「御国の食卓」ルカ福音書12章32-40節 2022年8月7日
2022年8月7日(日) 礼拝メッセージ
聖書 ルカによる福音書 12章32~40節
説教 「私たちの宝」
メッセージ 堀部 舜 牧師
32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。33自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。34 あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。
35 腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。36 主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。37 主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。38 主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。39 このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。40 あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。 (ルカ12:32-40)
私たち牧師夫妻が沖縄訪問から帰って1週間が経ちましたが、本当に素晴らしい時でしたので、1週間、余韻に浸っておりました。沖縄の義父母とはビデオ通話などでは何度も話ししていましたが、対面では初めて会うことができました。コロナのために、約1年半会うことが出来ず、待ちに待って、会うことができました。ビデオ通話は非常に便利でしたが、顔と顔を合わせてお会いし、一緒に食事をして笑い合うことが、こんなにも心の通い合うことなのかと、これまでになく深く実感しました。新しい家族との、本当に楽しい食卓の交わりでした。
今日の聖書箇所に、主イエスがやがて再び来られる時の祝宴(「御国の食卓」)が描かれています。この祝宴は、しばしば結婚披露宴にもたとえられます。
今回の私たちの沖縄の家族との食卓を通して、主イエスの祝宴の豊かなイメージが湧いてきました。そこには、結婚を通して結ばれた新しい家族との心の通い合う交わりの喜びがあります。長い間待ち続けて、ようやく顔と顔を合わせて会うことができた喜びが溢れています。結婚の祝いのために、特別な祝い膳がふるまわれます。そして、御国の主人である神様ご自身が、心を込めてもてなしてくださいます。
地上の結婚の披露宴が喜びで満ちているなら、やがて来る天の御国の食卓は、どんなに喜びに満ちているでしょうか。
今日の聖書箇所は、やがて現れる天の御国を待ち望みながら、今ある場所で忠実に生きることを教えています。
■【1.天に宝を積む】
今日の聖句の前の箇所から、主イエスは財産のことを言っておられます。この社会で生きるために財産は必要なものです。経済的な不安や心配は、誰でも経験があると思います。しかし、主イエスは、ご自分を信じる弟子に対して「恐れるな」と言われます。「32恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。
「小さな群れ」という言葉は、聖書では羊の群れを連想させます。羊は、荒野で絶えず野獣に狙われ、道に迷いやすく、羊飼いなしには生きていけない弱い存在です。この世に生きるクリスチャンも、荒野の羊のような弱く小さな存在です。しかし、主が羊飼いのように彼らを守り、養い、導いてくださるので、恐れる必要はありません。 ▼また、神様は、優しい父親が子に良い物を与えるように、主イエスを信じる者に天の御国をくださいます。 ▽「父のみこころ」とは、神の意志を表します。主イエスの命をも惜しまずに与えてくださった神は、御国をも喜んで与えてくださいます。
御国とは、神の支配を意味します。御国はすでに地上に到来し始めていますが、ここでは、神様の支配が完全に現れる主イエスの再臨後を指します。 ▽このような未来の約束は、キリスト教の背景を持たない方には、現実味が感じにくいだろうと思います。 しかし、聖書は、信仰者の内に宿る聖霊が、御国の保証だと言います[①]。聖霊ご自身が私たちの内に住み、「32恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」と語り掛けてくださいます。
この御声を個人的に聞くことが、どれほど大切なことでしょうか。
【信仰によって近づく】 先日お会いしたある友人から、クリスチャン家庭で育ったけれど、神様との人格的な関係を知らなくて辛いと聞きました。彼は、神様と出会うことを心から願い、待ち望んでおられました。私は、彼のために何が助けになるのか、とても考えさせられました。
