創世記28:10-19「ヤコブのはしご」
2025年8月3日(日) 礼拝メッセージ
聖書 創世記28:10-19
説教 「ヤコブのはしご」
~梯をかける人 Bridge Builder~
メッセージ 堀部 里子 牧師

時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
…『わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう』。ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』。ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。
創世記28:12,15-19
よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
ヨハネ1:51
おはようございます。8月に入りました。蝉が鳴いたり、夏祭りや花火大会があると、The夏!という感じがしますね。皆さんはどのような暑さ対策をしておられますか。私は夏の前から寝る時には、大きな保冷材にタオルを巻いて、枕代わりにしていました。でも保冷剤が固く、朝目覚めると肩こりがしていました。今はジェル状の柔らかい氷枕を使用しており、快適な睡眠が保たれています。さて今日は、保冷剤よりも固い石を枕にして野宿したヤコブの話です。
先週のメッセージでは、イサクとリベカの結婚二十年後に産まれた双子が成長して、兄のエサウが一杯の食物のために「長子の権利」を、弟ヤコブに渡してしまいました。それから時は流れ、年老いたイサクは、長男エサウに祝福を与えようとしますが、既に目が見えなくなっており、騙されて弟の方を祝福してしまいます。
聖書のここまでのストーリー
母の胎内にいるときから争っていた双子は「兄が弟に仕える」(創世記25:23)という神様の言葉通りになっていきました。祝福がもらえなかったエサウは弟のヤコブに殺意を抱くようになります。
「こうしてエサウは父がヤコブに与えた祝福のゆえにヤコブを憎んだ。エサウは心の内で言った、『父の喪の日も遠くはないであろう。その時、弟ヤコブを殺そう』。」(創世記27:41)ここからヤコブの旅が始まります。今日はヤコブに臨んだ決定的な事柄を共に学んでいきたいと思います。
ヤコブの旅路
「さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かった…」(創世記28:10)
人生は旅に例えられますが、ヤコブの旅路の始まりは、自ら望んで出発したのでなく「逃亡」でした。表向きは、リベカの郷里に行ってお嫁さんを迎えるようにと、父イサクに祝福されて出発しましたが、家族を離れて逃げなければならなかったのです。エサウとの確執がありましたが、兄のかかと掴んで産まれて来たヤコブ自身の性格も、人を押しのけ、どこかずる賢こさがありました。
旅に出る前のヤコブは、両親の下で不自由なく暮らしていました。しかしある日、住み慣れた故郷のベエル・シェバを離れ、ハランへと向かうことになったのです。ベエル・シェバは、エルサレムから南へ約73キロのところに位置する町で、アブラハムとイサクがアビメレクと井戸を巡って契約を結び、和解に至った町です。「ベエル」とは「井戸」、「シェバ」は「七つ」、または「誓い」という意味があります。直訳すると「七つの井戸、誓いの井戸」となります。また数字の七には「完全・神聖」という象徴的な意味もあるので、ヤコブにとって、祖父と父にゆかりのある神聖な場所であり、且つ生活に大切な水を得る地を去らなければならなかったのです。
私たちも進学や結婚や就職、転職など人生の節目節目で、住む場所や環境が変わることがあります。そして次のライフステージに進んだとき、新しい環境の中で過去を懐かしく思ったり、寂しく思うかもしれません。ヤコブにとって、住み慣れた土地と家族を離れることは、神様の御計画の中にあり、ヤコブの信仰の新たな始まりとなりました。

from wikipedia commons, CC BY-SA 4.0
ヤコブの夢
「一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。」(創世記28:11-12)
たった一人でハランへ北上するヤコブの心中を考えると胸が痛みます。いつもそばにいた両親もいません。ライバルの兄もいません。不安と恐れで満ちていたと察します。しかし、後戻りもできず、前進するしかありません。中東は旅人をもてなす文化があります。ですからもしヤコブが旅の途中で、どこかの家を訪ねて宿泊させて欲しいと願えば、家の主人は喜んで寝る場所も食べ物も与えられたと思います。ヤコブは野宿を選びました。人と出会うなら、自分の身の上話をしないといけません。話ができる状態にまだなかったのかもしれません。「その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た」ヤコブの孤独感、悲壮感が複雑に絡み合っているのが伝わってくるようです。
