「共に苦しみ共に喜ぶ」 1コリント12章14-27節 2022年8月14日
2022年8月14日(日) 礼拝メッセージ
聖書 コリント人への手紙1 12章14~27節
説教 「共に苦しみ共に喜ぶ」
メッセージ 堀部 里子 牧師
「…実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。…もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。……からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、……それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(Ⅰコリント12:14,17-18,22,25-27)
先日、NHKで放映された「二十四の瞳」を見ました。担任の先生が十二人の子どもたちの学校生活だけでなく、家庭生活も把握して、悩みを聞き、共に考え共に喜ぶ姿に感動を覚えました。なぜそこまで他人の子どもたちに先生は寄り添うことができるのだろうと思った時に、先生は使命感だけでなく、子どもたちを自分の家族だと思っているからだと感じました。そこには見返りを求めない愛がありました。「家族であること」は切っても切れない関係です。聖書では、教会は「神の家族」と呼ばれています。
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ2:19)
キリストの血によって一つとされた者たちは、あらゆる違いを超えた神の家族なのです。今日はコリント人への手紙12章から「神の家族である教会」のあるべき姿を共に見て行きたいと思います。
【コリントの背景とパウロとの関係】
コリント人への手紙は、パウロがコリント教会という特定の教会の特定の問題に関して、細かく自分の意見を書き綴っている手紙です。コリントの町が、異教の地盤であったという点で、日本の教会の置かれている状況と似ているのではないでしょうか。
パウロはコリントを第二回目の宣教旅行で訪れました。パウロのビジョンは、シリアからアジア、アカイア、ローマへと福音を宣べ伝えることだったので、コリントは宣教の拠点地として有利な場所でした。港町であるコリントは、交通の要所であり、商業も盛んで多くの人々の行き来があったからです。だからこそ、いろいろな文化や宗教、人種が入り混じっている町でした。それゆえに、ソドムとゴモラ(創世記13:10、19章)のような町で霊的・性的堕落が激しかったようです。このようなコリントの町の人々が、キリストの福音を聞いて救われました。
パウロはコリントで約1年半、福音を宣べ伝えました。使徒の働き18章には、パウロが開拓したコリントの教会に関する内容が詳しく記されています。コリントを後にして、伝道旅行を続けていたパウロはエペソでコリントの教会の知らせを耳にしました。その知らせとは、教会内部に様々な問題が生じて混乱しているという心が痛くなるニュースでした。パウロの願いは、救われたコリントの信徒たちがきよい生活をし、神に喜ばれる教会となることでした。コリントの信徒たちは福音を受け入れましたが、コリントの町の悪影響ももろに受けており、分派の問題、性的不道徳、偶像にささげられた肉の問題、聖餐と賜物に関する論争など、多岐にわたって問題が生じていました。
コリント教会自体が多様な文化や人種によって構成された共同体だったので、「キリストの十字架の愛」をもって解決する以外に道はありませんでした。パウロがコリントの教会のアドバイスを送ったことを具体的に見て行きましょう。
【一つのからだと各器官】
パウロは、問題山積のコリントの教会に、共同体を一つのからだに例えて話します。
「14実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。15もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。16また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。17もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。」(1コリント12:14-17)
もしからだ全体が目であったら困ります。もしからだ全体が耳であっても困ります。そもそもそのようなことはあり得ない話です。だから、各器官がからだに属しているということは、変わらない事実であり、それぞれの器官が役割を果たすことが重要なのです。他人と比較をしたり、劣等感に陥るなら属しているところから離脱したいという気持ちも起こってくるかもしれません。
私は中高生時代に吹奏楽部に所属していました。私はクラリネットを担当していましたが、私よりも後輩たちが上手で、私一人いなくてもあまり変化がないのではと思ったこともしばしばありました。それでも全体で奏でる合奏は大好きでした。
神の家族である私たちも、それぞれの楽器の役割があるように、目、耳、足など、違いがありますが、互いが自分の役割を果たすことによって、素敵なハーモニーが生まれるのです。指揮者はイエス様です。指揮者を見つめて自分に委ねられた音をしっかり出したいと思います。
【配置者は神】
「18そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。19もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。20ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。 21目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。」(12:18-21)
からだは一つです。からだを形造った神様は、からだの器官の配置もパーフェクトです。神様がこの世界を創造された時、すべて良しとされ、「非常に良かった」(創世記1:31)と表現しています。特に人間を創造されたとき、神様は人を神のかたちとして創造され、祝福しました(1:27)。神様が祝福したものに対して、「あなたは要らない」と言うことは失礼なことではないでしょうか。
コリントの教会にもユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人と様々な人たちが集まっていました。人種や身分、生まれや育ち、地位が異なる人たちが一つの教会に集められたのです。様々な人が集まり、役割を担い、一つのからだをつくりあげることは共同作業なのだとパウロは強調します。
「11そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。12それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。……16また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。」(エペソ4:11―13,16)
