ローマ12:4-18「ともに一つのからだとして生きる」
聖書 ローマ12:4-18、エペソ4:11-16
説教 「ともに一つのからだとして生きる」
メッセージ 堀部 里子 牧師

4なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、5わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。9愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、10兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。11熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、12望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。13貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
ローマ12:4-14
11そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。12それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。14こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、15愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。16また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
エペソ4:11-16
聖書の「テンポ」
「赤とんぼ」や「砂山」などを作曲した日本が誇る作曲家であり指揮者の山田耕筰氏が昭和32年1月18日の朝日新聞朝刊に、ニューヨークで開かれた晩餐会で起こったことを文章にしています。要約すると、その日「ベートーヴェンの第八」がトスカニーニの指揮で演奏されたそうですが、「テンポがやや速すぎたのでは」と指摘がありました。するとトスカニーニは「作曲者の指定どおりに演奏するのが私の信条です」と答えましたが、収拾つかず、ある女性が「では、ミスター・メトロノームにきいてみましょう」とメトロノームが持ってきました。そして作曲者の指定した目盛りにあてがわれ、リズムを刻む前に、トスカニーニが右手でタクトを振り始めました。そしてメトロノームが鳴ると、どうでしょう。指揮にぴったりだったということです。(「正典としての聖書」岡村民子著p.7参照)
作曲者が指定したテンポがあり、そのテンポを指揮者がタクトを振り、そしてオーケストラが一つのハーモニーを奏でることができます。テンポもさることながら、音程も大切です。誰かとともに演奏するとき、テンポや音程がバラバラであったら、不協和音を発することになります。教会は一つのオーケストラのように、各楽器を奏でる一人ひとりの個性が集まった群れです。クリスチャンにとってのメトロノーム(規範)は、聖書であり、キリストご自身です。
今年、私たちはローマ12:15の御言葉を年間聖句として歩んでいます。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」を中心として、「ともに」シリーズで語らせていただいています。でも「ともに」生きることは簡単ではないと思うときも少なくないと思います。思いがすれ違うこともありますし、言葉が足りないこともあります。また真意を分かってもらえないと感じることもあると思います。私たちは、どうすれば本当に「ともに一つのからだ」として生きられるのでしょうか。
私たちは「キリストにあって一つ」である
ローマ1~11章でパウロは、私たちは罪人でありながら、キリストによって義とされたことを語りました。そして、今朝開かれた箇所でこう述べています。「なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。」(ローマ12:4-5)
ここで重要なのでは、「キリストにあって一つ」ということです。気が合うから、価値観が同じだから、居心地がいいから等ではありません。イエス様が、十字架によって私たちを神と和解させ、イエス様につながり、またお互いもつなげてくださったから、一つのからだ(教会)なのです。
パウロがサウロであったとき、クリスチャンを迫害していました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」「主よ、あなたは、どなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒の働き9:4-5)。これは、クリスチャンが確かにキリストのからだであることを示しているイエス様の言葉です。この言葉を直接聞いたパウロだからこそ、「キリストのからだ」を強く意識しているのではないでしょうか。
パウロは教会を、Ⅰコリント12章でからだに例えて分かりやすく比喩で説明しています。「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」(Ⅰコリント12:12-13)
目と手、耳と足も違います。違いがあるから、からだは機能します。聖書は私たちが唯一無二の存在で、皆「神の傑作品」として造られたのだと語っています。家族であっても、一人ひとりの性格や性質も、好きなことも苦手なことも全く同じではないはずです。日本人は、調和を重んじるので、皆が同じであることに安心感を覚える人が多いと思います。しかし一方で、人の中の違いと遭遇するとき、「どうしてあの人は?」「なぜ?」と思うことがあると思います。しかし、すべての違いは「神様の設計」がそれぞれ違うから起こることなのです。国際社会だけが異文化なのでなく、同じ日本においても異文化体験ができるのです。もし教会が全員同じタイプの人間で埋め尽くされたら、教会は偏ってしまいます。
カルバンが「キリストのからだの各自はだれ一人として、他者の助けなしに自分の必要を満たすことができるような完全さを備えられていない」と言った通りだと思います。イエス・キリストを信じ、同じ聖霊を受けた私たちは、一つのからだになれることを心に留めたいと思います。
御霊による一致