神の約束
しかしその夜、神様は夢の中でヤコブに出会ってくださいました。活動的な昼間ではなく、すべてが寝静まった暗い夜に神様が出会ってくださったことは、正に私たちの人生の暗い時期に光が差し込む暗示にも受け取れます。独りだと思っていたヤコブには、応援団がいました。夢の中でヤコブが見たものは、天から地に向けて伸ばされた階段のようなはしごに、天使たちが上り下りしている姿でした。それだけでなく、ヤコブが聞いた言葉は彼の心を安心させるのに十分でした。
「「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。(創世記28:13-15)
この約束の言葉は、祖父アブラハム、父イサクに語られてきた言葉でしたが、ヤコブが直接聞いたのは初めてでした。兄を裏切り、長子の権利を奪い、父を騙して逃れるように故郷を出て来たヤコブに、「あなたが次は祝福を受け継ぐ番だ」と声をかけてくださったのです。アブラハムとイサクへの約束とは別に、新たに語られた言葉が15節です。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
なんと力強い神様の約束の言葉でしょうか。神が共にいること、どこででもヤコブを守ること、連れ帰ること、決して見捨てないこと…、これらはヤコブが不安に思い、恐れていたことを満たして余りある言葉であったと思います。
私が東欧旅行で出会ったクリスチャン青年
大学時代に、長年の夢だった約一ヶ月の東欧旅行へ友人と行きました。当時は、「ドイツ統一」や「東欧革命」から数年後で、私たちはどうしても革命後の国々をこの目で見たかったのです。女性二人旅でしたので、いささか不安でした。スマホで情報を調べることもできない時代でした。案の定、ドイツから東に行くにつれ、治安が西に比べて良くないことが分かりました。電車で昼寝もできません。旅で出会った日本人男性が、所持金と荷物を盗まれて帰国しないといけないと言っていました。不安になった私たちに神様は一人のアメリカ人と出会わせてくださいました。「雨が降りそうですなー」と日本語で話しかけてきたのです。日本に留学経験のある青年でした。一緒の車両で話しをしている内に、彼が「僕の大切な物を見せてあげます」と一冊の聖書を出して、聖書の箇所を読んでくれました。どこだったかは忘れましたが、神の守りの約束の言葉であったと記憶しています。
彼は、「男がいると盾になるからこちらのコンパートメントに移りましょうか」と丁寧に聞いてくれたので、信頼できる人だと思い、私たちは申し出を受けました。その夜のことです。寝ていた私たちのコンパートメントに泥棒が入りました。いち早く気付いたアメリカ人青年は、大声を出して泥棒から力づくで荷物を取り返してくれました。そして彼はすぐさま、祈りの姿勢に入り守られた感謝の祈りを捧げていました。思い出すとドラマのワンシーンのようです。
旅の不安を抱えていた私たちに、神様は思いがけず日本語が話せるアメリカ人クリスチャン青年を助っ人として送ってくださったのです。私は当時、熱心なクリスチャンではありませんでした。しかし、不信仰な私でさえも神様の守りの中に入れてくださるのだと、一つの信仰の目覚めになる出来事となりました。
ヤコブの目覚め
「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』。」(創世記28:16-17)
ハランへの旅路の途中の夢で、神様はヤコブに出会ってくださいました。翌朝目が覚めたとき、ヤコブは『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』と信仰告白をしました。ヤコブは神の守りを確信し、眠りから目覚めただけでなく、その日がヤコブの信仰の目覚め、転機となったのです。
信仰の目覚めや転機は、平和な日常で与えられるより、孤独や試練の只中で何もかも失ってしまったときに与えられることが多いように思いますが、いかがでしょうか。ヤコブはこの日を迎えるまで、「まことに主がこの所におられる」と主の名を信仰と畏怖の念を持って口にしたことがありませんでした。父イサクを騙した時、「あなたの神、主がわたしにしあわせを授けられたからです」(創世記27:20)と言いましたが、「わたしの神」でなく「あなたの神」と他人事のようでした。信仰者である祖父、父を持ちながら、ヤコブは長く個人的に神を知らずに生きてきたのです。そして自分の信仰に目覚めてはいなかったのではないでしょうか。孤独になり、不安になり誰の助けもなく一人荒野で石の枕をしたその夜に、神様が天から地にはしごをかけてくださり、天使たちを見せてくださったのです。そして、直接ヤコブに語りかけてくださったのです。
