創世記29:15-28「労苦の日々の導き手」

2025年8月10日(日) 礼拝メッセージ

聖書 創世記29:15-28
説教 「労苦の日々の導き手」
メッセージ 堀部 舜 牧師

今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神

 15時にラバンはヤコブに言った、「あなたはわたしのおいだからといって、ただでわたしのために働くこともないでしょう。どんな報酬を望みますか、わたしに言ってください」。16さてラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレアといい、妹の名はラケルといった。17レアは目が弱かったが、ラケルは美しくて愛らしかった。18ヤコブはラケルを愛したので、「わたしは、あなたの妹娘ラケルのために七年あなたに仕えましょう」と言った。19ラバンは言った、「彼女を他人にやるよりもあなたにやる方がよい。わたしと一緒にいなさい」。20こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた。

21ヤコブはラバンに言った、「期日が満ちたから、わたしの妻を与えて、妻の所にはいらせてください」。22そこでラバンはその所の人々をみな集めて、ふるまいを設けた。23夕暮となったとき、娘レアをヤコブのもとに連れてきたので、ヤコブは彼女の所にはいった。24ラバンはまた自分のつかえめジルパを娘レアにつかえめとして与えた。25朝になって、見ると、それはレアであったので、ヤコブはラバンに言った、「あなたはどうしてこんな事をわたしにされたのですか。わたしはラケルのために働いたのではありませんか。どうしてあなたはわたしを欺いたのですか」。26ラバンは言った、「妹を姉より先にとつがせる事はわれわれの国ではしません。27まずこの娘のために一週間を過ごしなさい。そうすればあの娘もあなたにあげよう。あなたは、そのため更に七年わたしに仕えなければならない」。28ヤコブはそのとおりにして、その一週間が終ったので、ラバンは娘ラケルをも妻として彼に与えた。

創世記29章15-28

五十嵐健治氏:日本初のドライクリーニングの開発者

今日の聖書の箇所を読んで、日本で最初にドライクリーニングを開発した白洋舎の創業者・五十嵐健治さんを思い出しました。以前にも簡潔にお話ししましたが、「騙され・裏切られた」時に何を感じ、どう祈ったか、彼自身の言葉でご紹介します。

五十嵐健治氏

五十嵐氏が苦労して白洋舎を創業して10年目に、彼の人生で最も辛い出来事の一つ、乗っ取り事件が起こります。当時、社長の五十嵐さんは名古屋支店の立ち上げに奔走し、東京の工場は親戚のKを支配人として任せていました。Kは友人のMを雇いますが、Mは毎日欠勤と遅刻を重ね、忠告にも耳を貸さず、五十嵐さんはついにMの解雇を相談します。するとMは激怒して、他の従業員と画策を始めます。従業員の態度がおかしくなり、仕事をさぼり始めました。ある日、五十嵐さんは、従業員が洋服にわざと焦げ目をつけて、白洋舎の信用を失墜させようとしているところを目撃します。企みがばれると、翌日から大半の従業員が仕事を休みました。支配人のKとMが多くの従業員を誘って、新しいクリーニング屋を開き、顧客リストも預かった洗濯物のリストも経理の帳簿も盗まれました。▼五十嵐さんは、顧客に迷惑かけるばかりか、目をかけていたKや、忍耐して見守っていたMや大勢の従業員に裏切られたこと、会社の信用が失墜いたことに非常に苦しみました。

わたしは、この悪辣な裏切りに、狂わんばかりの苦しみを受けた。怒った。泣いた。喚いた。…全く平静を失った。が、この時、妻のぬいがぽつりと言いました。「あなた、わたしたちは、人には捨てられましたが、神には捨てられませんね」 この妻の言葉に、私は、はっと我に返った。……私は早速、聖書をひらいた。ロマ書の第八章に、〈神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや〉という言葉が目に飛びこんできた。これには力を与えられましたなあ。…

