Ⅰコリント3:1-9「大事なのは…」

2023年2月12日(日) 公現後第5主日礼拝 メッセージ

聖書 Ⅰコリント3:1-9,申命記30:15-20
説教 「大事なのは…」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」

(Ⅰコリント3:6-9)

「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。…わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。

申命記30:15-16、19

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」(緑の小麦畑, www.publicdomainpictures.netより)

【私の召命の御言葉】

 先日、Sさんに「里子先生がどうしてコイノニアに来ることを決めたのかの証しを聞きたい」と言われました。

 私は、コイノニアへ来る話を最初に聞いた時、私が当時置かれていた状況を考えると、正直難しいと思いました。しかし神の御心なら事は成るだろうと思い、「祈ってみます」と答えました。私が祈っただけでなく、コイノニアの皆さんが祈ってくださったことでしょう。時を経て環境が整い、私の心も定まり、最終的に私はⅠサムエル記の御言葉を握ってコイノニアへ参りました。Ⅰサムエル記は私にとって人生の転換期に与えられた言葉です。その中でも、少年サムエルが神の声を聞いて「しもべは聞きます。お話しください」(サムエル記上3:10)と神に応答した箇所が私の召命の御言葉ですが、続く後の箇所を見ると「サムエルは育っていった。主が彼と共におられて、その言葉を一つも地に落ちないようにされたので」(3:19)とありました。召してくださる神様はただ「〇〇へ行きなさい」と仰るのでなく、遣わす先でも共におられ、成長させてくださるのだと確信をして一歩踏み出したことが昨日のようです。何でも飽きっぽい性格の私が牧師を続けることができるのは、神の「召命」があるからです。この神様からの「召命」はキリスト者の働きと生き方の根底に流れていて土台です。

【神に召された者として】

パウロは自分のことをコリント人への手紙の冒頭で、「神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」(Ⅰコリント1:1)と書き出しています。それは、パウロが神の「召し・召命」をとても大切にしていると言えます。「召し・召命」は英語でCallingです。正にパウロは神が自分を呼んだからここに今自分は使徒として存在しているのだと。

パウロは自分の召命だけでなく、手紙を書いたコリントの教会の一人ひとりを「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ」(1:2)と述べています。コリント書には、「知者、力ある者、身分の高い者、知恵ある者、強い者、この世の弱い者、見下されている者、無に等しい者、割礼を受けていない者」など神の召しを受けたいろいろな立場の人が登場しますが、私たち一人ひとりも同じく聖徒として召された者なのです。ある方が、「クリスチャンになったら皆同じになって個性がなくなるのでしょうか」と質問をしましたが、いいえ、神様の召しは、一人ひとりの人格と個性を損なうものではありません。反対にその人らしさが強化されていきます。生まれ持ったものや学んだこと、与えられた賜物が更に祝福されて行くのです。また不得手なことにも取り組む力も与えられます。

【二種類のクリスチャン】

しかし、今朝開かれたパウロの言葉はとても厳しい響きがします。「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。」(1)コリントの教会はパウロが開拓して、信徒たちは洗礼を受けたクリスチャンでしたが、成熟した大人のクリスチャンではありませんでした。続けてパウロは畳み掛けるように言います。「あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。」(2)。なぜ無理なのでしょうか。理由が続きます。「あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。 」(3)

1節~3節でパウロは二種類のクリスチャンを挙げています。一つ目は「肉の人」で、二つ目は「霊の人」です。

①    「肉の人」

一つ目の「肉の人」とは、洗礼を受けて神の子としての命を持ちながらも、福音に生きて成長していくことができていない人たちのことです。この世の考え方や価値観に影響された生活にどっぷり浸かり、実生活の中でクリスチャンとして成長できずに霊的に幼い状態であるクリスチャンのことです。しかし「肉の人」に最初から成りたい人はいないと思います。皆が「霊の人」として歩みたいと願っていながら日常生活で実を結べないという現実と葛藤があるのかもしれません。私自身もそうでした。「肉」とは、人間の自己中心性のことです。パウロが言う「肉の人」の特徴は3節を見るとねたみや争いがあり、一致がないことです。

