出エジプト32:1-14「自分たちのための鋳物の子牛」

2025年10月26日(日) 礼拝メッセージ

聖書 出エジプト32:1-14
説教 「自分たちのための鋳物の子牛」
メッセージ 堀部 里子 牧師

1民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。…4アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。

出エジプト32:1,4

4あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。6何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

ピリピ4:4,6-7

先週の出来事

先週の日曜日はドジャースの大谷翔平選手が、投げては三振を取り、バッターとしては一試合で三本のホームランを打ちました。昨日、敵地ではブーイングを受けたようです。We don’t need you(お前は必要ない)と。日本語で聞くと、きつい言葉に聞こえますが、この言葉は大谷選手の移籍先にブルージェイズが最終候補として残っていたことから、大谷選手への愛情を込めた言い回しでもあるようですね。野球にはルールがあり、ルール違反するなら警告や失格、または退場になります。

また先週、日本に初めての女性首相が誕生し、所信表明をされました。その言葉を聞いていると日本が実に多くの課題を抱えているのだと分かります。政治も定められた法律の中で行われ、もし現実に即さなければ、法律改正が求められます。法律を破ると、社会の秩序が壊され、歪みが生じ、罰が伴います。

スポーツの世界ではルールがあり、社会生活をする上で法律があるように、信仰生活を送る上でもルール(法律)があります。それは、神様が与えてくださった「十戒」です。

神の時を待つこと

今日のメッセージに副題を付けるなら、「神の時を待つこと」です。皆さんは忙しい日常生活の中で、どんなことを「待っている」でしょうか。信号待ち、エレベーター待ち、お店のレジ待ち、お医者さんの診察待ち、などがあります。待っている時にどのようなことを考えているでしょうか。

父を待つ

随分前に父が出張で上京し、忙しい合間をぬって教会に会いに来たことがありました。他の同僚の先生たちも父を歓迎しようと待っていてくれました。しかし、約束の時間を過ぎても父は姿を現しません。 私は玄関に立って、心ではイライラしながらもどかしい思いで、父が来る方向を凝視していました。すると同僚の先生が「せっかくお父さんが雨の中、会いに来てくれるのだから、遅れても大丈夫。笑顔で迎えましょう。」と声をかけてくださいました。この言葉に助けられて、文句を言わずに笑顔で父を迎えることができました。良い交わりを持ち、父は大勢の人に見送られて、喜んで傘を縦に振り、スキップしながら帰っていきました。同僚の先生の言葉がなければ、私は待つことに疲れ、父に怒りをぶつけていたかもしれません。「…怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」(ヤコブ1:19-20)を思い出しました。

今朝は、モーセの帰りを待てなかったイスラエルの民の状況を通して、「信仰生活における待つことの意味」、そして「神の時を待つことの大切さ」、「それがなぜ大切なのか」を共に学びたいと思います。

モーセの帰還が遅れる

民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。(出エジプト記32:1)

モーセ率いる一行がシナイの荒野に到着後、モーセは何度か神様に呼ばれてシナイ山に上り、神の言葉を聞いては山を降り、民に言葉を告げています。「十戒」神からを授かった時、「民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った」とあります(出エジプト記20:18)。モーセが下山して、神の言葉を伝えると、民は声を揃えて「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」と答えていました(出エジプト記24:3)。モーセ以外の人は山に近づけないので、民はシナイ山に登るモーセを毎回お見送りしていました。

モーセを通して神の言葉を聞くことは民にとっては、当然のことであったのです。モーセが山に滞在している時間はそんなに長くありませんでした。しかし、神が幕屋・聖所造りのために言葉をモーセに語った時のシナイ山滞在は、長くなりました。

待てないイスラエルの民

四十日経ってもモーセが帰って来ず、イスラエルの民はとうとう待てなくなりました。怒ってアロンに詰め寄り、攻撃的な態度で迫りました。「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」(出エジプト記32:1)。

わたしたちに先立って行く神」とは、字義的に理解するならそのまま「私たちの前に歩いて行く神」ですが、民はモーセの不在を神の不在と等しく捉えたようです。モーセの代わりに、「見える神」を造るように求めたのです。これは、民がモーセを通して神を見ていたのでなく、モーセを神のように思っていた節があることを表します。アロンは偶像を造ることはできないと思ったかもしれません。しかし大勢の民の要求に逆らえず、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」(出エジプト記32:2)と言いました。「アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』。」(出エジプト記32:4)

民が身に着けていた金が集められて鋳物の子牛になったのです。「鋳物」と翻訳された言葉は、「金属を注いで造ったもの、めっきしたもの」という意味で、一般的に金属で造った偶像を表す言葉です。当時、子牛の偶像はエジプトで一般的に崇拝されていました。ですから、イスラエルの民はまことの神を捨てて、エジプトの神に行ったことを示唆しています。人間の手で運ばれなければ移動できない金の子牛が本当にイスラエルの民をエジプトから導き上ったのでしょうか。

「5アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。6そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。」(出エジプト記32:5-6)

なぜ待てないのか

イスラエルの民は、「あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない」(出エジプト記20:23)という神の言葉に対して、「神の言葉に従います」と言っていましたが、金の子牛をとうとう拝んでしまいました。モーセが帰って来ないから仕方のないことだったのでしょうか。これはモーセの責任ではなく、民の責任です。モーセ自身も毎回、どのくらい山に滞在するのか分かりませんでした。モーセの帰りを待てなかった民は、不安の中で「目に見える安心」が欲しかったのかもしれません。だから「神を目に見える形で彼らなりに表現した」のでしょう。