ロマ書の第十二章には、またあの有名な言葉があった。〈愛する者よ自ら復讐すな、ただ神の怒りに任せまつれ。…『…復讐するは我にあり、我これを報いん』…〉 これを読んで泣きましたなあ。泣いて泣いて、自分の口惜し涙は拭われましたな。そして直ちに、私はKやMを始め、向うについた人々のために、真剣に祈った。…祈りは力です。平安が戻ると、つい先程まで何もする気にならなかった私は、立ち上る気になった。…帳簿も何もかも失われて、どこから手をつけてよいかわからぬ建て直しに、その日から私は取りかかることとなった。

は?KやMのために祈って、…そんなに簡単に人をゆるせるのかとおっしゃるのですか? …私は甚だ単純な男ですからな、聖書の御言葉を読んで涙を流し、彼らのために真剣に祈ったのは事実です。裏切られた当座は、奴らが目の前に現れたら…刺しちがえて死んでもよいほどに、憎しみ怒りに荒れ狂ってもいましたがな。

それが、聖書を繰り返し読むうちに、実に思いもよらぬ平安を与えられた。これは確かに事実ですが、人間そうすっぱりと、全くの平安を取り戻すというわけにもいかぬものです。一日二日は、その平安が保たれてはいましたが、ふと何かのことで、またもや心の中に憎しみが頭を擡げてくる。これが人間というものですな。

しかし、裏切られた当座の、怒り狂った時とは方向がちがう。怒るのが当り前だ、とは思わない。赦さねばならぬという心が働く。赦そうとして祈れば、また平安が与えられる。こうして少しずつ、この平安が安定してくるのですな。 …とにもかくにも彼らのために祈りました。祈りつづけました。祈りたくなくても祈った。

…お陰さまで、驚くほど速やかに社業は挽回できました。僅かの従業員で…一致して必死に努力したからでもありましょうが、…以前を上回る大繁昌をきたしたことは、これはもはや私共の力ではなかった。神が力を与えて下さったとしか思えません。

三浦綾子「三浦綾子電子全集 夕あり朝あり」 「挫折」

この裏切った側の店は、まもなく仲間割れし、翌年工場が全焼して閉店に追い込まれます。10年後、五十嵐さんにMから手紙が届きます。Mは細々と洗濯屋を続けていましたが、関東大震災で妻子が焼死したことを、恩を仇で返した罰と思い、五十嵐氏に謝罪する手紙でした。五十嵐氏は、神を恐れ、Mの悔い改めを喜び、彼の祝福と慰めを祈りました。

…あの当時は、…白洋舎は繁栄の一途を辿っていた。…多少私の心の底には、(どんなもんだい)と、誇るものが頭を擡げ始めていた。人間、順調に事が運ばれている時のほうが、思うようにならぬ時よりも、危険なのですな。思うようにいかぬ時は、謙孫であり得るが、意のままになる時は、自分自身の才や努力を誇って、傲慢になる。神はその傲慢を打ち砕かんとして、あの事件に遭わせたのかも知れません。 お陰で創業時の初心に立ち返り、新しい出発をなすことができたのは、感謝なことであったと思っております。

三浦綾子「三浦綾子電子全集 夕あり朝あり」 「挫折」

五十嵐さんは、裏切りに遭いますが、神はその中で彼を守り導き、彼は苦しみの中でこそ謙遜を学び、神により頼むことを学び、より優れた働きのために整えられていきました。[①]

聖書の背景:ヤコブの生涯

今日の聖書の箇所は先週の続きですが、ヤコブの生涯の出来事を振り返っておきます。▼ヤコブは父イサクの双子の弟として生まれました。二人が生まれる前に「兄は弟に仕える」と預言され、ヤコブの名前は「かかとをつかむ」(すなわち、追い抜く者・出し抜く者)という意味でした。▽彼が成長した時、兄のエサウが長男としての権利と祝福を軽んじたので、エサウが狩りから帰った時、ヤコブは食べ物と引き換えに長子の権利を求めて、エサウはヤコブにこれを売りました。▽父イサクが年老いて、兄エサウを祝福しようとした時、ヤコブは目が見えなくなっていた父を騙して、自分はエサウだと偽って父からの祝福を受けました。▽こうして兄エサウの怒りを買ったため、ヤコブは伯父ラバンのもとに妻を迎える旅に出ます。▽先週の礼拝では、一人寂しい野宿の旅の途中で、夢で天に届く梯子の上を御使いが上り下りし、主がその上に現れてヤコブを祝福し、彼の旅路を守り、どこにいても共にいて、やがてその場所に連れ戻すと約束してくださいました。▼今日の場面では、伯父ラバンのもとでのヤコブの日々が描かれます。