「すなわち、ある人は『わたしはパウロに』と言い、ほかの人は『わたしはアポロに』と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。 」(4)

パウロは福音を伝え、コリントの教会を開拓しました。アポロはその後に信徒たちを御言葉で養った人です。当時のコリントの教会の人々は、イエス・キリストよりも指導者であるパウロやアポロに注目してしまっていました。教会の働き人が尊敬を超えて「崇拝」になると教会の中に争い・分裂が生じ、教会が混乱してしまいます。ですからパウロは語調を強くして言っています。「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。 」(5

②    「霊の人」

では、「霊の人」にはどのような特徴があるのでしょうか。パウロはローマ8:4でこのように先ず述べています。「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」律法には要求があるのだと。

世の中はたくさんのルールがあります。交通ルールを守らなければ事故を起こして、罰せられます。私は何年か前にオレンジの車線で車線変更をしたために6000円ほどの罰金を払ったことがあります。その時に「あなたの職業は何ですか」と警察官に聞かれ、「牧師です」と言うことをあれほど恥ずかしく思ったことはありませんでした。スポーツでもルールを守らなければ失格になります。学生はレポートや宿題の提出期限を守らなければ単位を落としてしまいます。

旧約聖書には守らなければならないたくさんの律法が記されています。一つひとつを完全に守ろうとするなら頭がおかしくなりそうなくらいたくさんの規定があるのです。神が求める律法の要求を満たせないなら罰を受けることになります。しかし、律法の要求を完全に満たすことのできない私たちに代わってキリストが十字架と復活によって満たしてくださいました。

「霊の人」とはキリストが足りない私のために十字架で死に、復活してくださり命を与えてくださったという事実に感謝と喜びを持って留まる人です。例えば、今日は聖書が一度も読めなかった、同僚に怒って喧嘩をしてしまった、子どもをしつけと称して叩いてしまった、お酒に酔っぱらって良からぬことをしでかした、など自分が出来なかったことに対して落ち込んだり、出来たことに対して満足したりすることは自分の中のルールに沿って判断していることになります。罪を犯したなら悔い改めることは必須ですが、自分や相手の出来高でなく、「私は神に愛されている存在」として自分のルールに固執せず、神に感謝と悔い改めを捧げ、軌道修正をしながら前進することが大切です。そして良い方向へ進み続けることです。

「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(エペソ4:13「霊の人」は人の意見や違いを超えて、主に在ってバランスの取れた一致を目指します。

【共に働く同労者として】

パウロやアポロは、それぞれ神のために役割を担った、共に働く同労者に過ぎませんでした。ですからパウロは言います。

わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」(69

教会の中にもいろいろな役割があります。今日は午後に役員と実務者の懇談会がありますが、牧師の役割、役員の役割、実務者の役割があります。奉仕も様々です。時代と共に変化してきたこともあったと思います。コロナの中でオンラインで礼拝を捧げることが可能にするためにYouTubeの設定をY兄がしてくださったことも教会の成長に繋がっています。各教会や教団教派も同じキリストを信じ礼拝する者たちの集まりですが、立てられた牧師に与えられたビジョンや使命、その地域が求めることによって役割が違ってきます。ホームレス伝道をする教会もあれば、子どもや青年伝道に力を入れている教会もあります。韓国のある教会は芸能人への伝道に力を入れています。病院に併設された教会は医療に関する伝道を求められるかもしれません。個人の単位であっても、家族や教会単位であっても、植える者と水を注ぐ者はキリストに在って一つとなって働くのです。

私たちは誰に焦点を合わせるべきでしょうか。成長させてくださる神様に焦点を合わせ続けたいと思います。教会のかしらは、主イエス・キリストだけです。(エペソ4:15-16)

