出エジプト34:1-10「神の恵みと真実に生きる」
2025年11月2日(日) 礼拝メッセージ
聖書 出エジプト34:1-10
説教 「神の恵みとまことに生きる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。2あなたは朝までに備えをし、朝のうちにシナイ山に登って、山の頂でわたしの前に立ちなさい。3だれもあなたと共に登ってはならない。また、だれも山の中にいてはならない。また山の前で羊や牛を飼っていてはならない」。4そこでモーセは前のような石の板二枚を、切って造り、朝早く起きて、主が彼に命じられたようにシナイ山に登った。彼はその手に石の板二枚をとった。5ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。6主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、7いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。8モーセは急ぎ地に伏して拝し、9そして言った、「ああ主よ、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そしてわたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください」。 10主は言われた、「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしは地のいずこにも、いかなる民のうちにも、いまだ行われたことのない不思議を、あなたのすべての民の前に行うであろう。あなたが共に住む民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたのためになそうとすることは、恐るべきものだからである。
出エジプト34:1-10
【赦し:雪のアルバム】
三浦綾子さんの「雪のアルバム」という小説があります。主人公の浜野清美は、母子家庭で育ち、幼い頃から家に母の愛人が出入りする家庭で育ちます。学校ではいじめを受け、いじめっ子の事故死を目撃しても誰にも話すことができず、大人や世間に対する不信と孤立を深めていきます。
小学3年生の時に、清美は父の愛人の加奈崎という男にもてあそばれてしまいます。絵に慰めを見出し、ひたすら花の絵を描きます。中学校の時、唯一自分をかばってくれた章には母のことも話します。章は、「ぼくは、そんなお母さんを持っている君の不幸を、共に担おうと思ってさ、もしかしたら一生負いつづけなければならないその重荷を、ぼくも負いたいと思っていた」。
ところが高校の美術部で、あの加奈崎の娘・野理子と出会います。野理子は、裕福な家庭で育った優しい子でしたが、加奈崎への憎しみと野理子への嫉みは収まらず、野理子の誕生パーティーに招かれた時、清美は悪意を持って家に乗り込み、加奈崎の動揺を見て満足します。しかし、この清美の心を知った章は、清美から去って行きました。
そのとき清美は、自分の不幸な境遇を言い訳に、加奈崎を憎むばかりか、罪のないその娘の野理子までも不幸に落とそうとしていた自分の自己中心と醜さに気付きました。空しく高校生活を終えた清美に、宛名のない聖書が届きます。それを読んでいくと、「互いに重荷を負い合いなさい」という箇所に線が引いてありました。清美は大学時代に章と再会します。「清美ちゃん、君はまだキリストを信じていないかも知れないけど、ぼくは信じている。イエスという方はね、全人類の罪のために十字架にかかられたということを、ぼくは信じている。このぼくが許されている。自分が許されながら、どうして人を責めつづけることが出来る?」
ガラテヤ6:1-2「1兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。2互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」
この言葉を読んだとき、清美の心は、かつて経験したことのない不思議な平安に満たされます。
今日の聖書のテーマは神の赦しです。キリストの救いにつながる、旧約聖書の主の赦しの宣言です。
聖書の背景
礼拝では、出エジプトした民が荒野を旅して、シナイの荒野でほぼ1年滞在しました。神様はその場所で、イスラエルの民と契約を結び、十戒を与えられました(19-20章)。そこで神の民としての律法を与え、主を礼拝する幕屋について指示を与えられました。神様がモーセに多くのやり取りをしている間に、イスラエルの民はモーセが山に登ったまま40日も降りて来ないのを見て、待ち続けるのをやめて、金の子牛の像を作って偶像礼拝を始めました(32章)。▼今日の聖書箇所は、この金の子牛の事件から続く、罪の赦しと再び契約を結ぶエピソードです。モーセが経験した最も偉大な神の啓示であり、罪を赦す神の本質が啓示された、旧約聖書で最も感動的な場面の一つです。▽「罪の赦し」について見る前に、まず何が「罪」であったか、金の子牛の事件から、見ていきます。

