創世記32:22-31「ヤコブからイスラエルへ」
2025年8月17日(日) 礼拝メッセージ
聖書 創世記32:22-31
説教 「ヤコブからイスラエルへ」
メッセージ 堀部 里子 牧師

あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
創世記32:24-28
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。
ルカ22:42,45-46
おはようございます。八月も半ばを過ぎました。夏の風物詩である甲子園での高校野球が熱戦を繰り広げています。私の出身地である沖縄尚学が勝ち進んで喜んでいますが、負けたチームもそこから何かを掴み取り、次へ繋げていって欲しいものです。
競技には勝ち負けがつきものです。今日は聖書の中でも神の使いと格闘したヤコブの話です。格闘前と格闘後のヤコブは明らかに違いました。聖書の中で、直接的に神の使いと格闘をした人物はヤコブだけです。人は、自分で自分の欠点や悪習慣などを変えることは難しいですが、この格闘を通して、ヤコブがどのように変えられたのかを共に見たいと思います。
ヤコブのこれまでの歩み
伯父ラバンの下で20年間働き、結婚をし、子どもも与えられたヤコブは様々な試練を通らされました。そして遂に、家族と共に故郷へと向かいます。20年ぶりに故郷を訪れることは嬉しかったと思いますが、ヤコブの心にはひっかかることがありました。
ヤコブの心に引っかかっていたこと
それは、兄エサウとの確執でした。エサウから長子の権利と祝福を奪い取ったので、殺意を抱かれてしまい、事実上逃亡していたからです。故郷に帰るということは、兄エサウとの問題に向き合わなければならないことでもありました。
皆さんは未解決の問題に取り組むとき、どのような心構えで臨むでしょうか。ヤコブは兄の住むエドムに前もって使いを送り、状況を探らせました。すると「使者はヤコブのもとに帰って言った、「わたしたちはあなたの兄エサウのもとへ行きました。彼もまたあなたを迎えようと四百人を率いてきます」(創世記32:6)との報告を耳にします。すると「そこでヤコブは大いに恐れ、苦しみ、共にいる民および羊、牛、らくだを二つの組に分けて」(創世記32:7)とあります。つまりヤコブは、エサウがヤコブの一族を迎え撃ちに向かっていると勘違いしたのです。
戦略を立てるヤコブ
それでヤコブは戦略として人や家畜を二つの組に分けました。また兄への贈り物を四つの群れに分けてしもべたちに任せます。作戦を立てた後、ヤコブは恐れのあまり、神に祈り叫びます。
「…どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。」(創世記32:11)
杖一本で故郷を出発し、「兄との関係」という問題が解決されないまま20年の月日が経っていました。家族も財産も与えられ表面上は、満たされた生活でしたが、ヤコブの心には兄との問題と真正面から向き合う時が来たのです。兄エサウへの贈り物を選び、贈る順番も決め、しもべたちにはエサウと会った時に言う言葉までも指示しました。
平安を得る主の下で
手を尽くして兄との再会に備えましたが、ヤコブは夜になっても全く眠りにつけません。神様の守りを確信できないと、自分で自分を守るしか方法はありません。また神様の守りと恵みは、私たちの努力で得るものではありません。恐れで心がいっぱいになったまま、自分で乗り越えようとあがくなら、サタンの策略にはまる可能性が大きくなります。ではどうしたらよいのでしょうか。神様に降参するのです。神への降参は、決して諦めではなく、信頼と委ねることなのです。信仰が試されていることを覚えて、神を信じ、恐れに打ち勝ちたいと思います。イエス様はおっしゃいました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)