求愛の7年

16 さてラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレアといい、妹の名はラケルといった。17レアは目が弱かったが、ラケルは美しくて愛らしかった。

父の家に居場所を失い、孤独な旅を続けたヤコブは、ただ一人頼れる伯父のラバンのもとで、美しいラケルに一目惚れします。伯父のラバンは、おそらくそれに気づいたでしょう。

15 時にラバンはヤコブに言った、「あなたはわたしのおいだからといって、ただでわたしのために働くこともないでしょう。どんな報酬を望みますか、わたしに言ってください」。

自分以外に頼る所のない親戚を慈しむような、一見親切そうなラバンの言葉ですが、「どんな報酬を望みますか」「ただで…働く」という言葉遣いに、利得の計算に基づいて行動するラバンの性質が垣間見られます。この後の20年間のヤコブとラバンのやり取りには、「報酬」をめぐって熾烈な駆け引きが続きます。ラバンはすでに損得計算を始めています。ラバンは、ヤコブを自分のもとに引き留めるために、取り引きを持ち掛けます。

18  ヤコブはラケルを愛したので、「わたしは、あなたの妹娘ラケルのために七年あなたに仕えましょう」と言った。

当時の習慣で、結婚する男性は花嫁料を支払いました。家族と離れて資産を持たないヤコブは、自分の労働によって花嫁料を支払うことを申し出ます。当時の花嫁料として、7年間の労働は非常に高額でした。ヤコブのラケルへの愛情と、ラバンへの感謝が表れています。

こうしてヤコブはラケルのために、ラバンのもとで7年間働きました。

20 こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた。

ヤコブが旅に出る前、母リベカは、兄エサウの怒りが収まるまで「しばらく」ラバンのもとに留まるようヤコブに勧めました。「しばらく」とは直訳すると「何日か」です。ヤコブが愛するリベカと結婚するために労した最初の7年は、まさに「ただ数日のよう」でした。しかし、ずる賢いラバンの計略によって、ヤコブは予期せぬ事態に巻き込まれます。

結婚式のたくらみ

ヤコブは、身寄りのない外国の生活の中で、美しいリベカの愛に支えられて、結婚の日を心待ちにしていました。▼新約聖書のイエス様の両親マリアとヨセフもそうでしたが、ユダヤの結婚のしきたりは、婚約を重んじます。婚約は、結婚に準じる公の関係でした。▽21節でヤコブはラバンに「わたしの妻を与えて…ください」と言いますが、ヤコブはラケルを「」と呼ぶような婚約関係にあったと思われます。

ラバンは、結婚の習わしに従って、地域の人々を皆集めて、盛大な祝宴を開きます。それはラバンが娘に与えた大きな祝福でした。彼が花嫁に与えた女奴隷は、持参金にあたる高価な贈り物で、娘に対するラバンの愛情が表れています。

しかし、多くの人々が見守る、引き返しのつかない状況で、ラバンは信じられない企みを実行します。

23 夕暮となったとき、娘レアをヤコブのもとに連れてきたので、ヤコブは彼女の所にはいった。…25朝になって、見ると、それはレアであった…

結婚の相手をすり替える――もしこれが自分の家族のこととして想像すると、理解のできないとんでもないことです。簡潔な記述で詳細は分かりませんが、よく考えると、いろいろな疑問が湧いてきます。

ヤコブはレアであることに気付かなかったのでしょうか。花嫁はベールで顔を覆っていたので、気付きにくかったでしょう。祝宴の酒で泥酔させられていたかもしれません。

レアもレアで、自分はラケルではないと告げなかったのでしょうか。こんな形の結婚で幸せな家庭生活を送ることができるでしょうか。レアもラバンに騙されたのでしょうか。ラバンに言われ、疑問を持ちつつ、何も言わなかったのでしょうか。詳細は分かりませんが、レアもラバンに欺かれ、利用され、違和感を抱いても何も言わなかったのかもしれません[②]

