ローマ1:14-23「救いをもたらす神の力」
聖書 ローマ1:14-23
説教 「救いをもたらす神の力」
メッセージ 堀部 舜 牧師

14わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。15そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
18神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。19なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。20神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。21なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。22彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、23不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
ローマ1:14-23
ローマ書の背景
ローマ書は、パウロの3回目の伝道旅行の最後に、コリントに3か月間滞在した間に書かれたようです。この時、パウロは伝道生涯の転換点に備えていました。▼それまでパウロは、トルコ・ギリシャなど、地中海の東半分で伝道してきました。ローマ書でパウロは、この地方を巡り歩いて「キリストの福音を満たしてきた」たので、「この地方にはもはや働く余地がない」と述べます。そして、ローマを拠点として、当時地の果てとされていたイスパニア(スペイン)に至る、地中海西方の伝道を計画しました[①]。▽パウロがローマ書を書いたのは、宣教のためにローマ教会の支援を得るために、その神学的な土台を伝えるという目的があったと考えられます。
パウロは、ローマ書を書いた頃、自ら開拓した異邦人教会からの献金を、エルサレム教会に届ける働きをしていました[②]。▽これにはいくつかの目的がありました。①貧しい人々の支援は、パウロの早い時期からの働きの一つでした[③]。②当時、教会内でユダヤ人と異邦人の摩擦が深まりつつありました。献金には、双方に一致をもたらす目的がありました。③異邦人が贈り物を持ってエルサレムに行くことは、聖書の預言の成就と考えられました[④]。▼イエス・キリストの到来によって新しい時代が始まり、パウロはそれを知らせる使徒として召されました。彼は、異邦人宣教や、ユダヤ人と異邦人の和解の使命を、神の歴史の観点から理解していました。▼こうした背景を念頭に、聖書箇所を読んでいきます。
1.福音宣教の重荷
今日のメッセージの最初のポイントは、「福音宣教の重荷」です。パウロは、14~15節で、すべての人に福音を伝える重荷を述べています。
14わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
▼「ギリシア人にも未開の人にも」とは、全ての異邦人を指します。▼「果すべき責任」とは、福音を伝える責任です。▽パウロの宣教の使命は、自分の願いではなく、神から委ねられた使命で、「そうせずにはおれない」「ゆだねられた務め」でした[⑤]。しかし、パウロは、愛によって働く神の僕として、喜びと誇りをもってこの務めを担いました。
▼パウロは、福音宣教のために、非常な苦難と危険、労苦と欠乏、侮辱や迫害を耐えてきました[⑥]。さらに新たな伝道地を開拓しようとする動機は、この「果たすべき責任」にありました。
15そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
▼ローマでの宣教は、帝国の首都というばかりでなく、地中海西方全体の宣教の拠点として、世界宣教の新しいステージの成否がかかっていました。この言葉に、宣教に向かうパウロの決意と情熱が表れています。
◆続く16~20節には、ギリシャ語原文では、「なぜなら」という言葉が繰り返し使われて、「ローマで福音を伝えたい」理由を説明しています。▽14節以降の大まかな流れを追ってみます。
- 14~15節:私は全ての異邦人に福音を伝える責任がある。だからローマでも福音を伝えたい。
――ローマにまで行くのはなぜか?
- 16節a:なぜなら、私は福音を恥としないからだ。
――福音を恥としないのはなぜか?
- 16節b:なぜなら福音は信じる人 皆を救うからだ。
――なぜ信じる人 皆なのか?
- 17節:なぜなら、福音は神の義を示し、信仰から信仰に進ませるからだ。「信仰により義とされた者は、生きる」とある通りだ。
――なぜ、生きるために神の義が必要なのか?