1.金の子牛――貪欲と放蕩
イスラエル人は金の子牛を作ってそれを礼拝しました。「金の子牛」は、偶像崇拝の象徴です。当時の人々にとって偶像崇拝は大きな誘惑でしたが、現代の私たちにはどんな意味があるでしょうか?その核心はどこにあるでしょうか?これは時代によって変わるものですが、今日は3点を取り上げます。
①利得を求める貪欲
第一に、金の子牛はなぜ金でできているのでしょうか?そこには、利得を求める人々の貪欲さがあります。当時の偶像崇拝は、現世利益の貪欲な追求と密接な関係がありました。▽物質的な必要を求めることは罪ではありません。しかし、それが他者を押しのけるようになる時に罪となります。お金を稼ぐことが目的となり、家族を苦しめ、周りの人々を圧迫し、お金の力で人々を虐げて、弱い者への配慮を怠ることを、聖書は厳しく禁じています。▼神が下さる豊かさを喜ぶのと、貪欲に自分の欲望を追求するのは違います。この違いを何によって見分けられるでしょうか? 神にあって楽しむ人は、今ある物で満足することも学ぶことができるでしょう。自分の欲望を追求する人は、他人を押しのけようとします。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」と言われました(マタイ6:24)。▼政治家の麻生太郎さんが「人間が生きていくうえで大事なことは、朝、希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠ることだ」と言ったそうです。とても良いことだと思います。その懸命に働く方向性が、神に仕え・人を愛しているのか、それとも利得を求め・自分の欲望に仕えているのか、動機の方向を確認しましょう。
②どんちゃん騒ぎ
利得を追い求める心は、実際の放埓な生活と密接に結びついています。金の子牛を礼拝した人々は、敬虔に偶像を拝んだのではありません。「民は座して食い飲みし、立って戯れた」とあり(32:6)、荒野で酒が手に入ったのかは分かりませんが、酒の入ったどんちゃん騒ぎのような状態であったことは容易に想像できます。▼しばしば思うのは、お酒の席には悪口や嫉み・嫉妬などがつきものだということです。酒自体は悪いものではないのですが、酒によって自制心が弱くなると、自分のうちにある悪いものが出て来ることがあります。白洋舎の創業者の五十嵐健治さんは、「人間には酒を飲んでも良い人と、酒を飲んではいけない人がいる」と言いました。酒が入って楽しめるなら良いのですが、酒に酔って、言ってはいけないことを言い、暴力をふるい、異性関係がルーズになり、金銭にルーズになって、周囲に迷惑をかける。酒を飲むとすべての人がそうなるのではありません。▼酒を飲むことそのものを批判しているのではありません。でも、酒と放蕩は密接な関係があります。それらの悪徳は、自制されなければ、人を苦しめ自分自身を苦しめ、時には破壊的な影響をもたらすこともあります。
③宗教的偶像
三番目に、金の子牛の宗教的な側面をお話しします。ずっと後の王国時代に、イスラエルの隣国アラムにナアマンという将軍がいました。彼は重い皮膚病でしたが、預言者の噂を聞いてイスラエルに行き、その言葉の通りに川で身体を洗うとその病は癒されました。ナアマン将軍は主を信じ、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。それゆえ、どうぞ、しもべの贈り物を受けてください」と宣言します。神の恵みに感じて自発的に神への愛を表そうとする、このナアマン将軍の態度こそ、偶像崇拝の禁止において、主が求めておられることです。▼私が使っている黙想書リビングライフに、こんなエッセイがありました。礼拝とは、ちょうど大切な人の就任式のようなものだと言います。(あるいは、愛する人の誕生日のような記念日と言えるかもしれません。)それは、自分が何かを得るための時間ではなく、相手が喜んでくださることを喜ぶのです。相手との関係が深まる時に、その関係性から喜びが生まれるのであって、私たち自身の喜びのためにすることではありません。[1]
酒乱の騒ぎから、愛の交わりへ
イスラエルの人々は、かつていたエジプトでの偶像崇拝と酒乱のどんちゃん騒ぎを愛して、そこに戻って行きました。▼私たちの心は、何を願っているでしょうか?私たちの心は満たされているでしょうか?