最も大切なことは、私たちの救いのため・神様との通常の交わりのためには、神様の側ではいつでも用意ができているということです。私たちが信仰をもって近づくなら、いつでも語りかけておられます。神様との関係を求めている時期には、神様がなかなか語りかけてくださらない、と感じるかもしれません。それは、神様の側の問題ではなく、私たちの側の問題だと思います。救いとは、神の側では全て条件が整っているので、ただ私たちが信仰をもって近づくかどうかにかかっているのです。 主イエスへの信仰によって近づくなら、神は誰にでも、直ちに、語りかけ、ご臨在を現わしてくださる、と信じているでしょうか。信仰さえあれば、神はいつでも私たちに、語りかけ、導いて下さいます。ですから、信仰を持つことが大切なのです。主は必ず祈りに答えてくださると信じるのです。それは、私たちがなすべきことです。
「32恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。主は羊飼いのように絶えず導き、優しい父親のように、良いものを惜しみなく与えようとしておられます。世の荒波の中を歩む中で、この御声を聞き続けてまいりましょう。
◇天に宝を積む
この天の御国の約束に基づいて、主イエスは戒めを与えます。
「33自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。34あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」
神様が主イエスをくださり、天の御国もくださるのだから、私たちは神様ご自身に心を定めるべきです。約束の保証として聖霊が与えられていますから、確信をもって従うべきです。
聖書は「金銭を愛することは、すべての悪の根である」と教えます[②]。自分や家族の生活のために、また将来に備えてお金を貯えることは必要なことです。他人に迷惑をかけないようにすることが、私たちの義務であるとも言えます。 しかし、自分の富を誇り始めたら、すでに神から離れて、富に仕えていることになります。また、神様に信頼するのではなく、金銭があることに信頼しているとしたら、神様との関係をもう一度吟味し直す必要があります。
箴言に「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる」(19:17)とあります。人々に分け与える人は、自分の財産にではなく、神様からの供給にひたすら頼るようになります。それが、地上でも霊的な祝福を受ける助けになり、神様との関係を守る助けになります。金銭のことで主に信頼することは、主の力と配慮を知る機会になります。
「33 ……自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。34あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」
主は、私たちが御国の約束を信じて、安心して主に仕え、人々に惜しみなく分け与えるようにと、勧めておられます。
■【2.主人の帰りを待ち望む】
主イエスは続けて、婚礼から帰った主人を迎えるしもべたちのたとえを話されます。このたとえも、主イエスの再臨に備えているように、教えています。
中東のゆったりとした着物は、仕事の時には帯を締めて動きやすくしました。また、夜に出迎えるためには灯火が必要です。しもべたちが、真夜中に帰ってくる主人を出迎える準備をしていたように、私たちも主イエスの再臨に備えているようにと言われます。
「待っている」という言葉は、「(いつでも出迎えられるように)準備をして、待ち構えている」というニュアンスがあります。 ▽ユダヤの結婚の祝いは、何日も続いていつ終わるのか分からないそうです。主人の帰りを待ち構えて準備していたしもべだけが、不意に戻って来て、そっと戸をたたく主人を出迎えることができます[i]。
【適用】 私たちは主の再臨をどのように待っているでしょうか。「天に宝を積む」ことは、大切な心構えの一つです。いつ主が来られても恥ずかしくない生き方をしているでしょうか。
【例話:貧しい馬車乗り】 韓国で昔、敬虔な貧しい馬車乗りが、主人に主イエスを伝えて、「イエス様を信じてください」と言いました。すると主人は、あきれた顔で皮肉を言いました。「イエスを熱心に信じたら、誰かがお前を貴族にしてくれるのか。」 すると、貧しい馬車乗りは答えました。「ご主人さま、主イエスを信じるとは、そういうものではありません。私が主イエスを熱心に信じれば信じるほど、私は馬車乗りとしてもっとしっかり働かなければなりません」[③]。
「主イエスを信じたら、どんないいことがあるのか」「貴族にしてもらえるのか」――そんな声が、私たちの心の耳に聞こえてくるかもしれません。しかし、主イエスを信じたからこそ、与えられた務めをしっかりと果たすのが、目を覚まして主人の帰りを待つ忠実なしもべの姿です。私たちが与えられている役割を、家庭で、職場で、地域で、教会で、忠実に果たしていくことによって、神様の御名が崇められます。
◇しもべに給仕する主人
そのような、主人の帰りを待ち構えているしもべたちは、「幸い」だと主は言われます。――やがて「幸いになる」のではなく、今「幸い」なのです。
主人の帰りを出迎えたしもべたちは、逆に主人から食事のもてなしを受けました。ここに、大逆転が起こっています。
【背景】 多くの使用人がいる裕福な家庭には、家族、使用人、奴隷など、様々な身分があり、その区別は強固でした。最も身分の高いのが家の主人で、最も低いのがしもべ(奴隷)です。食事の世話(給仕)は、最も身分の低い奴隷の仕事でした。しかし、主イエスのたとえでは、奴隷が食卓に着き、主人は召使に給仕を命じるのではなく、自ら奴隷のように給仕をしています。 中東文化に詳しいある注解者は、「あり得ない光景だ」と言います[④]。
