使徒1:6-14「私たちをこの世に遣わす聖霊の力」

2025年6月1日(日) 礼拝メッセージ

聖書 使徒1:6-14、ヨハネ17:1-11
説教 「私たちをこの世に遣わす聖霊の力」
メッセージ 堀部 舜 牧師

6さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。7彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。9こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。10イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて11言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。 12それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。13彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。14彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

使徒1:6-14

社会福祉の働き――神の国の建設の奉仕者として

昨秋、高齢者施設キングスガーデンの協力牧師研修会に初めて参加しました。講師は、教会を牧会しながら、NPO法人の代表として高齢者支援・障碍者支援・子育て支援・困窮者支援などの社会福祉の働きをしておられる牧師でした。その先生は、困難な環境で育ち、不良グループのリーダーとなったのですが、数人の大人たちが「変えようとするのではなく、受け入れ、環境を整え、励まし・見守ってくれた」結果、立ち直ることができたのだそうです。その経験から、互いにありのままの自己と他者を受け入れて、大切な存在として共に生きる場所と存在をつくるために、NPO法人を運営しておられます。[①]▼先生は講演の中で、この働きは「神の国」の建設に共に携わることであり、神がこの世に御子と聖霊を遣わし、この世を愛された「神の宣教」に共に携わることなのだと教えられました。[②]

共に建て上げる者として

教会暦――主イエスの昇天

教会の暦では、イースターから40日が過ぎて、去る5/29(木)に主イエスの昇天日を迎えました。今日の使徒の働きの聖書箇所で読まれたように、復活後40日間弟子たちに現われて、主イエスが天に昇られたことを記念する日です。来週はペンテコステ聖霊降臨日となります。

ケズィック講師も務められたテッド・レンドル博士が、「主イエスの昇天は、礼拝メッセージで取り上げない教会も多いけれど、主イエスの働きの第2のステージが始まる重要な転機だ」と強調しておられました。今日は、その昇天の記事を読んでいきます。

1.神の救いの物語

今日の箇所には、キリスト教会の最初期のエピソードが記されています。

復活された主イエスと一緒に過ごした弟子たちは主イエスに繰り返し尋ねました。

6 「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。

イスラエルの国家の再興を求める弟子たちの姿は、自分たちの思い描く聖書に対する固定観念から離れることができていないようです。しかし、聖書の教えを単純化しすぎたり、一面的になったりして、神様の御心を捕らえ損ねることは、私たちにもしばしば起こることです。

弟子たちの「神の国」に対する期待は的外れでしたが、主イエスが「神の国」を教え、「神の国」をもたらそうとしていたのは、事実でした。▼主の祈りで「御国を来たらせ給え」と祈るように、私たちは、神の国の到来を待ち望んでいます。

主イエスは彼らに答えて言われます。

…「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

主イエスは、神の国の到来について教えました。しかし、その前に、聖霊の力によって、使徒たちが遣わされるのです。▼「いつ神の国を起こして下さるのですか?」――「聖霊の力によって、まず、あなたがたが出て行かなければならない」と言われます。

弟子たちはもはや天を見上げて立ち尽くしていることはできません[③]。主イエスの復活と昇天、聖霊の派遣によって始まる神の国の建設の働きのために、彼ら自身が出て行かなければなりません。▼神の御国の物語は、使徒たちを巻き込んで、力強く進んでいきます。この使徒たちから始まった、聖霊に導かれて「宣教する教会」として、教会は世界中に広まり、私たちのところにも主イエスのことが告げ知らされ、神の国の前線基地のように、教会で御言葉が語られ・聖礼典が執行されています。

【適用】 私たちもまた、神様の救いの物語を聞くとき、何かTVの視聴者のように、感動して、感謝しているだけでおかれることはありません。▼主の救いの物語が、使徒たちを巻き込んで進んでいったように、主への信仰に生き・主に従う現代の私たちをも、聖霊は捕らえ、ご自分の働きを推し進め、神の国の実現へ向けて私たちを巻き込んでいかれます。

キリストの即位

教会の誕生は、文字通り世界史の転換点となって、私たちにまで及んでいます。私たち自身のことを考える前に、そのおおもとであった、天の出来事を見てみます。

9節の短い一節に、主イエスが天に昇られた時の様子が描かれています。

こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。

この箇所には、前後の言葉遣いや文脈から見て明らかに、ダニエル7章の人の子の預言が反映しています。「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。」――人の子・イエス・キリストが、天の雲と共に神のみ前に進み、神の国の永遠の主権が打ち立てられます[④]。そして、主イエスが神の右の座に着かれ、神に等しい王として即位されました[⑤]。▼これが、主イエスの復活によって起こり、昇天によって目に見える形で示されたことでした。

主イエスは天の御座に着き、やがて、再びこの地上に来られ(11節)、この世界に神の国を=新しい天と地をもたらされます。このメッセージは、私たちにとって、どんな意味があるでしょうか?

