創世記18:9-15, 21:1-7「喜びの笑いをくださる神」
2025年6月29日(日) 礼拝メッセージ
聖書 創世記18:9-15, 21:1-7
説教 「喜びの笑いをくださる神」
メッセージ 堀部 舜 牧師

9彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。10そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。11さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。12それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。13主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。14主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。15サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。
創世記18:9-15
1主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。2サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。3アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。4アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。5アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。6そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。7また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。
創世記21:1-7
【北海道】 先週、私たちは北海道に行ってまいりました。友人たちや教会の方々に案内して頂き、旭川の三浦綾子文学記念館や、札幌・美瑛・富良野観光をさせて頂きました。折しも、昭和の宗教弾圧でホーリネス教会の牧師たちが一斉検挙された6月26日と重なり、早朝の記念集会にも参加できました。
【神の物語】北海道大学(旧札幌農学校)は、クラーク博士・新渡戸稲造・内村鑑三といった明治期の日本のキリスト教会の歴史を担った人々を輩出した地ですが、その歴史に触れ、昭和の宗教弾圧の証しを伺い、三浦綾子さんの足跡をたどり、現代の信仰者たちの交わりに加えて頂く中で、神の歴史の物語は今に至るまで続いているのだと思いました。
聖書の歴史は、歴史を導く神が、人間と共に歩まれた「神の物語」です。今日は聖書のアブラハムとサラの人生を読みます。神が働かれた「アブラハムの人生の物語」を読む時に、私たち自身も「神の物語」の登場人物の一人であり、私の人生という「神の物語」を、一日一日新たに書き記していることに気付きます。





交わり

交わり
1.神の訪れ――日常の中に来られる神 (創世記18:1-8)
18:1「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。」
主はアブラハムの日常生活の中に、ご自分を現されます。▼(「テレビンの木」は、新しい訳では「樫の木」と訳されます。)マムレの樫の木は、創世記13章でアブラハムが甥のロトと別れた後に、主のための祭壇を築いた場所です。彼が礼拝をしようと心を定めたその場所で、まさに礼拝の日々のただ中に、主はご自分を現されます。
イスラエルの暑い日差しの中で、アブラハムも天幕の入り口に座って休もうとしていたところに、3人の旅人がやってきました。99歳のアブラハムは、旅人たちをもてなすために、走って彼らのもとに行き、礼を尽くして出迎えます。当時のアブラハムは、すでに多くの財産と家畜と奴隷を持つ族長で、王たちとの戦いに勝ち、その名も知られていました。しかし、彼は地にひれ伏して礼をして、王を迎える時のように、最高の礼を尽くして自ら客をもてなします。彼は大量の小麦粉と、最高の食材である子牛で、豪華なごちそうを用意して、自ら給仕して旅人たちをもてなしました。アブラハムは、旅人たちが誰であるかを知らずに、神とその使いのもてなしにふさわしい最高の態度でもてなしました。

2.神の現れ――日常を越えた神(創世記18:1-8)
【サラへの告知】 アブラハムとサラ夫妻の人生の中で、アブラハムは神の約束の言葉を繰り返し聞いていましたが、サラは直接神の言葉を聞いてはいませんでした。今日の箇所では、神様はサラにも直接語りかけます。サラ自身が直接、神に出会った箇所です。
【子孫の約束】 3人の「旅人」は、食事の途中で突然アブラハムに、妻サラのことを尋ねます。そして言います。「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」(18:10)。20年以上前から語られ続けてきた「子を与える」という約束が、次第に具体的になり、ついに1年後に生まれると預言されます[1]。
【逆境の中で】 周囲の状況を見れば、到底信じることのできない状況でした。最初に約束を頂いた時に、サラはすでに65歳。今日の箇所では89歳になっていました。常識的には子どもが生まれる可能性は残っておらず、信じ続ける根拠は神の約束の言葉だけでした。▽神だけが約束を実現できる状況で、彼らの信仰は神だけに定められていきます。
【サラの不信仰】 しかし、信仰とは、障害物のないレールの上を進んでいくようにスムーズにはいきません。▼サラは、アブラハムを通して神の約束を聞いてはいても、神への深い信頼は育っていませんでした。約束が与えられてから年、10年と時が経つにつれて、自分が子どもを産むとは信じられなくなっていきました。11年が経ち、自分が子どもを生める年を大きく過ぎた時、サラはその状況の不安定さに耐えられず、アブラハムに女奴隷ハガルを与えてイシュマエルが生まれます。しかし、このことは彼らの家庭に根深い不和をもたらすことになりました。この後、神様は13年間沈黙されます。▼神に信頼しない不信仰が、神の祝福を妨げたのでした。そして、ハガルとの間の苦々しい思いは、静まって神の約束を思い巡らして神に希望を置くことを妨げました。
【適用】 このようなサラの状態は、私たちにもしばしば起こります。人間関係の苦々しさや、思い通りにならない状況に思い煩うことは、私たちが神に信頼するのを妨げます。主イエスも言われました。「御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる」[2]。必要を満たして下さる神に信頼せずに思い煩うこと、神ではなく富を求める誘惑、神よりも自分の栄光・利益・安楽を求める欲望は、信仰の目を暗くし、神にある希望を見えなくします。▼私たちが、主イエスを信じて御言葉を聞いているのに、喜びがない/実りがない時に、これを確認したいと思います。▽神を信頼して神を見上げるよりも、思い煩い、自分の利得や成功を求めてはいないでしょうか?クリスチャンの幸いの源は、ただ神の内にあります。神様にしっかりとつながっている時にこそ、幸せに生きることができます。

