ローマ12:15「ともに喜び、ともに泣く」
聖書 ローマ12:15、詩篇133:1-3
説教 「ともに喜び、ともに泣く」
メッセージ 堀部 里子 牧師(新年礼拝)

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
ローマ12:15
1 見よ、兄弟が和合して共におるのは
詩編133:1-3
いかに麗しく楽しいことであろう。
2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
アロンのひげに流れ、
その衣のえりにまで流れくだるようだ。
3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
これは主がかしこに祝福を命じ、
とこしえに命を与えられたからである。
新年礼拝
新年明けましておめでとうございます。
元旦礼拝にKさんが参加され、マスクをとって賛美されている姿を拝見しました。元々合唱団に所属されたりしておられたので、歌うことはお好きだと思いました。後で皆さんの前でお話しておられたのは「心を入れ替えて歌うことにした」ということでした。Kさんが、新しいチャレンジをされていることに私自身は、とても励まされました。
新しいことを自分の中に取り入れるとき、勇気が必要だと思います。今年、私たち一人ひとりが神様からどのようなチャレンジを受けるでしょうか。一人でチャレンジを受けることもあるでしょう。また他の誰かや教会と共に、重荷を担うこともあると思います。
お正月の駅伝大会で青山学院大学が3連覇を成し遂げましたが、正にチームの一人ひとりが自分の精一杯を出したプレーと、監督の采配が勝利を呼び込んだのだと思いました。私たちも今年、共に人生のレースを走り切りたいと思います。
聖句の背景
今年の年間聖句は、説明が要らないほどにとても分かりやすいです。「ともに生きる」ために必要なことは何でしょうか。パウロが「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」と勧めた背景を先ずみていきたいと思います。
ローマ書全体の流れは、前半が(1~11章)は教理が語られています。そして12章~後半は、教理を実践すること、つまり福音に根差した生き方が具体的に書かれています。私たちの応答が求められているわけです。
クリスチャンの多様性
当時のローマの教会は、ユダヤ人キリスト者や異邦人のキリスト者が混在する共同体でした。ユダヤ人と異邦人では文化・価値観・宗教的背景が異なります。違いがあると何が起こるのでしょうか。摩擦や対立、分断が起こりやすい状況だと言えます。
モンゴルに旅行した人から聞いた話ですが、その時に出席したモンゴルの教会の聖餐式ではぶどう酒でなく、ヤギのミルクだったそうです。ぶどう酒が手に入らない地域なのかもしれません。その時に友人はびっくりして違和感を多少なりとも感じたそうですが、受け入れたそうです。
同じクリスチャンでも国や場所が違うと、自分たちのスタイルと形式が異なることがあります。私が洗礼を受けた教会は、女性はレースの被り物をして、男性とは別の席に座っていました。聖餐式では一つの大きなグラスを回して飲んでいました。献金係がいて集めてまわる教会もあれば、それぞれが前に出てきて捧げるスタイルもあります。
パウロ自身はユダヤ人ですが、異邦人宣教を行う中で多くの違いに直面したと思います。だからこそパウロは、違いを越えて相手と心を共有することを重んじていました。
共に歩むために
「ともに」を実現するために必要なことしてパウロは、「互いに〇〇し合いなさい。一つ心になり」と勧めています(10、16)。具体的には①他人を裁かない、②自分を基準にしない、③相手の立場に身を置くことです。
ある時、ある方が「人と人の間の壁を超えるためにどうしたらいいですか」と質問しました。私は「先ずその人を愛しているか、愛するかを自分に問うこと」だと答えました。イエス様がペテロに「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(ヨハネ21:15)の言葉です。この聖書の言葉は、私が神学校の卒業式でいただいた聖書の裏表紙に記されている言葉です。私自身、この言葉を大切にしています。
去年の聖書の言葉にも「愛」が入っていました。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり」(ピリピ1:9)私たちは様々な状況を通して、「愛すること」のチャレンジを受け続けているのではないでしょうか。