Kath. Pfarrkirche St. Johannes Baptist, Obereschach, Stadt Ravensburg

2.神の国のために、神と共に働く

弟子たちは、以前は、政治的なイスラエル国家の再興を期待していましたが、それは、間違った態度でした。11節では、この地上の事柄を忘れて、天を見上げて立ち尽くしています。それもまた、間違いでした。▼主イエスは私たちを天に引き上げるのではなく、この地上に聖霊を遣わし、私たちをこの世に遣わされるのです。

【神の国のために】 冒頭に、社会福祉に取り組む牧師を紹介しました。▼「神に遣わされる」「宣教」「派遣」というと、宣教師として海外に行くようなイメージを持ち、一般のクリスチャンにとって身近ではないと感じる持つ方もおられるようですので、近年の宣教学の考えから、「宣教」についてもう少し広く、身近なところから見ていきたいと思いました。

【事例】私の周りでも、不登校の子どものためのフリースクールの働きをしている牧師がおられます。また、別の牧師は海外在住歴が長く、在日外国人にたいして重荷があり、入国管理局に収容されている外国人を支援する働きをしておられます。最近のニュースでは、冤罪事件で再審無罪が確定した袴田巌さんが獄中でカトリックの洗礼を受けたのですが、教会が正義を求めて彼の再審を支援し、冤罪防止や死刑廃止を訴えて活動しているそうです。[⑥]▼今あげたのは、牧師たちによる専門性の高い働きなのですが、それぞれの牧師が置かれた状況の中で、目の前にある不条理や弱者に対する愛の業を実践していった中で、その働きが大きく形になっていったものです。冒頭にお話ししたように、私たちがクリスチャンとしてこの世で生き、神が世を/私を愛されたから、神に遣わされた者として、隣人を愛し、愛の業を行うなら、それが宣教の働きだと言えます。それは、地上に神の国を造り出そうとしておられる神の働きに、共に携わることです。

神の国とは、私たちが作り出すことのできるものではありません。しかしそれは、肉体から離れた「あの世」の事柄ではありません。この地上に、神がもたらそうとしておられるものです。▼やがて主イエスが再び来られて、新しい天と地をもたらされる時まで、それが「完成」することはありません。絶えず不完全さがつきまといます。そうであっても、私たちは、この世に置かれた神の民として、神の国の基準に従って行動します。▽神が世を愛して御子を遣わされ、また、聖霊が遣わされました。そして、私たちをも、この世に遣わされます。

【適用】 私たち自身が共に与かる「神の国」の建設とは、何でしょうか?一番身近では、家族に仕えることでしょう。家庭を守り、夫婦が互いに愛し・尊敬し、子どもや高齢者や病人をいたわることで、神の民が建て上げられていきます。職場で・地域で・教会で、主イエスの教えの基準にしたがって、弱い者を助け・不正に立ち向かい・平和をもたらし、祈り・神の祝福をもたらす生き方をすること。こうしたすべてのことを、聖霊に遣わされて、主イエスの御名によって、聖霊の導きの下になしていくこと。それは、神に遣わされた、広い意味での私たちの宣教の業ということができます。

聖霊に遣わされ、神の国のために働く者として

◆言葉による証し

ここまで、「愛の行い」による神の国の建設に注目して、お話しをしてきました。これは、「福音宣教」の一つの形です。「宣教」という言葉に、距離を感じる方もおられると思い、身近なところからお話ししたいと思いました。主イエスの証人となる=神の国を主と共に立て上げる働きには、行いによる証しと共に、言葉による証しがあります。どちらも欠くことができないものです。

1ペテロ3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。

これは、全ての信徒に言われている言葉です。

証しを通して、神の力を経験する

8  ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

この「力」とは、福音を証しする時に現われる、神の力です。神の「力」を経験するのは、まさに宣教の働きのただ中においてです。私自身が、実際にこの伝道の働きに携わる時に、神の力を経験し、目が開かれていきました。①「出て行くこと」・②「祈ること」・③「教えること」について話します。

◇外に出て行くこと

第一に、「外に出て行くこと」です。誰かに福音を伝えたい・証しをしようとして出て行く時に、その難しさにぶつかります。自分の力ではできないことを知るので、必死で祈るようになります。▽大学時代、同級生のために祈っていたのですが、なかなか会う機会がなくて、研究室で一生懸命に祈って外に出ると、ちょうど祈っていた彼に出会う、ということが何度かありました。そんな経験を、しばしばすることがあるのではないでしょうか。▽ある方は、仕事上の話が、流れの中で、病気や人生経験の話に及んで、ご自分のキリスト教との出会いの話ができて、導きを感じたと話しておられました。主イエスの証しの機会に自分を捧げていく時に、困難の中でも、全てを支配しておられる主の導きを経験していきます。