【心を見通す神】 子どもの誕生の予告を、天幕の陰で聞いていたサラは、心の中で笑います。「年老いた私に、子どもが生まれるなんて、そんな嬉しいことは起こるはずがありません」と。しかし主は、言葉に出さないサラの心の中を見抜いて、率直に、しかし穏やかに言われます。「なぜサラは、…笑ったのか」。▼3人の「旅人」は、18:2では「人」と呼ばれて、普通の人間のように見られていました。彼らの正体は後に明らかになります。3人のうち、1人は主ご自身であり(18:33)、残りの2人は御使いと呼ばれます(19:1)。▼サラの心の中を見抜くことができたのは、主ご自身でした(18:13)。主は、御使いが伝えた預言(18:10)を、ご自分の言葉で繰り返して保証されます(18:13-14)。
【主との出会い】 心の笑いを指摘されたサラは、それが主ご自身であることを悟りました。サラが、直接神の言葉を聞いた瞬間でした。▼「主にとって不可能なことがありましょうか」。サラは、自分の心の内が見透かされ、神に信頼していない自分の姿が露わにされました。神の前で、神をふさわしく敬っていなかったことに気付き、恐ろしくなりました。サラは「私は笑っていません」と否定しますが、主は「いや、あなたは笑いました」と言われます。
【適用:認罪と御心】 サラはこれまでも神を信じてきました。しかし、神ご自身の前に立ち、主の言葉を直接聞いて、御言葉で心の内を探られた時、彼女は自分の不信仰が露わにされ、不安と恐れを感じました。▼これは、私たちも経験することです。私たちが御言葉を読み、聖霊が働かれると、聖霊は私たちの心の内を探られます。御言葉は私たちの不信仰を悟らせ、私たちの平穏は破られ、恐れと不安を感じます。▽この不安な心を偽り隠して、鈍感になってはなりません。この不安な心を満たして下さる方こそ、神ご自身だからです。
神様はサラにまもなく子どもを与えて、恐れる心を喜びの笑いに変えてくださいました。最初に約束を頂いてから、その実現を待ち続けた25年の辛く砂を噛むような生活は、この日から1年も経たないうちに、喜びの笑いへと変えられます。▼神が与えようとしておられるのは、祝福の笑いです。その祝福を受けるためには、サラが主に目を上げて、信頼する必要があります。その前に、サラの内にある不信仰や苦々しさが取り扱われなければなりませんでした。▼幸せな家庭で育った子どもは、対人関係でスムーズに信頼関係を築くことができますが、不和な家庭で育った子どもは、信頼関係を築くことに苦労します。▽神様との関係も同じです。神との温かい信頼関係から遠ざかっていた人は、安定した神との交わりを保つのに苦労するでしょう。▽人間として成長する中で人間関係が次第に安定し、信頼関係の構築に習熟していくように、神様との関係性も、成熟の過程の中で安定し、早く回復できるようになっていきます。
【ある大学教授の回心】 私が以前伺った、ある元大学教授の回心のお証しです。その方の奥様は敬虔なクリスチャンのご一家でしたが、ご自分は結婚した時は信仰を持っておられませんでした。礼拝には出席し、ご家族から信仰の話は聞きますが、ご自分は信仰を持つことはありませんでした。長い時間が経ち、ある日、ご家族から改めて信仰のお話しを聞く機会があったそうです。しかし、その時も心は動きませんでした。ところがその瞬間、彼の心に語りかける主の声を聞かれました。「なぜあなたは信じないのか?」その声を聞いて、その方は自分の不信仰の罪を悔い改めて、信仰に入り、やがて教会役員となって、長くご奉仕をされました。
主は、私たちをご自分に引き寄せるために、私たちの心に語りかけて、罪を示し、真の信仰と神との正しい関係に導かれます。
3.神の約束の実現――笑いをくださる神(創世記21:1-4)
【イサクの誕生】 イサクが誕生した場面は、21章の冒頭に、短く記されています。見落としてしまいそうな、目立たない記事です。しかし、アブラハムの生涯に、なくてはならない決定的な約束の実現です。アブラハムに対して与えられた約束の多くは、イサクを通して成就します。ここから神の民(国)が起こされていく、聖書の歴史の重要な転換点です。
【労苦を忘れさせる幸福】 90歳のサラの出産には、大きな苦労があったと思います。しかし、イサクの誕生の記事は、幸福と喜びにすっかり包まれています。子どもが与えられた喜びと、神が共にいて顧みてくださったという喜びは、全ての労苦を忘れさせてくれました。
【神の主権】 イサクは、神様が告げられた通りのタイミングで生まれました。ここに、全てを予め知っておられる神の知恵があります。神がすべての時を知っておられる。そのことを知ってから過去を振り返ると、最初の約束から11年経っても約束が実現しなかった時も、イシュマエルの誕生後に13年間神が沈黙された時も、神様は全てを知って導いておられたことになります。▼神が、最終的に最高の祝福を備えて下さっているのなら、そのすべての過程は、ただの空白期間や無意味な遠回りであるはずはありません。▽アブラハムもサラも、勇敢な信仰の父・母でしたが、困難な状況で恐れに負けて神に信頼できず、危いところを助け出されて恥をかくこともしばしばありました。しかし、そうした一歩一歩の中で、彼らは主と共に歩み、それを通して彼らの信仰は練られ、状況に揺り動かされずに神に深く信頼する不動の者・全き者に変えられていきました。成功も失敗も含めて、神と共に歩んだ25年間の歩みの過程が、アブラハムとサラを、神に信頼する者に変え、神の祝福を受け継ぐに相応しい者に整えました。
【適用】 皆さんは、今、どんな時間を過ごしておられるでしょうか?試練と忍耐の期間を過ごしておられるでしょうか。失敗の後の、砂をかむような味気のない期間を過ごしておられる方もおられるかもしれません。それは、沈黙してただ神の前にひれ伏し、神を待ち望む者・謙虚な者にされる期間ではないでしょうか?実際にそこを通っている間には、無意味にしか思えないような空白の期間にこそ、私たちはへりくだらされ、恵みを受け止められる謙虚な砕かれた霊の人に造り変えられます。神の前に沈黙して神を待ち望むことを学ばなければ、この訓練の期間は終わらず、へりくだることによって、喜びの笑いの時が来るのを早めることができます。
【宗教弾圧:小原十三司牧師の信仰】 1942年6月26日の早朝、全国のホーリネス教会の牧師たちが、治安維持法違反の疑いで一斉検挙されました。キリスト教の正統教理がその理由でした。
北海道の伊藤馨牧師は、3年以上にわたって投獄され、拷問のような取り調べを受けて、60kgあった体重は40kgになり、寒さで顔は凍傷になり、出獄時には、迎えに行った教会役員に見分けがつかない姿になっていたそうです。
東京の小原十三司牧師は、厳しい獄中生活の中で、歌を詠みました。朝には「今日もまた いたくまされる 御心が なされることを われは信ずる」と詠い、夜には「今日もまた いたくまされる 御心が なされしことを われは信ずる」と詠いました。不条理で厳しい迫害の中で、神の御心が一日一日なされていることを信じ、告白しました。小原牧師は、獄中生活を「信仰の大学院」と呼んで、試練の中にある神の御心を認めて、神を深く知る機会として受け止めました。

