Ⅰ列王記18:20-39「主の祭壇を築き直すエリヤ」
2025年5月25日(日) 礼拝メッセージ

わたしは主の名を呼びましょう。
そして火をもって答える神を神としましょう
聖書 Ⅰ列王記18:20-39、ヘブル7:26-28
説教 「主の祭壇を築き直すエリヤ」
メッセージ 堀部 里子 牧師
「そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。
…あなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。
…エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。
Ⅰ列王記18:21,24,30
彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。
ヘブル7:27-28
奇跡の花
皆さん、この花は何の花だと思いますか?

答えはマンゴーの花です。マンゴーの花は、調べると、通常は2~3月にが咲くのですが、開花時期でない5月下旬に一つだけ咲いたようです。母からのLINEで「奇跡の花」と名付けられて写真が送られてきました。
1か月くらい前に沖縄でマンゴー農園をしている父から電話があり、今年はマンゴーたちがほぼ全滅で、実がならないと聞きました。農薬を配合したらその日のうちに散布しなければならないのですが、機械に不具合があり、すぐに散布できなかったことが原因で、実の生長が止まってしまいました。その話を聞いて以来、私たち夫婦は心を合わせて奇跡が起こるように祈ってきました。何年もマンゴーを栽培してきた専門家である父が「全滅だ」と言ったら全滅かもしれません。それでも夫は「奇跡を神様が起こしてくださるように祈ろう」と言い、夫婦で「父に神様が生きておられることを示してください。御心ならマンゴーを復活させてください」と祈っていきました。
最近、父から音沙汰がないな、と思っていたらマンゴーに実がなり始めて、毎日忙しくしているとのことでした。ハレルヤ!そして、一つのしるしのように時期外れのマンゴーの花が咲き、父は「里子と舜が祈ってくれたから奇跡の花が咲いた」と言って写真を撮ったのだそうです。母が嬉しそうに電話で話してくれました。まだ収穫には至っていないので、収穫の時期まで祈り続けようと思います。
神様が私たちの小さな祈りにも応えてくださったのです。もちろん、祈っても、祈っても、答えられないこともあります。それでも神様の御心が成るようにと祈ったなら、神様のタイミングで最善が成されることを信じて待つだけです。
今朝は、Ⅰ列王記18章からエリヤの祈りに応えてくださった神の御業を共にみていきたいと思います。18章には「水と火」が出て来ます。聖書で神の業を現わす象徴的なものです。水の洗礼を受け、キリストが「命の水」を与えてくださいます。火は物を燃やし、性質自体を変える働きがあります。聖霊は火にも例えられます。聖霊が降るペンテコステを前にして、今朝の箇所が与えられた意味を共に考えたいと思います。
オバデヤの存在
先ず背景をお話しします。アハブ王は北イスラエルの王様で22年間王位にありましたが、神から離れ、異教の妻を迎え偶像礼拝をし、「彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った」(Ⅰ列王記16:30)とあり、神の怒りを招いた王様でした。
サマリアが飢饉にみまわれて三年が経った年のことです。神様は預言者エリヤに「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」(Ⅰ列王記18:1)とおっしゃいました。同じ頃、アハブ王と宮廷長官オバデヤ(主のしもべ、主を礼拝する者の意味)が水を求めて、その地の川や泉の偵察に行くことになりました。オバデヤは、アハブ王に仕えていましたが、神を心から信じ恐れる人で、アハブ王の妻であるイゼベルが預言者たちを殺したとき、命をかけて彼らを救い出してかくまい、彼らを養っていました。
アハブ王と一緒に水の出る場所を探して、二手に分かれ、それぞれ別の道を行きました。「別の道」という記述の中に、神の御心を覚えます。別の道を行ったその途中でオバデヤは、エリヤに会います。エリヤはオバデヤに、「行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」(Ⅰ列王記18:8)と指示しますが、オバデヤはアハブ王がこの三年間でエリヤを捕らえて殺そうと追跡していることを知っていたので、もしエリヤの指示通りにして、エリヤがいなくなったら、自分とかくまっている100人の預言者の命が危ないことを告げました。するとエリヤは隠れずにアハブ王に会うことを約束します。