◇祈ること

第二に、「祈ること」です。宣教の働きは、祈りから始まり、祈りによって力を得ます。僕は、学生時代に、時間を決めて大学のキャンパス内を祈りながら歩いて回ったことがあります。プレイヤーウォークというのですが、大学の祝福を求めて祈りました。すると、不思議なことですが、その期間、私の大学から教会に来る学生が増えたのを、私も周囲の奉仕者も実感しました。祈りには力があることを、身をもって経験した出来事でした。

◇教えること

第三に、「教えること」です。私が最初に行った教会では、信徒が信徒に教えることに取り組んでいました。誰かに教えるためには、自分が教わる時以上に、内容をしっかりと理解していなければなりません。自分が教える立場に立った時、信仰の要点が、はっきりと分かるようになっていき、人に伝えることができるように信仰の理解を整理し、よく考え、学ぶことが習慣になりました。

このようにして、主イエスを「証し」することに時間と労力をコミットしていった時に、神の「力」を経験していきました。主イエスを証しする時にこそ、主イエスの力を経験するのです。

マタイ28:18-20  18…「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

教会にとって、「福音を伝えること」「主イエスを証しすること」は、「できればやった方が良い」ことではありません。宣教は教会の本質です。なぜなら、神ご自身が、世を愛され、独り子をお与えになるほどに愛されたからです。神が世を愛して、この世に御子を遣わし、聖霊を遣わされました。そして、私たちをも遣わされるのです。

彼らはみな…心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

3.祈りの一致

主イエスの昇天を目の当たりにした弟子たちは、一つに集まって祈りに励みます。主の約束を聞き、信仰に立たされた弟子たちの応答は、熱心な祈りでした。▼私たちも、主イエスが天の御座におられて、私たちをこの世に遣わされる時、私たちの目の前に、自分の力ではどうしようもない困難がある時に、主により頼んで熱心に祈りに向かう者でありたいと思います。

14  彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた

心を合わせて、ひたすら祈をしていた」とあります。ここにはギリシャ語では2つの単語が使われています。

(1)「いつも」とは、「熱心に」「ひたすら」「継続的に」「忍耐強く」という意味があります。初代教会は、多くの困難の中でも、神様に信頼して、倦むことなく、神様に祈り続けました。ここに、彼らの力の秘訣があります。最初の教会の喜びと力強い働きの源は、試練の中で常に神様の前に出続け、神様に信頼し続けた祈りの生活にありました。

(2)もう一つの言葉は、「心を一つにして」です。使徒の働きの初代教会の姿にしばしば使われる言葉です。同じ心で、同じ目的をもって、同じ情熱をもって、主に祈りを捧げました。聖霊が来られる時、主は私たちの心を一つにしてくださいます。▼一つになれない部分があるでしょうか。主に祈り求めて参りましょう。使徒の働きの中で、様々な障害にぶつかりながら、教会は一致を保ちました。そこに、忍耐強い祈りと対話と敬虔が必要です。新約聖書の多くの手紙が、心を一つにするようにと訴えています。それは、知識による一致であり、御霊による一致であり、愛による一致でした。

まとめ

主イエスの約束をもう一度心に留めて、メッセージをまとめます。

こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。

今、主イエスは天の父なる神の右の座に着いて支配しておられます。天の聖所で永遠のいけにえをささげ、私たちのためにとりなし、私たちの祈りに答えて下さいます。

マタイ28:18-20「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。…見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

この主イエスが遣わされた聖霊が、力をもって私たちを導き、私たちを遣わされます。

8  ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

【祈り】

天の父なる神様。あなたがこの世を愛して、主イエスを遣わして下さったことをありがとうございます。主イエスが、いつも私たちと共にいて下さることを感謝します。あなたの御心に従って、この地上に神の御国を建て上げるあなたの御業に、共に与かる者とならせてください。聖霊の力によって、主イエスの証しを、御名にふさわしくなすことができるようにしてください。そのようにして、あなたへの愛を表すことができますように。あなたの愛で満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


[①] https://hotspacenakahara.org/about/greeting/

[②] デイヴィッド・ボッシュ「宣教のパラダイム転換 下」第12章 出現するエキュメニカルな宣教パラダイム 「創造的緊張関係」「ミッシオ・デイとしての宣教」の項参照。P218-238

https://www.scielo.org.za/scielo.php?script=sci_arttext&pid=S2074-77052024000100004

[③] Stott, John, The message of Acts: To the ends of the earth, Bible Speaks Today. 1:9–12

[④] ダニエル7:13-14

[⑤] マルコ14:62、マタイ26:64

[⑥] 不登校・引きこもりの支援:https://family.k2-doc.com/

入管被収容者の支援:https://youtu.be/cDQ95Mg9mW4?si=ISJcbWs82ppBQHbL

冤罪防止など:https://www.cbcj.catholic.jp/2024/09/26/30682/ ほか