ヤコブの格闘
「彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。」(創世記32:22-23)
恐れと不安で眠れないヤコブは、真夜中に家族を起こし、先にヨルダン川を渡らせました。普通は夜間の移動はしないですし、あえて夜に渡しを渡るなどもしません。自分が眠れないからといってそこまでするのか?とも思いますが、ヤコブなりの身辺整理をして神様に向き合い、一人で祈りたかったのでしょうか。家族も持ち物も全てを先に送り、ひとり残ったヤコブに特別な出来事が起こりました。
真夜中の訪問者
「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。」(創世記32:24-25)
真夜中にやってきた人は一体誰なのでしょうか。またわざわざヤコブのところに来た目的は何だったのでしょうか。「ある人」はヤコブと格闘をします。不安と恐れで眠れなかったヤコブは、真夜中の侵入者と格闘をすると、もはや悶々と考え込む余裕はありませんでした。格闘している内に、ヤコブにはこの相手が只者ではない、きっと神様から遣わされた方かもしれないと分かったのでしょう。ヤコブは祝福を求めます。
「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」(創世記32:26)祝福を受けるまで離さないというヤコブの執念からは凄い気迫を感じます。
ヤコブへの新たな祝福
家畜も財産も家族も先に川を渡らせたヤコブは、再び何も持たない弱いヤコブでした。一人で夜を過ごしながら、元々は自分が神の助け無しには生きられない弱い者なのだということを悟ったのではないでしょうか。「ある人」と格闘をし、ももの関節を外されました。足を引きずらなければ歩けないようになってしまいます。
ヤコブの人生は、自分が願うものを、時間をかけてでも次々と手に入れて来た人生でした。それも、ずる賢い方法で家族を騙して自分のものにしていました。ヤコブは、「ある人」と格闘をして、ももの関節を外されて気付いたのではないでしょうか。「神様からの祝福は、自分の計画や自分の力で手に入れるものではない」ということを。「神の祝福は神が与えるのだ」と。
世の中で生きて与えられる祝福、つまりお金や名誉、成功などは人間の努力や熱心さである程度、得られるものです。でもそれらは永遠に続きません。一方で神が与える祝福は、永遠に続くものなのです。その一つが神の子とされることです。ヤコブは持っているものを自分の目の前から見えなくなって初めて、祝福を求めました。恐れと不安の再骨頂で、祝福を求めたのです。
新しい名前と共に~ヤコブからイスラエルへ~
「その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。」(創世記32:27-28)
ヤコブは「イスラエル」という新しい名前をもらいました。それは祝福を表す名前でした。「奪い取る者、かかとをつかむ者」という名前から、「神は争われる、神が支配してくださる、神の王子」という名前が与えられました。名前だけでなく、ヤコブに新しいアイデンティティーが与えられた瞬間です。
私の周りの氏名変更
昔、私の幼馴染のお兄さんが、名前を変えました。友人によると自ら名前の変更希望を親に申し出て、正式に手続きをしたのだそうです。名前を変える苦労以上に、友人のお兄さんの新しい名前で生きていきたいという希望を感じます。当時、小学生の私は、自分も名前を変えたいと思い、自分で「さとびー」と呼び始めました。両親のことも「おとびー、おかびー」と呼び、弟たちの名前にも「びー」を付けました。家族内でこの呼び方はブームになりました(そう思っていました)。ブームが去ると元に戻りましたが、少なくとも新しい名前は私に新しいワクワク感を与えてくれていました。
負けたのに勝った
「名は体を表す」と言われますが、ヤコブは自分で自分を支配してつかみ取ってきた人生から、神が争い、神が支配する王子という人間に変えられたのでした。ヤコブと格闘をした人「ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした」(創世記32:24)の「ひとりの人」は単数形ですが、「あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」(創世記32:28)と言われている「人」は複数形になっています。複数形は一体誰なのかと考えるとき、ヤコブが自分の弱さを克服するために自分自身と戦い、和解をしなければならない自分の中にいる相手と戦うのではないかと思わされます。ヤコブは知らないうちに、神の使いと格闘して、ヤコブがももの関節を打たれて負けたのですが、神の使いは「あなたは勝った」と宣言してくれました。「神の祝福を切願する者に神はあえて負けてくださる」と私の恩師はおっしゃったことを思い出します。
ペヌエルを経て
新しく名前をもらったヤコブは、神と格闘した場所に名前を「ペヌエル」とつけました。「神の顔」という意味があります。「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」(創世記32:30)とヤコブ自身が言っています。
「こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえにびっこを引いていた。」(創世記32:31)
「太陽が上に昇った」とは、夜の闇が過ぎ、新しい日々がヤコブに訪れたことを象徴しています。ヤコブは夜通し戦ってももを痛めましたが、新しい将来が約束されたのです。ヤコブが兄エサウに会う前に、神様はヤコブに臨んでくださいました。
足を引きずって故郷を目指すヤコブのように、私たちは祝福を得るには無力であることを神の前に自覚したいと思います。すべての祝福と救いは、戦って勝ち得るのでなく、負けても与えられる恵みであります。
ヤコブは兄エサウの顔を恐れて、作戦を立てた夜を過ごしましたが、神様がヤコブの孤独の戦いに参戦してくださり、勝利してくださいました。恐れと不安の中にあったヤコブは、神様の顔を拝しました。この世では敗北者であっても、神様は私たちを新しい存在へと内実共に造り変えてくださる方です。私たちの名前は、キリストによって新しくされた〇〇〇(自分の名前)です、と勝利された主イエス・キリストの名を拝して参りましょう。
キリストの祈りの格闘
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(ルカ22:42)
最後に、イエス様の祈りに心を傾けたいと思います。十字架に架けられる前、イエス様は独りでゲツセマネの園で祈りの格闘をされました。苦しみもだえ、汗が血のしずくのように地に落ちるほど祈りに打ちこまれたのです。イエス様にはヤコブのように、自分自身の過去の未解決の問題と向き合うのではなく、すべての人の未解決の問題と向き合うための祈りの格闘でした。父なる神の前にぬかずき、すべてを委ねられました。
私たちはどのような格闘をしているでしょうか。敵は一体誰でしょうか。何のために戦っているのでしょうか。祈りの武器を取り、信仰の戦いを立派に戦い抜きたいと思います。新しい一週間の祝福を祈ります。
「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」(Ⅰテモテ6:12)

みこころが成るようにしてください.