も、古代イスラエルの荒野の旅にまつわる箇所です。

申命記6:16 あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

古代イスラエルは荒野で神様が水を与えて下さることを信じずに、モーセと争い、神様を試しました。しかし主イエスは、悪魔がしるしを求める不信仰に対して、神様を試みることをせず、神様への信頼を表しました。主イエスの神への信頼と従順は、十字架の死に至るまで変わることなく、死者の中から救い出す力があり、そうして下さる神の恵みに信頼されました[⑧]。その全き信頼によって、主イエスは神と一つになって、救い主としての使命を成し遂げられました。


◆どのようにキリストに従うか?

ここまで、荒野の誘惑でのやり取りから、神の子・救い主である主イエスの使命がどのようなものであるか見てきました。荒野の誘惑は、救い主である主イエスに固有の戦いでした。

その主イエスに従うとは、私たちにとってどのようなことでしょうか?主イエスの荒野の誘惑は、古代イスラエルの荒野の旅と重なり合うものでした。それは、イスラエル人たちが信仰によって歩むことを失敗し続けた道のりでした。私たちは、イスラエル人と同じようにそこに向かうならば、同じように失敗するしかありません。では、私たちはどのようにしてキリストに従うことができるのでしょうか?荒野の誘惑の文脈で、モデルとなるいくつかの要素があります。

①洗礼

第一は、洗礼です。主イエスは洗礼を受けて、神の子・救い主として公に宣言され、聖霊に満ちて、聖霊に導かれて荒野の誘惑を受けられました。主イエスの洗礼は、主イエスに従う私たちにとってのモデルです。

宗教改革者のルターに、次のような逸話があるそうです。

かつてルターの家に貧しい召使い女がいたが、彼女は後に堕落して非常に惨めな状態に陥った。ルターは彼女を訪ね、なぜこんなになったかを尋ねた。「だんなさま」彼女は答えた、「私は神から離れて、悪魔に私をまかせたのです」。そこでルターは言った。「それはいけないね。エルサ。いいかね。君はここにあるこのお金や本や服をフロリンス君にくれてやることができるかい」「いいえ、それは私のものではないんですもの。」「そうだろう。できないね。君もそのとおりだよ。君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。だから、自分を自分でかってに悪魔にわたす権利はないんだよ。さあ、悪魔との契約を破棄なさい。そうすれば神さまが熱い火を悪魔の上においてくださる」。[⑨]

ルターにとって洗礼とは、神のものになることでした。それは単なる形式や儀式ではなく、神の約束を伴うもので、洗礼という信仰の行為の中で、神が働かれることが聖書で保証されています。洗礼を受けた者は、すでに神のものになった者であり、その揺るがない事実(神の言葉の約束)に堅く立ちました。

ルター自身も、宗教改革の激しい内的・外的な戦いの中で、悪魔が自分に試練を与えている・攻撃していると感じた時、「私は洗礼を受けている」と言って悪魔に答えたそうです[⑩]。私たちも、「私は洗礼を受けた。神のものである」と宣言しましょう。

②聖霊

第2に、神様に忠実に歩むことができる力を与えるのは、聖霊です。聖書は、「悔い改めて…バプテスマを受け」る時に、「聖霊を受け」ると約束しています(使徒2:38)。

主イエスは洗礼を受けた時に目に見える形で聖霊が降って来ました。そして、ルカ4:1-2で、「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り」、「荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」とあります。御言葉に従って、聖霊に満たされ、聖霊の導きに従って、聖霊のいのちに生かされるのです。

③祈り

第3に、祈りです。聖霊は、私たちを祈りに導きます。命のある肉体が呼吸をするように、聖霊の命は神に祈ります。祈りを通して、聖霊は私たちと共に働きます。

④御言葉

第4に、御言葉です。私たちの感情や感覚や試練の中で揺れ動き、私たちの不完全な行いは頼りになりません。そんな中で、ルターは、試練の中で揺らぐことない洗礼と御言葉に土台を置きました。

申命記6:4-6  4イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。6きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、…

ヨシュア1:8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。

【祈り】

父なる神様。主イエス様が、悪魔のあらゆる誘惑に打ち勝ち、肉体の試練も・栄華を求める試練も・不信仰による中傷の試練も乗り越えて、忠実な者・十字架のしもべ・謙遜に信頼する者として、救い主の使命を全うして下さったことを感謝します。私たちが、この主イエスに結ばれた者として、聖霊の導きに従い、御言葉に立ち、祈り深く、主に従う者とならせてください。このレントの期間、悔い改めと信頼をもって、主と共に祈り深く歩ませてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 


[①] https://www.youtube.com/watch?v=ovVbl3O2PA8

[②] https://ja.wikipedia.org/wiki/誘惑の山 宮崎誉「どうぞ主よ お言葉どおりに」荒野の誘惑 ルカ4:1-13

[③] ピリピ4:11-12

[④] ヤコブ1:9

[⑤] 8節は、申命記6:13参照。

[⑥]あなたがたは…かつては…罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」(エペソ2:1-2)。

[⑦] マタイ 16:1、ヨハネ7:3-4、ルカ23:35、他にルカ福音書では11:16、11:29など。

[⑧] ヘブル5:7

[⑨] https://omorichurch.com/message/主の洗礼日(1月7日)「すべての基」/

[⑩] https://feg-akutami.jpn.org/?p=955