オバデヤもエリヤもそれぞれ立場は違いますが、霊的に堕落した時代の中で、神を心から信じ、置かれた場所で自分の仕事に使命を感じて生きていました。私たちも互いに与えられている仕事や役割は違っても、互いに助け合い果たすことで、神の国を建て上げていく者でありたいと思います。
カルメル山での対決

オバデヤからエリヤの場所を聞いたアハブ王は、エリヤに会いに来ました。アハブはエリヤを見るやいなや、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」(Ⅰ列王記18:17)と言い放ちます。つまり、イスラエルが飢饉になり、水がないのはエリヤがそのように預言したからだと言うのです。実際はそうではありません。「イスラエルを煩わせているのは、本当の神を捨ててバアルを崇拝するアハブ王とその家なのだ」と、エリヤは告げます。
そこでエリヤは、どの神様が本物かどうか対決を提案します。「そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。」(Ⅰ列王記18:20)バアルとアシェラの預言者合計850人対エリヤ1人の対決です。エリヤはイスラエルの民に向かって言います。
「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。(Ⅰ列王記18:21)
イスラエルの民は神を信じると言いながら、自分たちの満足のために、繁栄の神であるバアルとアシェラにも仕えていました。神々の間で迷っているイスラエルの民に、エリヤは信仰の決断を迫ったのです。ヨシュアの言葉を思い出します。
「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。」(ヨシュア24:14-15)
どっちつかずによろめいていないか
「迷っている/どっちつかずによろめく」というヘブル語のパサフという単語は、「足を引きずる」という別の意味があります。足を引きずっているということは、何らかの不具合があり、しっかり歩けていないことになります。
今日は午後に有志でテニスをしますが、ちょうど一年前のテニスの時に、しっかり準備体操をせずにテニスコートで走り回った結果、私は膝を痛めてしまいました。それ以来、足を少し引きずって歩くようになっていました。お医者さんに行き、レントゲンを撮ると骨や軟骨に異常はなく、筋肉が炎症を起こしているとのことです。それは私の普段の歩き方の癖や姿勢の悪さからもきているようで、最終的には骨の歪みを指摘されました。原因が分かりましたが、今まで培ってきた習慣はなかなか変えられないもので、意識していないとすぐに元に戻ってしまいます。私たちの信仰の歩みはどうでしょうか。足を引きずっていないでしょうか。
エリヤの呼びかけに応えない民に対し、エリヤが対決に用いた方法は、二頭の雄牛を用意し、祭壇にほふって火をつけずにおき、どちらの神様が天から火を降らせてくださるか、そのために自分の神様の名を呼び求めるという方法でした。
「あなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。(Ⅰ列王記18:24)
人数が圧倒的に多いバアルの預言者たちが先行です。「彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。」(Ⅰ列王記18:26)
「まわりに踊った」に使われているヘブル語が先程の「迷っている」という言葉と同じパサフが使われています。彼らはほふられた雄牛の周りを踊り回りますが、その踊りはどっちつかずによろめき、足をひきずっていた不完全さを露呈しています。
「そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。29こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。」(Ⅰ列王記18:28-29)
自分たちの体を傷つけて叫んでも、何も起こりません。どんなに騒ぎ立てても、残るのは虚しさです。バアルに祈っても何も起こらなかったことは、私たちに何を教えているのでしょうか。偶像の神に何もできることはなく、本当に生きている神様だけが、私たちの祈りに応えられる方だということです。

主の祭壇を築き直す