【サラの笑い】 サラは言います。
21:6…「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
「イサク」という名前は「笑い」という意味を持ちます。神様はサラの生涯に、喜びの笑いを与えて下さいました。▼今日読んだエピソードの中で、神様の約束を聞いた時にサラは心の中で笑いました。しかし、このエピソードを聞いた人は、サラを馬鹿にして笑うでしょうか。むしろ、誰もがサラのように神の祝福を頂きたいと願うでしょう。サラの物語を聞く人は、サラの不信仰を笑うのではなく、サラに与えられた祝福を共に喜んで笑うのです。▼同時に、サラの言葉には、恵みを頂いた人の謙虚さが表れています。喜びの笑いは、サラの心の防御を取り去りました。サラはこれまで、子どもが生まれないことについて、いろいろな理由を探し、自分の力で・自分の願うタイミングで、約束を実現しようとしました。しかし、神が顧みて下さり、神の愛を経験した時、自分の力で肩肘張って生きる必要がなくなりました。自分の過去の過ちを素直に認めて、「私は神様の力を知らず、信頼していなかった」と、自分のありのままの姿を認めることができるようになりました。神様が自分を顧みてくださり、愛してくださっていることが明らかになった時、自己防衛や自己正当化は必要なくなりました。
イサクの誕生は、待望の子どもが与えられたというだけではなく、アブラハムとサラが神を深く知る機会になりました。神の恵みは、私たちが神を深く知るようになるために、与えられるのです。
【喜びと服従】 私が時々聞く言葉に、「キリスト教を信じるとルールに縛られるのが窮屈だ」というのがあります。これに対する答えが「神はわたしを笑わせてくださった」という言葉の中にあります。▼イサクの誕生後、アブラハムは主の命令に従って、イサクに割礼を施しました。ここには重苦しい空気はなく、むしろ喜びと感謝の雰囲気しかありません。神が私たちを顧みて、具体的に祝福をくださり、喜びの笑いで満たしてくださる時、神様の命令に従うことは、喜びと感謝以外の何ものでもありません。▼神の命令に従うことが窮屈に感じるのは、「主が笑いをくださる」ということを経験していないからです。▼アブラハムがイサクに施した割礼は、神との契約のしるしであり、生涯を神と共に歩む恵みのしるしでした。それは、神の恵みの祝福――喜びの笑いをくださる恵みの神との契約のしるしです。
【ある兄弟の経験】 ある黙想文にあったお証しです。
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。……彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。(イザヤ書35:1-2)
長い信仰歴を持つ老兄弟から「私は救われたと言う確信が無いのです」と打ち明けられたのです。教会で皆から尊敬されている方の、思いがけない言葉でした。しかも、それは数十年もの間、心の中にあった深い悩みだったのです。兄弟は牧師の勧めを受けて、もう一度これまでの生き方を深く神の前に吟味し、キリストに望みを置いて祈り求め続けました。
そんなある日曜日、礼拝の司会をされていた時、この老兄弟は、その日の交読文であった、このみことばを読んで一言「兄弟姉妹。今日、このおことばが私に成就しました」と告白されたのです。いつもは決してこのような個人的な発言をされませんでしたが、心に溢れる救いの喜びをそのように表現されたのです。その時の輝いたお顔は今も脳裏にあります。それから十数年後に天に召されるまで、この方から、この輝きと喜びが消えることはありませんでした。
髙橋養二「聖書日課 神の庭で」9月27日 老兄弟の輝き