エペソ4:3でパウロは「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」と書いています。「一致を作りなさい」でなく「保ちなさい」と言われているのは、一致は私たちが作り出すというより、与えられたものを保つものだからです。なぜならすでに「一つのもの」が与えられているからです。「御霊は一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と書かれている通りです。聖書が言う一致は、私たちの気持ちや感情の一致でなく、キリストによって与えられた十字架による結び合いです。
十字架によって一つにされていても、私たちは皆完全でないために、一致を保つことが難しい場合があります。プライドが邪魔したり、自己防衛をしたり、自分の正しさを守りたくなります。パウロはだから4:2で「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあ」なさいと勧めているのではないでしょうか。教会は「キリストのからだ」であっても、違いのゆえに衝突や傷つきが起こってしまう場所です。でも同時に、それで終わらず、赦しが起こる場所でもあります。
一致を保つためにどうしたらよいのでしょうか。
◎愛をもって真理を語ること(4:15)だと私は思います。「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」
真理は諸刃の剣のように鋭いものです。しかし真理を語るだけなら人の心を切り裂くことがあります。その逆も然りで、愛が真理を失うなら成長がなくなります。なぜ愛なのでしょうか。愛は永遠に残るものだからです。そして、その愛と真理は両輪です。教会とは、何でも言っていい場所でなく、また何も言えない場所でもありません。愛の中で語る場所です。職場や近所付き合い、サークル活動など様々な人が集まる場所では、時には神経を逆なでするような人たちとも一緒にいる必要があるかもしれません。神様は人との交わりを通して、私たちに学ばせてくださることがあります。
私自身、言葉で失敗が多い者です。だからこそ、自分に問います。その言葉は、相手の徳を高め、キリストのからだを建て上げるだろうか。それとも、自分の思いを通すための言葉なのだろうか、その言葉は愛の中にあるだろうか、と。
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。…見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」(ヤコブ3:2、5-6)
教会の一致を保つため、また愛を持って真理を語るために、語る前に祈り、批判する前に理解しようと共に歩み寄りたいと思います。

それぞれが働くとき、教会が健やかになる
「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」(6-10)
与えられている賜物が教会の中で生かされるとき、周りに祝福が拡がります。なぜなら賜物は自分のためにだけ与えられたものでないからです。賜物を使うとき、他の人が同じことをするほどに苦でなく、大変であっても喜びが増し加わります。使うほどに、教会も祝福され、健康になる特徴があります。ポイントは「与えられた恵みに従って」です。
からだの各器官がその目的を果たしていくためには、しっかりと本体に繋がっていなければいけないように、私たちもキリストのからだの一部として、キリストにつながり続ける必要があります(ヨハネ15章)。その中で、それぞれが祈ること、支えること、与えること、励ますこと、捧げること、奉仕すること、その分に応じて働くこと、などが果たされる姿がお互いの内に見られる、それが健やかな「キリストのからだ」です。そして他の人との関係の中でこそ、自分の役割を見出すこともできます。体の一部分が体から切り離されたら壊死してしまうように、私たちもキリストの体から切り離されたら霊的に死んでしまいます。
アメリカのサドルバッグ教会のリック・ウォーレン牧師が書いた「人生を導く5つの目的~自分らしく生きるための40章~」アメリカで2400万部突破して、ニューヨークタイムズのベストセラーの一つとなった本があります。その中に次のようにあります。
神が教会に対して持っておられる目的は、あなたの人生に対する五つの目的と同じものです。礼拝はあなたの焦点を神に向けさせ、交わりはあなたを人生の問題に立ち向かわせ、弟子訓練はあなたの信仰を強め、奉仕はあなたに自分の賜物を発見させ、伝道はあなたに使命を全うさせるのです。この地上のどこを探しても、教会のような場所は他にありません。
人生を導く五つの目的 リック・ウォレン著 p.182
「キリストのからだ」のどの器官でしょうか。傍観者でなく、口先だけでなく「神の家族」の大切な部分を担う者としてともに働きを続けて参りましょう。霊的な家族関係は永遠に続くものです。
「洗礼」に関して言えば、洗礼を受けることは、ただ教会のメンバーになるだけではありません。過去の古い自分に死に、キリストにある新しい命に生き、神の家族の一員であることを示すものです。そしてそのことを恥としないと、公に表明することです。そして、忘れていけないことは「成長させるのはキリストである」ということです。私たちが目指す教会は、キリストがかしらで、キリストに赦され、キリストにつながれ、キリストによって生かされていく教会です。だからこそ、違いを恐れず、愛の中で真理を語り、お互いを必要とし、キリストに目を向け続けて行きましょう。
「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ3:28)
私は御言葉を語る者ですが、いつも十分にできているわけでなく、また決して強い人間ではありません。話し合いの中で思いがすれ違うこともあります。自分の至らなさを感じることもあります。「もっとよくできたのではないか」「あの時、こうしておけばよかったのではないか」と、そうやって主の前で立ち止まり、悔い改めることばかりです。また人の言動に心が揺れることもあります。
けれども、そのたびに神様は思い出させてくださいました。「私こそ、主に罪を赦していただいた者なんだ」ということです。イエス様は私の罪も、未熟さも足りなさも十字架で赦してくださいました。だから私は、罪赦されている者として、赦す者でありたいと願っています。私は主任牧師ですが、教会のかしらではありません。私自身も、一つの器官にすぎません。だから私たち夫婦は、皆さんのお祈りを必要としています。そして私も皆さんとイエス様と共に歩み続けたいと思っています。教会のかしらは、人ではなくイエス・キリストです。ともに赦されている者として、私たちは皆、お互いに必要な存在です。これからも、ともに主のからだなる教会・神の家族を建て上げて参りましょう。