ラバンの行動は、非常にいびつでした。ラバンが娘を大切にしていたのは、盛大な結婚式や贈り物からも事実でしょう。しかし、愛し合うヤコブとラケルの間に送り込まれたレアは幸せでしょうか。あまり美しくない年上のレアを先に結婚させたかったのでしょうか。そうだとしても、ヤコブに隠して騙して結婚させる必要はありません。ラバンは、ヤコブの働きぶりを見て、彼を自分のもとで長く働かせて金儲けをすることが、娘の幸せ以上に大切でした。▽ラバンは、ヤコブに与えられた神の約束を聞き、ヤコブの働きぶりを見て、神が彼と共におられて祝福しておられるのを知って、非常に利己的な形でしたが、娘の幸せを願って、二人ともヤコブに嫁がせたのでしょうか。

推測するほかありませんが、簡潔な記述の背後に、複雑な思惑がからみあっています。

騙されるヤコブ

25 朝になって、見ると、それはレアであったので、ヤコブはラバンに言った、「あなたはどうしてこんな事をわたしにされたのですか。わたしはラケルのために働いたのではありませんか。どうしてあなたはわたしを欺いたのですか」。

「何ということをしたのですか」と驚き怒るヤコブに、ラバンは冷たく言い放ちます。

26 ラバンは言った、「妹を姉より先にとつがせる事はわれわれの国ではしません。27まずこの娘のために一週間を過ごしなさい。そうすればあの娘もあなたにあげよう。あなたは、そのため更に七年わたしに仕えなければならない」。

父の家を離れて外国に来たヤコブには、伯父に抵抗する方法がありません。ラバンはヤコブの足もとを見ています。ヤコブは、7年間労苦を惜しまず仕えてきた伯父に騙されます。ラケルと結婚して、晴れて父の家に帰ろうという願いは打ち砕かれました。

ここに一つの皮肉があります。ヤコブは純粋な被害者でしょうか。ヤコブの物語には伏線があります。ヤコブはかつて、父イサクが兄エサウを祝福しようとした時、父を騙して祝福を受け、兄エサウを出し抜きました。その時はヤコブが騙す側でしたが、今は逆にヤコブが騙されました。▽「妹を姉より先にとつがせる」と言ったラバンの言葉は、直訳すると「若い者より先に長子を…」です。この言葉は「兄が弟(=若い者)に仕える」と言われ、エサウの「長子の権利」を要求したヤコブ自身の歩みに重なります。

ヤコブは、生まれる前に「兄が弟に仕える」と預言されました。ヤコブは、エサウが長子の権利を軽んじるのを見て、自分が長子の権利を得るのだと確信したかもしれません。長子の権利を売るように要求しただけでなく、母の勧めに従ったこととはいえ、目の見えない父を騙し、兄を出し抜いて、父の祝福を受けました。いわば、自分の知恵と判断によって神の祝福を追い求めたのでした。▼しかし、今日のエピソードでは、ヤコブは、さらにずる賢いラバンによって出し抜かれ、かつてヤコブがしたことは、ラバンによって彼自身の上に戻ってきます。▼神は、確かにヤコブに祝福を約束されました。しかし神は、選ばれた人ヤコブが、人を騙して・押しのけるやり方で、自分の知恵と力によって祝福を奪い取ることを許さず、彼がしたことを彼の上に帰されました。ヤコブの計画は失敗します。しかし、それらすべての中でも、主はヤコブと共におられ、彼を守り、主ご自身の計画と祝福の約束をなしていかれます。

沈黙と忍耐の日々

28 ヤコブはそのとおりにして、その一週間が終ったので、ラバンは娘ラケルをも妻として彼に与えた。

ヤコブが待ち望んでいた結婚の日は、必ずしも平穏で幸せな日々ではありませんでした。▼信頼していたラバンに裏切られ、彼のもとで働き続けなければならない屈辱。昼も夜もラバンの家畜の群れを飼い、その仕事は「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできません」でした[③]。家に帰れば、ヤコブが愛するラケルと、そうではないレアの間に深い溝があり、多くの子を産んだレアと子がなかなか生まれなかったラケルが「激しい争い」がありました。▼ヤコブにとって、それは混乱と忍耐の年月であり、沈黙と忍耐に身を沈めた年月であり、謙遜を通して神を知る年月でした。己の知恵に頼って生きてきたヤコブが、ただ神にのみ信頼を置いて、神を待ち望むことを学んだ年月でした。