エリヤの番になりました。「…彼はこわれている主の祭壇を繕った。」(Ⅰ列王記18:30)エリヤが最初にしたことは、壊れた祭壇を修復したことです。それは何を意味しているのでしょうか。祭壇はいけにえが捧げられる大切な場所で、礼拝の中心と言えます。ノアが箱舟から出たとき、最初にしたことは祭壇を築いて焼き尽くす献げ物を捧げました(創世記8:20)。またアブラハムが神に召されてカナンの地を初めて踏んだ時、最初にしたこともそこに祭壇を築いたことでした(創世記11:7)。主の祭壇を築くことは「礼拝」です。その祭壇を築き直すことは、自分たちの神様への信仰の姿勢を振り返り、悔い改めるべきところを改め、もう一度新しく礼拝者として整えられていくことです。
祈られる重要性
毎週水曜日の祈祷会の時に、祈り課題が書かれた紙が配られます。いつからかそこに「堀部牧師夫婦の霊性のために」という一項目を書き加えました。その祈りがささげられ始めてから私たちにも変化が起こりました。私自身は、夫婦の間に働く神様を強く感じるようになりました。共に祈り、共に御言葉を分かち合う時間が増え、神様に心を向ける時間が増えました。祈られることの恵みをひしひしと感じ、皆さまのお祈りに感謝しています。教会で祈られることは、神様の御手を動かすだけでなく、私たちの信仰を更に健康にします。
答える神=生きている神
エリヤはイスラエルの12部族を象徴する12の石で祭壇を築きました。当時はすでに北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂していたのですが、エリヤは南北の12部族すべてが神の民であることを示しました。その祭壇の周りに穀物の種2セア(約15リットル)が入るほどのみぞを掘ります。祭壇を築いて、たきぎを並べ、雄牛を切り裂いてたきぎの上に置き、その上から四つのかめの水を三回注ぎました。4×3=12これも12部族を象徴しています。水は祭壇の周囲のみぞもいっぱいに満たすほどになりました。
準備を終えたエリヤは「主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください」と祈ります(36-37)。火を降らせいけにえの雄牛を焼き、あなたがまことの神であることをはっきり示してくださいと、祈りました。「答えてください」(アナー)は今日の箇所で何度も登場する中心的な言葉で、「答える」ということは「生きているのだ」ということを表しています。つまり、一日中叫んでも答えないバアルの神は偽りであり、死んでいるということです。それに対して火によって答えてくださる神は本物で、生きておられることが証明されるのです。
エリヤの祈りに神は答えられ、火を降らせ、すべてを焼き尽くし、みぞの水もなめつくしました。最初にエリヤがイスラエルの民に呼び掛けたとき、民は一言も答えませんでしたが(21)、火が降ってくることを見た民はひれ伏し、「主が神である。主が神である」(39)と言いました。答えるということは正に生きているというしるしです。この民の告白はエリヤが待ち望んでいた言葉でした。孤独の戦いをしたエリヤの祈りに神様は答えられました。南北の国が分裂し、神の恵みを忘れていたイスラエルの民は、最初は応答しなかったのですが、最後は答えました。私たちも生かされている限り、神の言葉に答えたいと思います。そして信仰が正しく継承されていくために、神を呼び求めて生きたいと思います。
イエス様は「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)とおっしゃいました。信仰の基本は、イエス様を本気で信じていくかにかかっています。心の穴を神以外のもので満たすことはできません。結局、穴が埋まるどころが大きくなり、人やものや状況のせいにし、不満が大きくなります。これはエンドレスな空しい堂々巡りとなります。
今日、私たちは人生の土台が堅固であるために、捨てるべき罪、改めるべき生活習慣がないか点検し、もし神様との関係で弱くなり、修復するべき部分があるなら、回復させていただきたいと思います。御言葉に基づく祈りは忍耐が要るかもしれませんが、また自分の願った通りでないかもしれませんが、神様が必ず答えてくださいます。最善を尽くして真実でありたいと思います。祈りを通して、御言葉の約束通りに成してくださる神のわざを私たちの目で見て、より深く主を知る者でありたいと願います。すべての祈りは神に覚えられているからです。人の数や規模が人生に勝利をもたらすのでなく、勝利は神にあります。偶像は人間が願いをかなえるために造り出した物ですが、創造主である神はすべて命あるものを造ってくださったお方で、今も生きておられる神です。
イエス様は、ほふられる小羊であり、大祭司であり、神の子で、全てを一つにしてくださる救い主です。私たちの主への祭壇を築き直し、新しく進んで参りましょう。
すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)