1サムエル18:1-5「真の友とは」
聖書 1サムエル18:1-5、
説教 「真の友とは」~ダビデとヨナタン~
メッセージ 堀部 里子 牧師

1ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。2この日、サウルはダビデを召しかかえて、父の家に帰らせなかった。3ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。4ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした。5ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。
1サムエル18:1-5
12わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。13人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。14あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
ヨハネ15:12-15
おはようございます。昨日、後輩の婚約式に夫婦で証人として参加しました。婚約した二人を紹介した先生が、二人とも「魂が明るく、ポジティブだ」とおっしゃいました。私も長年二人を見て来て、本当にそうだなと思いました。二人は小学生の頃から同じ教会の教会学校で育ってきた仲間で、大学生の頃から教会学校と青年会のスタッフとして一緒に奉仕をしてきていました。幼馴染として信仰と友情を築いてきたのだなと思いました。私は、夫婦は親友・心友・信友(信仰の友)であり、あるべきだと思います。そういう意味で、お互いのことをすでに知っている二人がこれから夫婦として歩んでいくことは、両家にとって、また教会にとって新しい祝福になると信じています。
1.真の友とは、魂と魂が結ばれる人
…ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。(18:1)
「心(ネフェシュ)が結びつく(カーシャル)」とは、単に「気が合う」とか「仲良くなる」ということではありません。ヘブル語では、魂・いのち・人格が「固く結び合わされる」という意味があります。つまり魂や人格の深いところで一つになったということです。
ヨナタンとダビデは、王子と羊飼いという立場が違い、年齢も育ちも違う二人でしたが、それでも友情が結ばれました。なぜでしょうか。二人には共通点があったからです。
ヨナタンはダビデのゴリアテとの戦いを見ていました。ダビデは誰もが恐れて対峙できない巨人ゴリアテとの戦いを前に「またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」(17:47)と言って神を信頼しました。それはヨナタンが、少人数でペリシテ人に立ち向かったとき、「主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」(14:6)と持っていたのと同じ信仰でした。二人に共通していたのは信仰でした。「ああ、この人も私と同じように神を信じて戦っている」と深い共感が生まれたのではないでしょうか。二人とも「神を第一にする人」でした。
本当の友情は、共通の趣味や利益よりも、同じ方向を向いて歩むことで深まります。神に向かって共に歩むとき、友情も深くなります。人は自分の一番大切にしているものを理解してくれる人に出会うと、心が近づくのではないでしょうか。

夏のキャラバンでの出来事
神学生のとき、夏のキャラバン(地方の教会のお手伝いと奉仕)で地方へ出かけました。その教会に一人の小さな女の子がいました。集会がないのに教会にずっと出入りしているその女の子と先ず仲良くなりたいなと思いました。でも今まで会った子どもたちと少し違って、あまりのってこないなと思っていました。どのような仲良くなったらいいのか祈りながら対応する中で、彼女のずっと手にしていたものに気づきました。彼女が大好きなキャラクターの本でした。私は全く興味がなかったので気づかなかったのですが、この本のキャラクターの質問をするとすぐに答えてくれました。そしてもっと教えて欲しいとお願いすると、懐いてくれるようになりました。彼女は喜んで、キャラバン期間中、ずっと私たち神学生をウェルカムして、お手伝いもしてくれました。その女の子の大切にしているものに、目を向けることで、私たちが伝えたかった大切なイエス様の話も聞いてくれました。世代を超えて小さな友情を築いた夏の一コマでした。
2. 真の友とは、相手の成功を喜べる人
「ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした。」(18:3〜4)
ヨナタンは、ダビデの戦いの成功を心から共に喜びました。ダビデの勝利は、国の勝利でした。そしてその喜びと感謝をヨナタンは形で表しました。上着、よろいかぶと、剣、弓、帯までダビデに与えたのです。これらは単なるプレゼントではありません。王子であるヨナタンの身分や権利を象徴するものを差し出したのです。普通なら、ダビデは自分のライバルとなりますが、ヨナタンはダビデに嫉妬せず、むしろ神がダビデを用いておられることを喜び、ダビデの存在を大切にしました。王子であるヨナタンから、ダビデに近づくことで二人の距離が更に近くなり、信頼が深まっていったでしょう。ヨナタンはダビデの前で立場にこだわらず、何でも分かち合いたいと思ったでしょう。そしてダビデの中に「この人は信頼できる。本当の自分を認めてくれる。この人の前では飾らなくても大丈夫」という安心感が芽生えてきたのだと思います。
今朝の教会学校に参加した中一の女の子に質問をしてみました。学校で親友と呼べるお友だちがいるとのことでしたので、「なぜそのお友だちのことを親友と呼べるのか」と聞きました。すると彼女は「一緒にいて安心できるから。何でも話せて分かち合えるから」と答えました。そして一緒に二人の友情のため、親友の祝福のために祈る時間を持ちました。
ヨナタンは相手の成功を共に喜ぶことで、ダビデは安心して自分をさらけ出すことができたのだと思います。ヨナタンはダビデのために喜ぶだけでなく、20章を見ると共に悲しむこともできる友人でした。「ヨナタンは激しく怒って席を立ち、その月のふつかには食事をしなかった。父がダビデをはずかしめたので、ダビデのために憂えたからである。」(20:34)
共に喜び、共に悲しめる友人の存在を大切にしたいと思います。特に信仰によって結びつきのある友情を更に主に在って育んでいただけますように。