神がみこころに従って私たち一人ひとりを、それぞれの職場、住む場所、あらゆる人間関係の中に特別に配置されたということを心に強くとめたいと思います。神が配置されたなら、そこで神の計画が何かあるのです。今は分からなくても後で分かるようになることもあります(ヨハネ13:7)。大切なことは、神が配置者であり、と神のみこころを全てにおいて私たちが認めることです。
【互いのために配慮し合うため】
「22そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、23からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、24麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。 25それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。」(12:22-25)
文化や生活習慣の違いからストレスは起きやすいものです。私自身、高校時代に初めてドイツに留学した時、出来ないことが多くて、たくさんの弱さを覚えました。その一つは、お米です。白いご飯が食べたくて仕方ありませんでした。ある日、ホストマザーから「今日のお昼ご飯はおじいちゃんと二人で食べてね。ミルクライス(Milchreis)だよ、楽しみにしてて」と言われた時、「やったお米だ!」と楽しみにしていました。すると足の悪いおじいちゃんが運んできたご飯は、一口食べると目が回りそうなくらい甘いお粥でした。ミルクライスとはお米をミルクとバターとお砂糖で煮込んだとろけるプリンのような甘いお粥でした。残念ながら私が思い描いていたご飯とはあまりにもほど遠く、当時の私(17歳)は感情が抑えられず、実家の母に公衆電話から国際電話をかけたことを覚えています。「ミルクライスも、ミルクライスを作ったおじいちゃんも嫌いだ、ホストファミリーを変えたい」と本気で思いました。電話で母に何を言われたか詳しくは覚えてないのですが、「あなたが自分で選んだ留学でしょう。一年間なんだからしっかりやりなさい」というようなことを言われたような気がします。手の込んだ料理ができないおじいちゃんでしたが、私のためにミルクライスを用意してくれたことは忘れません。後にも先にもこの一回だけでした。留学が終わる頃にはミルクライスもおじいちゃんも私は大好きになっていました。たった一年の留学でしたが、私は確かに家族として迎えられ、違う文化と言葉に壁に悩みましたが、私を受け入れてくれたドイツの家族の方がもっと大変だったと思います。幸い、クリスチャンの家族でしたので自然とお互いを尊重し、弱い部分を共に補い合い、楽しく暮らしたと思います。違いには慣れて行くもので、また神様が互いに歩み寄らせてくださったと感謝しています。神様の組み合わせはいつも最善です。私たちが配慮する以上に、神様の配慮が私たちを一つにして行くのです。
【ともに】
「26もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。27あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(26-27)
パウロは様々なことをコリントの教会にアドバイスとして手紙を書き送りましたが、何がパウロをそこまでさせるのでしょうか。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」(Ⅱコリント5:14)他の訳では、「キリストの愛が駆り立てている、キリストの愛が捕らえて離さないのです」と書かれています。パウロの言動力は正に「キリストの愛」でした。パウロはキリストの愛で、他人を愛することを多く学んだ人でした。なぜなら、キリストの迫害者であったパウロがキリストの愛に捕らえられ、全く新しい人となったことに大きな価値をパウロ自身が認めていたからです。パウロはキリストを信じ、従う人生を選んだことで、多くの困難や苦しみも受けることになりました。しかし、それらの労苦以上にキリストの愛が勝ることを証明してくれます。
私自身、献身して神学校に行くことを決意した時、クリスチャンである母も困惑したようです。「普通のクリスチャンでは駄目なの?普通に沖縄で結婚して家庭を持って、信徒として神様に仕えたらいいじゃない」と言いました。クリスチャンである母でさえこう言うのですから、当時勤めていた職場の先輩もクリスチャンでない親戚や友人たちはびっくりしたようです。献身表明をした後に、母が交通事故に遭い、もう神学校に行くことは難しいと思ったこともありました。しかし、一番反対しそうな父が大きな後押しをしてくれました。「お前が決めたことだから応援する。神は信じていないけど、お前を信じる。自分で決めたことを貫け」と親戚中を呼んで壮行会まで開いてくれました。送り出してくれた家族や親戚、母教会の存在は私にとって大きな支えとなりました。あれから19年の月日が流れました。
先月、夫とともに沖縄に行きましたが、「愛されている」ということを実感した旅でした。結婚後初の沖縄でしたので、多くの人たちに挨拶回りをしました。出会った一人ひとりからたくさんの愛を受け取りました。少しでも一緒に私たちと時間を過ごして、人生を共有したいという思いが伝わりました。皆が積極的に愛を現わすパウロのように見えました。沖縄には「いちゃりばちょーでー(出会えば兄弟)」という言葉があります。出会った人を家族のようにもてなす考え方です。家族が試練に会えば、一緒に何かできることがないか考えます。家族の誰かの喜びは皆の祝福となります。私の祈りと願いは、出会った親戚や友人たち皆がこのキリストの愛を知ることです。主に在って深いところで繋がり一つの神の家族となりたいのです。そしてともに苦しみともに喜ぶ存在となれることを祈って止みません。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)
コリントの教会は社会の縮図ように多様性がありましたが、パウロはたとえ異なっていても、多様性が一致することを妨げないことを確信していました。それは、キリストの十字架によってなされるわざであり、多様性こそ一つになることのための現象なのだとも言えます。
「14キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:14-16)
キリストの十字架こそ、すべての一致の源です。キリストが共に苦しみ、共に復活してくださったので、私たちはキリストにあって一つとなれるのです。「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:8)
注: 使用聖書について:当教会の礼拝では、新改訳聖書2017を使用しています。本サイト上では、著作権に配慮して、口語訳聖書(1954/1955年版)を中心に使用しています。