- 18節:なぜなら、全ての不義に、神の怒りが啓示されているからだ。……[⑦]
このパウロの言葉を逆にたどって、18節以下を先に読み、その後で、16~17節を読んでいきます。

2.福音の必要性
第二のポイントは「福音の必要性」です。パウロの宣教の動機は、たどっていくと、全ての人間に対する罪の支配にまでたどり着きます。
18神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
21なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
この箇所は、神を認めない異邦人について述べています。▼罪の根にあるものは、「神を知っていながら、神を認めないこと」だと言います。堕落の流れは不信仰から始まり、深まっていきます。
自分の体験:神を神と認めない
私自身の経験ですが、はじめて聖書を読んだ時に、マタイ福音書を読みました。はじめは疑問だらけでしたが、イエス様が「立派な信仰だ」と言われた二人の人が心に留まりました。8章の百人隊長と、15章のカナン人の女です[⑧]。どちらも、非常な謙遜さが際立っていました。プライドや体面はかけらもなく、ひたすら神によりたのみ、謙遜さと神への信頼が卓越していました。▼この箇所を黙想しながら、私は、自分が神により頼まず、自分のことばかり考えて生きていたことに気づきました。突き詰めれば、自分自身を自分の主として、神を神として認めて崇めていなかったことに気づきました。その恐ろしさに気づいて、おののき、打ち砕かれて、神の前にひれ伏しました。神を神として認めて、聖書に従い始めた時、聖書が理解できるようになりました。私自身のこの経験は、罪の根が「神を神としてあがめないこと」にあることを表しています。
▼世界は罪で満ちています。政治を見れば、日本でも世界でも、嘘や欺きは当然のようになされ、暴力や不正や搾取は横行し、性道徳も乱れています。パウロは、それら全ての根は、神への高慢、「神を神として認めないこと」だと言います。
▼しかし、パウロは、他人を裁く者は誰でも、同じことを自分でしているのだと言います。誰も他人を裁くことはできません。互いに教え合い、戒め合うことは別です。しかし、ただ一人神の前に立ち、自分自身が神の前に正しく立つ以外に、私たちにできることはありません。分別力をもって他人の言葉を見極め、自分を吟味して、主にある自分の確信に立ち、裁きは神に委ねること。そこからそれるならば、私たちは自分自身が神の前に正しく立ち続けることができません。
▼パウロは、神を認めない異邦人も、律法に従っていたユダヤ人も、「ことごとく罪の下にある」と述べました[⑨]。心の動機を見る時に、罪のない者は一人もありません。「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」のです[⑩]。
3.福音の力
第三のポイントは、「福音の力」です。
17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
「神の義」は、パウロの神学の中心で、ローマ書の中心的な主題の一つです。▼ある学者が、「義」という言葉の解釈を3つに分類しています。
(1).「公平なさばき」としての義。裁判で「人がそれぞれふさわしい判決を受ける」ことが「義」という考えです。しかし、罪人がふさわしいさばきを受けるなら、滅びるしかありません。したがって、この意味はパウロの使う「義」の用法ではないと思われます。
(2).「倫理的な正しさ」としての義。しかし、「義」とされた教会に、倫理的問題がある場合があります。そのような教会を、神が「義」と認めることは、裁きを歪めることになります。これも、パウロの用法ではないようです。
(3).「契約を守る姿勢」としての義。「義」という言葉は、旧約聖書では、契約と関係して用いられます。契約を維持することが「義」であり、契約を破るようにふるまうことが「不義」です。[⑪]
(3)の契約的な意味によって、パウロを最も良く理解できると、私は思います。▼人は神に背き、神との契約を破りました。これが人間の「不義」です。神は、人間との契約を破棄するか維持するか、選ぶことができます。神は、人間を捨てることもできるにもかかわらず、イエス・キリストによって新しい契約をくださいました。これが神の「義」です。▽契約を破った人間は、自分で契約を立て直すことはできません。「義」を回復できるのは、神だけです。そこで、神の方からキリストを遣わして、人を救うご自身の「義」を示されました。これは、神から出た、神のわざです。▽私たちはただ、これを信じ、受け入れることで、「義」が回復されます。信仰は、ふさわしくないままで、神がなして下さる恵みの業を認め、感謝して受け入れ、信頼することです。神の愛を受け、神を信じる時、私たちの心に愛・喜び・平安が与えられます。
(説教者によるまとめ)
▼「信仰に始まり信仰に進ませる」とあります。信仰に始まって、行いで完成するのではありません。▽義と認められるのが信仰によるのと同様に、心がきよめられるのも、行いや努力によらず、恵みにより、信仰を通してなされます。ウェスレーは言います。
「もし行いによるなら、きよめられる前に、まず何かをしようと思うでしょう。『このようにならなければ、これをしなければ』と。だとすれば、あなたは今も行いによって求めているのです。もし信仰によって求めているなら、ありのままで期待します。ありのままで求めるなら、今期待できます。……あるがままの自分で、キリストの死の他には、代価を支払うことのできない憐れな罪人として求めなさい。あるがままの自分で求めるなら、今それを期待しなさい。……主は、(与えようとして)待っておられます。」と。[⑫]