最後の晩餐で主イエスが弟子の足を洗って給仕されたように、再臨後の御国の食卓でも主ご自身がしもべたちに給仕しておられます。 主イエスは2000年前に来られた時、ご自分の命を私たちのために下さいました。やがて栄光をもって再び地上に来られる時、私たちにご自身のすべてを与え、ご自身の食卓でもてなして下さいます。
今日も聖餐式が持たれます。聖餐は、2000年前の主の十字架と復活を記念する食卓です。同時に、聖餐は、やがて来る再臨の時、栄光の主ご自身がもてなしてくださる御国の食卓の先取りでもあります。
【例:沖縄での家族の食卓】 先日の私たち夫妻の沖縄訪問の時の、実家での楽しい食事と重なり合いました。そこには、①長い間待ち望んでいた顔と顔を合わせた出会いがあり、②結婚のお祝いの祝い膳がふるまわれます。御国の食卓は、キリストと教会の結婚披露宴に例えられます。 ③新しい家族となった喜びと、分け隔てない親しい交わりがあります。④笑いがあり、讃美と喜びがあります。 御国の食卓は、どんなにか喜びに満ちた祝いになるでしょうか。
私たちは主イエスの十字架によって罪を赦され、主イエスと共によみがえりました。私たちは、主イエスのしもべとして、ただただ愛と感謝と讃美をもって仕えるほかない者です。しかし、そのような私たちを、主ご自身が食卓に招き、主ご自身が給仕してくださるのだと、今日の聖句は教えています。
主イエスは言われます。「37 主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。」「38 主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである」。
■【まとめ】
◇再臨を期待して待っていること
主イエスは、主人の帰りを夜も昼も待ち構えている忠実なしもべのように、私たちが主の再臨に備え、待ち構えていることを願っておられます。花嫁が花婿が来るのを待つように、愛をもって待っていることを願われます。
◇約束に信頼して、安心して待つこと
聖霊は、「恐れることはない」、「父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださる」と約束しておられます。そして主が来られるならば、喜びの宴会が開かれて、主ご自身が私たちをもてなしてくださると約束しておられます。
聖霊ご自身がその約束の保証です。聖霊は私たちに絶えず語りかけ、約束を確証してくださいます。
◇再臨に備え、忠実に歩むこと
必要以上の富を増し加えず、人々に分け与えることは、主に信頼して天に宝を置くことです。それは、神様ご自身を宝としている人のしるしです。
主イエスの再臨を待ち望む人は、自分が置かれた場所で委ねられた役割を怠らず、家庭で教会で職場で地域で、忠実に仕える人です。
「35腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。36主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。38主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。」
[①] エペソ1:14
[②] 1テモテ6:10
[③] リビングライフ
[④] ケネス・ベイリー「中東文化の目で見たイエス」
[i] ケネス・ベイリー「中東文化の目で見たイエス」は、婚礼が終わって帰ってきたのではなく、婚礼を「中座」して帰ってきたという意味にとるのが良いとする。また、中東文化に詳しいベイリーは、中東で夜中に家の戸を叩くのは異国人だけで、通常主人は戸を叩くのではなく呼びかけるという。主人が声をあげて呼びかけずに、異国人のように戸をたたいたのは、婚礼の席から抜け出してきたことが皆に知れ渡るのを避けるためだと推測する。しもべ(奴隷)たちに食事をふるまうために、主人自らが、婚礼の宴席を抜け出してくることに、ベイリーは受肉の神秘を見ている。
参考:
・Bock, Darrell L., Luke 1:1-9:50, Baker Exegetical Commentary on the New Testament, 1994.
・Joel B. Green, The Gospel of Luke, New International Commentary on the New Testament, 1997.
・I. Howard Marshall, The Gospelof Luke, New International Greek Testament Commentary, 1978.
・Robert H. Stein, Luke, New American Commentary, 1993.
・Leon Morris, Luke, Tyndale New Testament Commentaries, 2007.
・ケネス・ベイリー「中東文化の目で見たイエス」
注: 使用聖書について:当教会の礼拝では、新改訳聖書2017を使用しています。本サイト上では、著作権に配慮して、口語訳聖書(1954/1955年版)を中心に使用しています。