昨日、私たちは近隣教会主催のソフトボール大会に参加して、たくさんの兄弟姉妹と一緒に身体を動かして、初対面の人が大多数でしたが、とても楽しい交わりを持ちました。また来年もと言って分かれてきました。▽先日のファミリーコンサートもそうでした。今日は町内会の文化祭があって、妻はオカリナの伴奏で出演し、私は子ども会で出したペンデュラム・ウェーブを整えて展示に出品しました。
教会には酒乱のどんちゃん騒ぎも偶像崇拝もいりません。しかし、温かい心の交わりは、必要です。人生を振り返る場として、教会は真剣でなければならず、同時に、喜びに満ちた心を開ける安全な場所でなければなりません。だから聖書は、酒に酔うのではなく、聖霊に満たされなさいと教えます。▼自分自身を追い求め、自分の利益を追い求めて、自分のために「何か」を追い求めるのではなく、 神ご自身の内に、私たちは変わることのない平安と、変わらない喜びを見つけます。絶えず何かを追い求める飢え渇きにかわって、満ち足りることを学び、 放蕩な欲望にかわってから温かい愛の交わりに生きることを学んでいきたいと思います。
偶像崇拝への神の怒り
イスラエルの民が、十戒の契約に違反して、金の子牛の偶像を作って礼拝をしたことは、エジプトでの奴隷生活から救い出して下さった主を捨てて、祖先への約束を忠実に果たされた主の真実を裏切って、 自らを虐げてきたエジプトの神々に戻ることでした。▽民が主を捨てて契約を破ったので、モーセはそのしるしである石の板を砕きました[2]。そして、金の子牛を粉々に砕きます。▼モーセはイスラエルのために、自分の永遠のいのちに代えてもイスラエルの民を赦してほしいと主に祈りますが、この時は受け入れられません。▽主は、不従順な民を絶ち滅ぼしてしまうことがないように、ご自分で彼らを導くのではなく、代理の天使に導かせようとします。そして、悔い改めのしるしとして、彼らにアクセサリーを外して悲しみを表すように命じられました。

2.執り成し手・モーセ
モーセはここで、イスラエルのために主にとりなすとりなし手として描かれています。
33:11 人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。
他の誰とも異なり、モーセは神と顔と顔を合わせて語り合い、主はモーセを信頼して心を開かれました。33章の後半に、モーセの嘆願によって、主の心が動いていく様子が描かれています。当初の神様の心が頑なだったというのではありません。ここでの表現は、人間に分かるように、神様が人間のように心を動かされていくように描かれています。しかし、ここには祈りの不思議な奥義が表れています。▼ある人は、祈りによって神様を動かすことはできない、個人の願望によって神様を動かすことはおこがましいと慎み深く考える方がおられるようです。しかし、ここで描かれる神様は、不思議なことですが、モーセの祈りに心を動かしていかれるように描かれています。確かにこれは神様の慈しみ深さを人間のように表現したものなのですが、神様は、確かにご自分が信頼する人の、御心にかなう真実な祈りに答えて、ご自分の言葉さえ変えて祝福を下さる優しい神様です。▼主は、モーセの願いに答えて、前に言われたご自分の言葉を覆して、モーセと共に、イスラエルと共に、主ご自身が彼らを導かれると約束されました。▼モーセはさらに願います。33:18「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。主は、答えます。33:19「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。」しかし、33:20「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。33:23,20「あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。
主は、その通りに、モーセに出会われました。▼最初の契約の時と同じような2枚の石の板を、今度は彼自身に用意させ、かつてと同じ契約の言葉を書き記してくださいます。最初の時のように、民も家畜も聖別して山から離れさせ、モーセには朝早く山に登らせ、そこで彼と出会われました。
3.赦しの神
5 ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。
主は最初の契約の時のように、「雲の中にあって降りて来られ」、「彼(モーセ)と共にそこに立って」=目には見えない聖なるご臨在をもってその場所に臨み、御言葉をもってご自分の御名を宣言しました。神様の御名には、神様のご性質が表されていて、救い主として性質がはっきりと宣言されます。続く言葉は、聖書の歴史で繰り返し引用された言葉です。