【霊的健康診断を】

「ケズィック・コンベンション」について少し触れたいと思います。「ケズィック」は一年に一度開かれる大きな聖会で、言わば「霊的健康診断」です。日本で「ケズィック」が開かれて今年は62年目です。「ケズィック」とは英国イングランドの湖水が多くある町の名前です。

この町出身のハーフォード・バタースビィという若い牧師が自分自身の内側に満たされない「飢え渇き」を覚えて、ある聖会に出席しました。そこで大変恵まれたバタースビィは、そのような集会を是非自分の町でも開きたいと講師を呼び聖会を開催することになりました。しかし、講師の身に思いがけない事件が起こってしまい、バタースビィは聖会開催の二、三日前に講師が来れないとの電報を受け取ったのです。彼は聖会を取り消しにしようかと思ったようですが、一人の信徒が「この失望は神に対する信頼を働かせる大いなる機会です」とバタースビィを励まし、二人は祈り、このことを祝福の始まりだと捉え、予定通りに第一回ケズィック・コンベンションを1875年6月29日に開催しました。第二次世界大戦の時に六回休会した以外は毎年ケズィックで聖会が開かれるようになりました。ハドソン・テーラーやアンドリュー・マーレー、F.Bマイアー、バックストンもケズィックの講師でした。日本の各地で開かれる聖会や退修会は、元を辿れば英国のケズィックのビジョンに関わりのあるものが多いようです。

ケズィックのテーマは一貫して「みなキリスト・イエスにあって一つ」~聖なる生涯を慕い求めて~です。またその特徴は、「聖書の言葉と聖霊に服従するところに聖霊による内なる刷新」で、たくさんの宣教の働きを生み出してきました。メッセージも伝統的に一定の順序があり、①「キリスト者の心と生活にある罪」、②「イエス・キリストとその成就された救いの十全性」、③「その救いを自己のものとするための明け渡しと信仰」、④「聖霊の満たしと宣教への派遣」が複数の講師で語られて行きます。

【ケズィックの恵み】

「ケズィック」に参加する恵みは、何よりも御言葉に浸る事です。「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4:12)私は祈りの課題を携え、答えを頂くために聖書の言葉にケズィックに参加期間中、神経を集中させます。すると、如何に日常生活でこびり付いた汚れがあるかを光に照らされ気付かされるのです。

忘れられないメッセージがあります。英国のブラウン先生のバイブルリーディングでした。「・・そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。」(創世記35:4)先生は、「Holy Journey(聖なる人生の旅)のために、ヤコブは神に従い、偶像や身に着けていた飾りをすべて埋めた、だからあなたも今、すべての偶像を埋めて下さい」と会衆全体に迫られました。私はその頃、多くの思い煩いを抱えている状態でした。御言葉を通して、私はその思い煩いの中に留まる事を選択しているのは自分自身であるという事がはっきりと示されたのです。本当の意味で解放されたいと思っていないのでいつまでも自分を悲劇のヒロインに仕立て上げていました。状況は変わらないが、私が変わりたいと思い、その場で「主よ、私も自分が身に着けている要らない物をすべて埋めます。どうぞ、新しくして下さい」と祈りました。御言葉に押し出され、涙と共に私は新しい出発をしました。今でも創世記を読むと、その箇所が思い出され、新しく立ち上がった恵みを思い出し感謝の気持ちで一杯になります。これはケズィックに参加しなければ頂けなかった恵みです。

今日開かれたもう一つの箇所、申命記を見ると神様は私たちに選択を迫っています。「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。…わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」(申命記30:15-16、19)

いのちか死を選べというならよほどのことがない限り、いのちを選ぶのではないでしょうか。ただいのちを選ぶことは、生きる責任、神のルールを守ることも要求されるのです。これこそ「御霊に属する人」の歩む道を指し示しています。神様は私たちに選択を迫りますが、いのちを選択した人を導き成長の恵みを与えてくださいます。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」(テモテ4:7-8)