【適用】 神に選ばれた人が、神に用いられるようになるために、誰もがここを通らなければなりません。人は誰でも自分がしたいようにしたいものですが、自分ではなく神の御心に従う者となるために、自分の意志ではなく、他人の意志に従わなければならない状況に、神様によって置かれることがあります。私たちの影響力が大きくなればなるほど、自分を捨てて神に従うことが、より厳しく求められるようになります。神に用いられたいと願う人は誰でも、自分を捨てて神に従わなければならず、私たちにとってそれは痛みを伴うものです。

マザー・テレサ:屈辱を謙遜の機会に

マザー・テレサは、私たちが受ける屈辱、非難や誤解を、謙遜を学ぶ機会とするように教えています。

屈辱がきたとき、その機会を逃さない習慣ができたら、どんなにすばらしいことでしょう。たとえば、あなたがしなかったことで非難された場合、自然に否定の言葉が上がってきて答え返すでしょう。その代わりに一瞬待ってください。もし、相手の言ったことが正し…ければ、…「ごめんなさい。これから気をつけます」と言います。もし真実でなかったなら、…皆さん、チャンスを逃さないでください。それは素晴らしい屈辱であり、その屈辱はあなたを謙虚…にします。…こうした小さな屈辱がやってくるとき、それらをつかみなさい。謙虚な〔者〕であることの喜びを体験しなければなりません。[④]

マザー・テレサ「愛のあるところ、神はそこにおられる」P235-236

マザーは、自身の立場のために、多くの屈辱を受けましたが、それを謙遜を学ぶための「美しいチャンス」と考えました。ある男がマザーの活動をののしり、マザーを偽善者と呼び、人を間違った道に導いていると言って、新聞に多くのひどいことを書いたそうです。多くの人が彼に抗議しました。マザーは彼に返事を書き、彼が自分を苦しめていることをかわいそうだと思っていると伝え、神の愛によって彼を赦し、彼女たちの働きを見に来るようにと招きました。しかし、彼はさらに怒り、多くのことを新聞に書きたてました。「皆さん、おわかりですか、受け入れなければなりません。…あなたがたも叱られる時、赦してあげなさい。」

わたしたちは日々の生活の中で、他の多くのチャンスがあります。『大きなほほえみをもって神が与えられることを受け入れ、神が取られることをささげなさい。』この言葉を心に留めてください。それが聖性です。彼らがあなたがたをたたえるなら、それを受け入れなさい。神が与えられるすべてのもの、称賛も非難も大丈夫です。どんな非難も失敗も称賛も神からわたしを引き離すことはできないでしょう。『彼のものになる』ことをあなたがたが理解しさえすれば!『わたしにはそんな価値はありません』などと言わないでください。言えば言うほど、自分たちに注目を引き寄せ、さらに傲慢になります。

わたしたちに清い心、謙遜な心さえあれば、イエスに近づく最も美しい道があります。…謙遜は最も必要な徳です。私たちに与えられた仕事は聖であり、現実的な者です。主の仕事を果たすためには、謙遜を必要とします。[⑤]

マザー・テレサ「愛のあるところ、神はそこにおられる」P239-241

【適用】 私たちが屈辱を感じることがあるでしょうか。悔しいこと、納得できないこと、一言 言いたいこと、思いの丈をぶちまけたいことがあるでしょうか。その事柄こそ、私たちが謙遜と忍耐を学ぶ機会にすることができます。そのようにしてこそ、私たちはイエス・キリストに似ることができ、イエス・キリストがくださる救いを頂く神の子にふさわしい者へと造り変えられます。