34:6b-7 6 …「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、7いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。
金の子牛の出来事に続くやり取りの中で、この言葉が宣言されることに、どんな意味があるでしょうか。これは、主に反逆して偶像を拝み、主を退けて、自ら滅びに向かう民に対する、赦しの宣言です。▼6節に神様のご性質を表す5つの言葉が出てきます。①「あわれみあり」とは、Compassion=父が子に対するように、人間に対して優しい関心を持っておられることです。②「恵みあり」とは、恵み深いこと=受けるに値しない者に対して寛大な恵みを下さることです。③「怒ることおそく」とは、罪に対して忍耐強く、罰を遅らせる「寛容さ」です。④「慈しみ」ヘセドとは、契約に基づく変わらない愛。=イスラエルがどんなに罪を犯しても、神様の側では契約を守り続ける忠実な愛です。⑤「まこと」:変わることのない真実さ。約束を忠実に行われる変わることのない真実です。▼主は、イスラエルが偶像礼拝を犯しても、主の他には頼るもののない窮状を理解して、彼らを顧みて、罰することなく、赦しを宣言して下さいました。[3]
この主の赦しの宣言は、旧約聖書で繰り返し引用され、祈りの拠り所となりました[4]。
詩篇103:8-10「8主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。9主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。10主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。」
預言者たちは、この赦しの宣言に基づいて、悔い改めを呼びかけました。▼北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅亡して捕囚になった時、南ユダ王国の王ヒゼキヤは、イスラエルとユダの全土に礼拝を呼びかけて、主を信頼して主に立ち帰るように勧めました。
2歴代誌30:9 「もしあなたがたが主に立ち返るならば、あなたがたの兄弟および子供は、これを捕えていった者の前にあわれみを得て、この国に帰ることができるでしょう。あなたがたの神、主は恵みあり、あわれみある方であられるゆえ、あなたがたが彼に立ち返るならば、顔をあなたがたにそむけられることはありません」。
預言者ヨエルは主の日の裁きを預言して、主に立ち帰るように励ましました。
ヨエル2:13 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。
主の赦しの恵みは、私たちが主に立ち帰るようにと捕らえ、励ますのです。
詩篇130:3-5
3主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、
主よ、だれが立つことができましょうか。
4しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
5わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
この罪の赦しの教えは新約聖書に流れ込んでいきます。パウロは言います。
ローマ2:4「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」
ローマ5:20 「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」
まさに偶像崇拝の罪が極まった時に、神様の最大限の赦しの言葉が宣言されました。その罪がさらに深まった時に、主イエスが到来するのです。
ヨハネ1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
神を知らなかった民をご自分のものとするために、私たちは神に忠実でなかった時に、私たちのためにご自分の命を与えて、神様の真実と変わらない愛を表されたのが、主イエス・キリストです。

モーセとキリスト
出エジプト記で、主の赦しの宣言を聞いたモーセは、急いでひれ伏して言います。
9そして言った、「ああ主よ、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そしてわたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください」。