私たちは信仰の話を聞いても、誰かの礼拝する姿を見ていても、神様と個人的に出会わなければ、信仰の旅は出発できないのです。キリスト教は、宗教(Religion)という枠以上に神との関係性(Relationship)が一番重要なのです。

奪うものでなく、与えられる
今までヤコブが自分であがいて努力して勝ち取った権利は、まるで下から上にかけるはしごのようでした。しかし、ヤコブが夢で見たはしごは、天から地にのびていました。つまり神様がヤコブのために、ヤコブの目の前にはしごを天からかけてくださったのです。
私たちは重力には逆らえず、支えがなければ下にドスンと落ちてしまいます。ヤコブは長子の権利を兄から奪いましたが、天の祝福は奪うものでなく、神から与えられるものでした。努力で天まで上ることはできません、神様はヤコブに「上って来い」と命令されませんでした。ヤコブの暗い現実の只中に、神様の方がはしごをかけてくださったのです。そして主がそのはしごの上に立っておられたのです(創世記28:13)。
神様がヤコブの傍らに共におられることを知ったヤコブは、もはや旅の恐れではなく、神への畏れ(畏怖の念)を抱きました。この場所は「神の家」だ、「天の門」だと言いました。荒野の真ん中で、祭壇も幕屋も祭具も何もありません。あるのは主が共におられるという主の臨在のみでした。そしてヤコブは、今まで知らなかった主を個人的に知ったのです。
ヤコブの初めての礼拝
「ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。」(創世記28:18-19)
信仰的な目覚めを体験したヤコブは、翌朝、初めて自ら主を礼拝しました。彼は、眠っていた自分の信仰が呼び覚まされた場所を、特別な場所と聖別し、記念としました。寝ていた石の枕を石の柱として、油を注ぎ、自分の意思で礼拝を捧げました。そして、その場所をベテル(神の家)と名付けました。「もともとはルズであった」とありますが、ルズは堅い木の実や木材を指す意味があり、特にアーモンドの木という解釈があります。アーモンドの木は、目覚め・見張り・生命力の象徴とされます。正にヤコブは、神と出会い、霊的目覚めを得てその場所を「ベテル(神の家)」と新しくよびました。ヤコブは今まで祖父アブラハムや父イサクと一緒に、幾度となく礼拝を捧げてきましたが、自分と共におられた神を認識したことはなかったのです。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった」と神と新たに出会った体験は、これからのヤコブの人生の旅路において、力となっていきます。私たちにとっての「ベテル」はどこにあるでしょうか。
梯をかける人 ~Bridge Builder~
自分の足りなさや未熟さ、また罪深さを見て、こんな私に目を向ける者はいないのではと考えてしまうことはないでしょうか。しかし、今日心に留めたいことは、神様は私たちを常にご覧になり、その人に分かるようにご自身を示してくださるお方であるということです。神様が私たちのために天からはしごを伸ばしてくださったのが、イエス・キリストです。イエス様はおっしゃいました。
「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。(ヨハネ1:51)
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)
ヤコブの人生の暗闇の只中でかかった「はしご」は、「救いのはしご」でした。神が共におられることを知っている人は、たとえ試練の中で揺らいでも、神様との軸がしっかりしているために、元の位置に戻ることができます。それは私たちの人間の努力や行いによるのでなく、ただ神様の恵みと憐れみによるのです。
使徒パウロはこう言っています。「心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。」(Ⅱコリント1:9-10)
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。(Ⅱコリント12:9)
天と地のはしごになってくださったイエス・キリスト御自身の足跡を私たちも辿って参りましょう。そして私たちも、主の心を心とし、「救いのはしご」をかける者とならせていただこうではありませんか。
「主よ 御許に」 新聖歌510番
作詞:Sarah F. Adams
作曲:Lowell Mason1.主よ 御許(みもと)に 近づかん
昇(のぼ)る道は 十字架に
ありともなど 悲しむべき
主よ 御許に 近づかん2.さすらう間に 日は暮れ
石の上の 仮寝かりねの
夢にもなお 天(あめ)を望み
主よ 御許に 近づかん3.主の使いは み空に
通(かよ)う梯(はし)の 上より
招きぬれば いざ昇りて
主よ 御許に 近づかん4.目覚めてのち 枕の
石を立てて 恵みを
いよよ切に たたえつつぞ
主よ 御許に 近づかん5.現(うつ)し世をば 離れて
天翔(あまがけ)る日 来(きた)らば
いよよ近く 御許に行ゆき
主の御顔を 仰ぎ見ん