16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
パウロは、福音のために、ユダヤ人から激しい非難と迫害を受け、ギリシャ人には相手にされませんでした。パウロは福音のためにあらゆる苦しみを通りましたが、福音を恥としませんでした。
これほどの苦しみとはずかしめを受けながら、なぜパウロは福音を恥としないのでしょうか? ――「(なぜなら)それ(福音)は、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」からです。
異邦人は、神を認めず、自分の道を歩んでいましたが、キリストがその罪を負われました。▽ユダヤ人は、律法を守っていましたが、律法は罪の意識を生んでも、解放することはありません。「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないから」です[⑬]。▼しかし、福音はあらゆる罪の力を取り除きます。罪の罰を取り除き、霊の自由と力を与え、心を解放して喜びと愛を与え、復活の希望を与えます。▼福音は、信じるすべての人に分け隔てなく与えられる、「救いをもたらす神の力」です。
福音的回心の証し――アウグスティヌス
最後に、キリストの福音によって回心したアウグスティヌスの回顧の言葉をご紹介します。
「わたしの悲惨のすべてが…「わたしの心の前に」積み上げた時、…激しい涙のにわか雨をもたらした。……いちじくの木の下に身を投げて、涙の流れ出るのにまかせた。そうしてわたしの目から涙が溢れ出たが、これは「あなたに喜ばれる供え物」であった。……「主よ、あなたはいつまでなのか。……あなたはいつまで怒っているのか。私たちの犯した古い不義のことを思い出さないでください。」…
わたしはこのように訴えて、ひどく苦しい悔恨のうちに泣いていた。すると、どうであろう。……子供の声が聞こえた。そして歌うように「取って読め、取って読め」と何度も繰り返していた。……それでわたしは(急いで部屋に戻り、聖書を)手に取ってみて、最初に目に触れた章をだまって読んだ。「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みを捨てて、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を満たすことに心を向けてはならない」[⑭]。……この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せた…。」[⑮]。
今日は母の日ですが、アウグスティヌスの回心の背後には、敬虔な母モニカの祈りがありました。
母モニカは、息子が異教のマニ教に傾倒し、放蕩していることを嘆いて、司教のアンブロシウスを訪ねました。息子を説得するように、モニカが懇願すると、司教は時を待って祈るように勧めました。しかし、モニカが泣いてしつこく頼むので、司教は「このような涙の子は、けっして滅びることはない」と言いました。モニカはこの言葉を天からの声として聞いたといいます。[⑯]
やがてアウグスティヌスは回心し、モニカは歓喜して主を讃えます。一年後、モニカは旅路で熱病に倒れ、亡くなります。熱病にかかる数日前、アウグスティヌスとモニカは二人だけで、永遠の生命について、非常に愉快に語り合いました。モニカは言いました。「わたしは、もうこの世のどんなものにも喜びを感じない。わたしはこの世で何をなすべきか、また何のためにこの世にあるのか知らない。この世の望みはすでに遂げたからである。ただそのためにわたしがこの世にしばらく生き長らえることを望んでいた一つの望みがあったが、それはわたしが死ぬ前に、あなたを…キリスト信者として見ることだった。神はこの望みを十二分にかなえてくださったので、わたしはいまあなたが地上のあらゆる幸福を捨てて、神の僕となったのを見ることができる。私はもうこの世で何をしようか」と。[⑰]

まとめ
16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
パウロの歩みの原動力は、神から頂いた福音という恵みであり、それは救いをもたらす力でした。神の力と恵みを深く知り、そこにしっかりと立って、深く味わう者とさせて頂きましょう。
[①] ローマ15・19、23~24
[②] ローマ15・25~28、1コリント16・1~4
[③] 使徒11・29~30、ガラテヤ2・7
[④] イザヤ66・20、60・4~7、ゼカリヤ8・22~23
[⑤] 1コリント9・16~17
[⑥] 2コリント11・23~30
[⑦] 「なぜなら」は20節まで続きます。
[⑧] マタイ8・5~13、15・22~28
[⑨] ローマ3・9
[⑩] ローマ3・20
[⑪] P. アクティマイアー「現代聖書注解 ローマの信徒への手紙」p109- 117考察 ローマの信徒への手紙における「義」
[⑫] ウェスレー説教43「聖書における救いの道」三・18ジョン・ウェスレー説教53(下)
[⑬] ローマ3・20
[⑭] ローマ13・13、14
[⑮] 聖アウグスティヌス「告白(上)」服部英次郎訳 岩波文庫 第八巻第十二章
[⑯] 聖アウグスティヌス「告白(上)」服部英次郎訳 岩波文庫 第三巻第十二章
[⑰] 聖アウグスティヌス「告白(上)」服部英次郎訳 岩波文庫 第九巻十章