マタイ11:29「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」

そのような柔和さ・謙遜こそ、多くの人々の思惑や冷たい言葉が飛び交うこの世にあって、絶えず恵みに波長を合わせて、神との交わりの中を歩み続けることができる秘訣です。

マザー・テレサが「ビジネスカード」に書いていた言葉があるそうです。

「沈黙の実りは祈り、
 祈りの実りは信仰、
 信仰の実りは 愛 、
 愛 の実りは奉仕、
 奉仕の実りは平和。」[⑥]

マザー・テレサ「愛のあるところ、神はそこにおられる」P17-18

神の祝福とは、自分の知恵や努力や能力によって勝ち取るものではありません。何かをしたら、条件を満たしたら、機械的に与えられるものでは決してありません。聖書の神は、常に人格的な神です。そこには、人と神の間の人格的な交わりがあります。神の語りかけと私たちの祈りによる人格的な交わり――神が共におられ、祈りを聞いて下さり、導いて下さるという信頼と確信があるはずです。そして、真の祈りは、沈黙のないところにはありません。神の前に出て静まり、神を待ち望む沈黙の内にこそ、真の祈りと交わりがあります。

ヤコブは、苦しみと忍耐、沈黙と服従の年月を通して、神の前での謙遜を学びました。そして、神を知る者とされました。ラバンの計略によって妻となったレアでしたが、イスラエルの12部族のうち8部族までが、彼女とその女奴隷によって生まれます。ここにも、人間のはかりごとを越えた神の知恵と計画があります。▼ヤコブはやがて20年の労苦の時を越えて、ラバンのもとを発ち、故郷へ戻っていきます。兄エサウに会う前の夜、夜の闇のうちに神と格闘し、己に打ち勝ち、神の祝福を頂いて勝利者・神の王子「イスラエル」の名前を頂きます。やがてヨセフを通してエジプト王の前に立ち、王を祝福する者となりました。

ヤコブ/イスラエルの最晩年に、床の上でヨセフの子らを祝福した時、彼はこう祈りました。「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神(他の訳では、「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ」)」(48:15)」羊飼いであったヤコブは、生涯の最後の日まで、「ずっと私の羊飼いであられた神よ」と祈りました。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、…わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。(28:15)」と言われた方は、約束の通りにヤコブを生涯の最後まで導きました。ヤコブが羊飼いとして、羊を昼も夜も導き、養い、守ったように、主は砂を噛むような苦難と沈黙と忍耐の年月にも、ヤコブを導き、養い、守り通されました。▼ヤコブ自身の知恵とはかりごとは破れていきますが、それを越えて、神ご自身の選びの計画と恵みの御業が実現していきました。▽私たちも、神の約束は、自分の知恵や力によって実現することはできません。約束の実現についてはただ主ご自身の知恵と力とご計画に委ね、主の導きに忠実に従いつつ、信頼して歩んでいくのです。その柔和と謙遜において、主は私たちをキリストに似た者とし、キリストの形を私たちの内に形作っていって下さいます。▼私たちを愛し、世界の始まる前からキリストにあって私たちを選び、あらゆる祝福をもって祝福して下さった神ご自身に希望を置いて、苦難の日にも私の羊飼いであられる主に信頼して、沈黙と謙遜と祈りをもって、主に従って一歩一歩歩んでまいりましょう。

【祈り】 私たちの羊飼いであられる神様。私たちの計画が倒れ、人びとのはかりごとと侮辱によって圧倒される時、私たちをキリストの柔和と謙遜のくびきの下に捕えて下さい。己の知恵と力に頼らず、あなたに信頼する私たちを、あなたの計画と祝福の内に守り導いてください。そして、あなたが備えて下さる神の子の祝福を受け継ぐ者にふさわしく、私たちを練り整えて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 


[①] 三浦綾子「三浦綾子電子全集 夕あり朝あり」 「挫折」

[②] 創世記31:15参照「あの人(ラバン)は私たち(レアとラケル)を売り、しかもその代金を食いつぶした…」

[③] 創世記31:37-42

[④] マザー・テレサ「愛のあるところ、神はそこにおられる」ブライアン・コロディエチュックMC編、P235-236

[⑤] マザー・テレサ、同書、P239-241

[⑥] マザー・テレサ、同書、P17-18