■【まとめ】
- 主は「マムレの樫の木」の祭壇=礼拝の場所で、私たちに出会ってくださいます。
- 主は私たちに約束を下さり、私たち一人一人に語りかけてくださいます。私たちの心の内を明らかにし、ご自分に引き寄せて下さいます。
- 主は私たちを悲しませるためではなく、喜びの笑いを与えるために、私たちと共に歩んでくださいます。
- アブラハムとサラが、25年間の待望と忍耐の期間を越えて、信仰の父母として整えられたように、私たちも、試練と渇いた期間を通して、へりくだって神に信頼する者として整えてくださいます。
18:14「主にとって不可能なことがありましょうか。…」
21:1「主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。」
21:6…「神はわたしを笑わせてくださった。」
◆祈り
天の父なる神様。私たちにイエス・キリストを与えて下さり、ありがとうございます。主イエスを復活させてくださったように、私たちも復活の約束を与えていて下さることをありがとうございます。試練の中で、アブラハムがへりくだって神様を信頼することを学んだように、私たちにも、神を信じてへりくだることを教えてください。サラが主の祝福を頂いて、喜びの笑いを頂いたように、あなたの祝福を頂くのにふさわしい者としてくださり、あなたの祝福を受け継ぎ、祝福をもたらす者としてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[1] 子孫の約束:創世記13:15-16、15:2-5。サラの子の約束:17:6。サラの子の生まれる時期の約束:17:15-21
[2] マルコ4:18-19