当時のローマ社会は、名誉と地位を重んじ、勝者を称えて弱者を軽視する風潮がありました。しかしパウロは、人の成功をねたまず、共に喜ぶこと。弱さや悲しみから目を背けず、共に泣くという、自己中心とは正反対の生き方を示します。それは当時のローマ社会へのパウロの静かな挑戦であったかもしれません。
キリストの生き方
パウロの生き方の中心には、常に「キリストの生き方」がありました。イエス様は、人々の喜びに参加し、病や死、悲しみの中で人とともに涙を流した方でした。「ともに喜び、ともに泣く」とはキリストの心を自分のものとして生きることを意味します。
Ⅰコリント12:26で「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」
なぜともに喜び、泣くかの理由がここにあります。私たちは「一つのキリストのからだ」だからです。

難しいと感じる時
でもこれらの御言葉を重く感じる方もいらっしゃるかもしれません。ともに喜べないとき、ともに泣けないときもあるでしょう。自分のことで精一杯で余裕がない、過去に傷ついた経験があるので、できれば他人の状況や感情に巻き込まれたくないというときもあるかもしれません。ローマ12:15を「命令」としてとらえるのでなく、「行き先」としてとらえたらどうでしょうか。「今すぐ守らないといけない」でなく、「神様が招いておられる関係の姿」として受け止めるのです。パウロは、できないなら失格と言ってはいません。むしろ、福音に生かされるとき、人はこのように変えられていくという方向性が示されています。先ず神がともにいてくださることを喜びませんか。神様は私たちの涙の中にもともにおられます。主語は「私、私たち」でなく、「神」です。
イエス様もラザロのお墓の前でともに涙を流されました。また群衆をみて憐みの涙も流されました。愛しておられたから心が動いたのです。できないときの私たちも変わらず主は私たちを愛しておられます。
一つになることは喜べなくても喜んでいる人は否定せず、一緒に泣けなくてもそばに座る、何も言えなくても祈りに覚えることではないでしょうか。私の知り合いで、他人の誕生日を祝えない人がいました。ケーキをみると怒っていたのです。私はその心が理解できなかったのですが、話を聞くと子どもの頃から、親の愛情を受けられず、誕生日も祝ってもらえなかったので寂しかった、とのこと。だから誕生日を祝ってもらっている様子が羨ましく、一緒に喜べないとのことでした。でも本当は一緒に喜びたいというのです。私はそこに、新しい出発があるのだと思いました。今はできなくても、目標となる行き先があるとは素晴らしいことです。
「互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。互いに一つ心になり…」
罪の問題
自分自身の状態を把握することは、ゴールを目指すために必要です。しかし、私たちには自分でコントロールできないことが一つあります。それは罪の問題です。C.S.ルイスが以下のように書いています。
私たちは、コントロールされることを嫌いますが、神にコントロールしていただかなければならないことがあります。それは、他人の欠点について考えることです。その代わりに自分の欠点を考えるのです。それは、神が助けてくださるなら、どのようにでもできるからです。家庭や職場にいる気難しい人々の中で、あなたが変えることのできるただ1人の人、それはあなた自身です。あなたの中の嫉妬や利己心、恨みを取り除かないなら、あなたは悲惨な状況のままです。風邪をひいて鼻の利かない人が匂いを嗅ぐことができず、聴力を失った人が音楽を聴くことができないのと同じです。自分のうちに悪い何かが成長しているので、早くその芽を摘み取らなければ、人生が地獄のようになります。ですから、神の御手に自分自身を委ねましょう。今すぐに。
C.S.ルイス「信者の立場へ」
「ともに喜び、ともに泣く」キリストの愛の実現を具体的に表している言葉です。主の助けをいただきながら、この一年ともに進んで参りたいと思います。
1 見よ、兄弟が和合して共におるのは
詩編133:1-3
いかに麗しく楽しいことであろう。
2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
アロンのひげに流れ、
その衣のえりにまで流れくだるようだ。
3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
これは主がかしこに祝福を命じ、
とこしえに命を与えられたからである。