しかし、神様は見えるものによってではなく、「言葉」と「関係性」でご自分を顕される方です。イエス様は「見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20:29)とおっしゃいました。イスラエルの民は神の時を待てず、金の子牛を造り、信仰を自分たちの手で「安心の手段」に変質させてしまったのです。これが偶像礼拝の本質です。本来、神が人間を創造し、愛し、自由を与えました。しかし、民が偶像を造ることで人が神を「自分の手の中の存在」にしてしまい、創造主の立場に立ってしまい、神と人との関係を逆転させたのです。「彼らは…不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。」(ローマ1:22-23)

自分たちのための偶像

神はモーセに告げました。「7急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。8彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。9主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。」(出エジプト記32:7-9)

神は「あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民と言っています。おかしいなと思いませんか。神が民を導き出したはずです。しかし「あなたが」とおっしゃっているのは、神の契約を結んだ民とは思わない、とも受け取れる重大な神の宣言です。

民が金の子牛を造った時、「そこに神はいない」と代わりの神の形を造りましたが、天の神は彼らの行動をご存知だったのです。使徒の働き7:41を読むと「彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた」とあります。もはや礼拝する民でなく、自分たちの欲するままに生きている民です。彼らのただ飲み食いして戯れる祭りは、神の裁きの言葉に包まれました。

神の裁き

「9主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。10それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。」(出エジプト記32:9-10)

イスラエルの民の罪により、3000人以上の人が死にました。今さえ良ければ良いのではありません。信仰生活において「待てない」ことはしばしば神様の祝福から遠ざかってしまいます。祝福は、神の御心に従うときに神様がくださるものです。私たちはただへりくだって神の言葉に従うことで、まことの祝福に与ります。

契約関係を保つために

神様はイスラエルの民を選ばれました。彼らは選民として神の言葉を守ることは必須でした。しかし、契約が破られたのです。

私の友人で、結婚相手の携帯電話とパソコンの履歴を毎日チェックする人がいます。「相手のことを信頼していないのかな」とびっくりしましたが、視点を変えてみると、友人にとっては、結婚関係を維持するための手段の一つとしての見張りだと分かりました。結婚関係以上に、神様とイスラエルの民の契約は大きなものです。

先週の礼拝で、「十戒」を要約すると「神様と隣人への愛」だと学びました。「十戒」は神様が与えてくださった「愛する関係」の契約です。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト記20:4)十戒の第二戒で神は言われました。民は待てずに金の子牛を造ってしまいましたが、彼らは「ただモーセを待つべき」だったのでしょうか。

待つこと+α

本来は「待つこと」は、信仰の行為ですが、何もしないで待つ受け身の時間ではないのです。ヘブライ語で「待つこと」の意味は、「張り詰めた糸のように、期待を持って信頼し続けること」だそうです。つまり、聖書的な「待つ」はもっと積極的なことで、待つことの中に信仰と希望を入れて待つことなのではないでしょうか。

モーセはシナイ山で神と共にいましたが、民にはその姿が見えませんでした。民は見えない中で「信じ続けること」が試されていました。「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」(出エジプト記20:20)。

神様が沈黙しているように見えるときに、「本当に神はいるのか」と問われるのが信仰の試練です。イスラエルの民は、長い間エジプトで奴隷生活をしていて、命令に従う信仰しか知らなくて、自由な中で信頼する信仰を学んでいなかったと言えます。だからこそ、彼らにとって「待つこと」は、信仰を「服従」から「信頼」に成長させる大切なプロセスでした。

「主を待ち望む者は新たなる力を得(る)」(イザヤ40:31)とあるとおり、神の沈黙の中に、信頼を保つことが信仰です。モーセを待つことは、実は神の計画と時を信頼して待つことであったのです。

なぜ人間は待てないのでしょうか。これはイスラエルの民だけの問題ではないです。現代の私たちも、「神の時」を待つよりも「早く答えが欲しい」と思ってしまいます。不安を埋めるために、目に見えて早くて安心する「金の子牛」を造ってしまっていないでしょうか。

現代の「金の子牛」は、必ずしも形があるものとは限りません。他人の評価、承認、称賛、仕事やお金なども「安心の形」になり得ます。もしそれらが欲しいと思うなら、それも神に祈って待てばよいのです。神様のタイミングで不思議なように与えられるかもしれません。信仰の本質は、「見えない中で信頼して待つ勇気」にあります。

奇跡を見て、律法を授かっても民はなお罪を犯しました。それは人間の内側・心が変わらない限り、外側からの掟では本当の意味で従順になり得ないことではないでしょうか。

パウロは「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3:20)と言いました。律法を完成するために来られたイエス様は、「あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ6:21)と教えました。いつも見えるものに頼りたくなる気持ちが起こることは誰にでも生じると思います。しかし、目に見える安心以上に、神が共におられることを本気で信じ続けたいと思います。

今月の最後の日曜日からアドベントが始まります。アドベントは救い主の誕生を待ち望むときです。「鋳物の子牛」を作ってしまう人間のために、見える形で神が地上に来てくださったのです。主が与えてくださるクリスマスの祝福を共に待ち望んで参りましょう。