サウルとの対比
一方で、サウルはダビデを妬み始めます。「『サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した』。サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、『ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか』。サウルは、この日からのちダビデをうかがった。」(18:7〜9)
サウルは戦いに勝利し、人々から賞賛されるダビデに嫉妬し怒りましたが、息子ヨナタンはダビデを心から愛しました。違いは何でしょうか。サウルは自分の王座を守ろうとしました。ヨナタンは、何も悪いことはしていない、神の御心のままに歩んでいるとダビデの存在を尊重しました。その後、父であるサウル王に命を狙われるダビデに、ヨナタンは本音で語り合い、冷静さと誠実さをもってかばい続けます。友情は、決してお互いの競争ではなく祝福し合うことによって育つと信じます。
3. 真の友とは、自分を犠牲にしてでも相手を守る人
18章以降を見ると、ヨナタンは命の危険を承知でダビデを助けています。自分の立場に執着せず、父であるサウル王の怒りをかっても、神が選ばれたダビデを知恵を用いて守りました。困難なときにも裏切ることなく、離れず寄り添う姿勢を崩しません。ここに友情の本質があると思います。「真の友」は、自分の利益より相手の益を願う人です。このような感情は、人間の自然な感情というより、神様が与えてくださった愛だと言えます。
イエス様が語られた言葉と生き方を思い出させます。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
小学生のときの体験
私が小学校三年生のときに、初めてクラスの友人関係で悩みが生じました。クラスの中に女の子のボスがいて、彼女の言うことが絶対でした。ある時、一人の女の子を無視するようにと指示が出され、クラス全体が先生に気づかれないようにその子を無視する状況になってしまいました。私は教会に行っていたので、友だちを理由もなく急に無視することは良くないと分かっていましたが、手も足も出ませんでした。しかし勇気を出して「私は彼女の味方でいよう」と思い、普段通りに彼女に話しかけました。すると次の無視されるターゲットが私に変わったのです。数日間はどうにかなりましたが、流石にずっと続くとメンタルが病みそうになりました。ある日、学校から帰って山積みの洗濯物の中に頭を突っ込んで、神様に叫んで祈りました。私にとって自分の意志で、自分の言葉で初めて神様に泣き叫ぶ体験でした。ひとしきり祈った(神様に状況を訴えた)後、平安が私の心を覆いました。イエス様が「わたしがあなたと一緒にいるよ。わたしがあなたのことを一番よく知っている。わたしがあなたの友だ」と私に言ってくださったように感じました。確信を得た私はその後、安心して学校生活を送り続けることができました。そして、クラスの仲も良くなっていったのです。神様が小さな私の祈りに応えてくださったことを感謝しました。
ダビデの子孫から生まれたイエス様こそ「究極の友」となってくださいました。真の友情は何によって築かれるのでしょうか。友情は一日ではできません。信頼を積み重ね、小さな約束を守り続けることで育っていきます。
今日、ご一緒に見て来たヨナタンのダビデに対する友情は、イエス・キリストの存在を指し示しています。
私たちも「あ、この人とは心が通じる」と感じることがあります。しかし聖書が語る「心が結ばれる」とはそれ以上だと私は思います。それは、神を愛する思いを共有し、相手を自分のように大切にし、相手の喜びを喜び、苦しみを共に担い、神の前で互いに成長することを願う関係、つまり神を中心にした魂の交わりと言えます。

「あなたには、そのような友がいるでしょうか。そして同時に、あなた自身は誰かにとって、そのような友になっているでしょうか。私たちは完全ではありません。しかし、私たちのために命をささげてくださったイエス・キリストという真の友に愛されているからこそ、その愛を周りの人にも表すことができるのです。」
ヨナタンのダビデに対する友情は、単なる美しいストーリーで終わるのではなく、イエス・キリストが私たちに示してくださる「真の友」の姿を先取りしていてくださっていることを覚えたいと思います。友であるイエス様の存在に感謝しつつ、私たちも誰かの「真の友」でありたいと思います。祝福が豊かにありますように!