モーセは民のために神様にとりなす仲介者として、主イエス・キリストのモデルとなった人物です。モーセは神に喜ばれていましたが、「わたしたちの悪と罪」と言って、民と心を一つにしました。彼は以前、「彼らの罪を赦してくださるなら」「<命の書>から私の名を消し去ってください」とまで願いました(32:31-32)。それはキリストに似た心でしたが、神様はモーセにはそれを許しませんでした。ただイエス・キリストだけが、罪のない者として人々の命の代価となることができ、死んで復活することのできる方でした。神に背く民をどこまでも追いかけて、ご自分の愛と恵みを示される「恵みとまこと」は、主イエスによって実現しました。
9節でモーセは「どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください」と願いました。その願いは、主イエスにおいて神が人となられたことによって、聖霊が人の内に住まわれるようになったことによって、はるかに良い形で実現しました[5]。▼モーセが願った罪の赦しは、主イエスの十字架によって成し遂げられて、神様が喜ばれるご自分の所有の聖なる民としてくださいます。
4.神の民となる喜び
この後、主は以前のように、再びイスラエルと契約を結んでくださいます。
モーセが主と語り終えて山を下りると、なんと主と語り合ったモーセの顔は、主の栄光の残りで、肌が輝いていたと言います。これは、非常に特別な、目に見える神の輝きの表れで、これを経験する人は歴史上ごくわずかです。しかし同時に、私たちも同じ神様の恵みを頂いていることも事実です。▼神様と共に過ごすということは、私たちの内に何かの影響を、神様の臨在の余韻を残すものではないでしょうか。▽祈りの中で神様と語り合い、デボーションや聖書通読を通して神の御言葉を聞く時に、私たちの肌は光りませんが、聖霊の光は私たちの内を照らしています。その光を大切に頂きましょう。▼パウロによれば、私たちが仕えているキリストの新しい契約の務めは、モーセが仕えていた古い契約の務めよりも優れているのです(2コリント3章)。
主の赦しの結果は、35章に出てきます。モーセが幕屋を作るための様々な奉納物を持ってくるように命じると、進んで献げる人たちが、金銀や糸や布や動物の皮、材木や油など、あらゆるものを作って持ち寄り、モーセがやめさせなければならないほど、有り余るほどになりました。神様に愛され・受け入れられ、赦されて宝の民とされた喜びが、多くの人々の喜びとなって、主への奉仕となったのでした。

まとめ
34:6 …「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、」
どんな罪をも取り除かれる主の恵みは、イエス・キリストによって実現しました。主イエスは、変わらない愛(恵みとまこと)をもって私たちと共におられます。
ヨハネ1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
主イエスの恵みは、私たちが主に立ち帰り、主と共に歩むようにと絶えず招いておられます。モーセが自分の命に代えて、民のために願い求めたことを、主イエスはご自分の命によって、私たちのためになしてくださいました。主イエスの愛は、私たちの心を惹きつけて、神のもとに捕らえます。私たちが主を畏れかしこみ、愛によって主に仕える者とされます。共におられる主イエスの恵みと、父なる神の愛と、聖霊の親しい交わりに励まされて、この1週間も歩んでまいりましょう。
[1] リビングライフ2025年10月31日
[2] 2枚の石の板は、契約を結ぶ双方が保管する2通の契約書に相当する。
[3] 7節では、「罪の赦し」は「罰を与える」より前に置かれている上に、赦しは「千代」、罰は「三、四代」と大きく対比されている。さらに、6節の神の「憐れみ」は、神の取り去ることのできない本来的なご性質として宣言されている。
[4] ①モーセ自身による引用:民数記14:17-19(カデシュ・バルネアで主に背いた時のとりなし)。申命記4:27(モーセによる捕囚の預言)。②ダビデの祈り:詩篇86:5,15、詩篇103:8-10。詩篇57:10。③神殿礼拝:詩篇145:8-9、詩篇100:5。④預言者等の悔い改めの呼びかけ:2歴代誌30:9(ヒゼキヤ王の改革)
[5] モーセは幕屋を立てたが、主イエスの受肉を指す「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)とは、「幕屋を張る」ことを意味するギリシャ語である。

