Ⅰヨハネ1:1-2:2「いのちが現れました」

2024年4月7日(日)礼拝メッセージ

聖書 Ⅰヨハネ1:1-2:2詩篇133篇
説教 「いのちが現れました」
メッセージ 堀部 里子 牧師

The Incredulity of St. Thomas, by Giovanni Battista Cima da Conegliano

【今週の聖書箇所】

 1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― 2このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――

Ⅰヨハネ1:1-2

1見よ、兄弟が和合して共におるのは
いかに麗しく楽しいことであろう。

3またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
これは主がかしこに祝福を命じ、
とこしえに命を与えられたからである。

詩篇133:1、3

おはようございます。3月31日のイースター礼拝から一週間が経ちました。先週は台湾で地震があり、未だ行方不明者がおられるとのことで、一刻でも早い助けが成されるようにと祈ります。

4月から年度変わりで、環境が大きく変化した人もいれば、大きな変化はないけれど、気持ちを新たに再スタートした方もいると思います。皆さんの新年度の歩みの祝福を祈ります。

【光の存在といのちが通う交わり】

私は昨年の10月から、町会内の部長の役割が順番でまわってきて務めているのですが、先週の定例役員会で「みんなの家」の報告がありました。「みんなの家」とは三丁目にあるお食事処で、地域の皆さんの交流の場所になっているそうです。「みんなの家」が出来た目的は、「三丁目に灯りを灯し続けよう、そして活性化させよう」ということでした。「みんなの家」をお手伝いされているAさんと昨日話していたら「〇〇さんが、先生御夫妻にも来て欲しいと言ってましたよ」と聞いたので、一度行ってみたいと思っています。

「灯りを灯し続けること」は正に光の存在の大切さを語っています。人が集まり、仲良く交わりを持ち、お互いの命の存在を喜び、助け合って生きること、それが地域の活性化に繋がるのだと思います。灯り・光のあるところに闇は共存できません。犯罪も少なくなるでしょう。

今朝読んだⅠヨハネの手紙に「光、いのち、交わり」という言葉が多く登場します。先ず一節を読みます。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――」(1:1)

「もの」と新改訳聖書では書いていますが、他の訳では「お方」です。いろいろな翻訳を読んでみましたが、意味において創造主訳聖書が分かりやすく翻訳していると思いました。

「この世界が造られる前から存在しておられた方、私たちがその言葉を聞き、実際に見、また、一緒に生活した方、すなわち、創造主の命の言葉であるキリストについて伝える。」(創造主訳)

ヨハネは手紙の冒頭から、神であるキリストの存在をはっきりと語っています。ヨハネ自身がイエス様の受肉を信じ、キリストの言葉に生きた証人であると証しています。そして、私たちもキリストについて聞いたこと、見たこと、じっと見つめてさわったこと、つまりキリストを体験することに加わるように招いているのです。ヨハネが生きていた当時、イエス様が人となられたという受肉に対して否定する群れがいたので、ヨハネは手紙の冒頭でそのようにはっきりと語ったのです。「いのちのことば」とはイエス・キリストご自身です。

「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――」(1:2)

命がもたらすものは何でしょうか。交わりの喜びではないでしょうか。1月にBさんご一家に赤ちゃんが生まれて、ご家族にも教会にも喜びをもたらしました。十月十日暗いお腹の中で育まれ、生まれ光を初めて浴びました。これから成長していく過程でいろいろな人と出会い交わり、様々なことを経験していくでしょう。楽しみや喜びだけでなく、悲しみや痛みも経験していくでしょう。それらのことを経験することは、生きている証拠でもあります。

いのちの祝福とは、困難や試練を乗り越えて、「やっぱり生きていて良かったと言えること」であると思います。誰かと共に生きることは、様々な関わり合いの密度でストレスや葛藤もあると思います。子どもを教え導く難しさもあるでしょう。今年のケズィック・コンベンションの集会で、講師の藤本満師は子育てをする中で子どもの気持ちを尊重しつつ、神様の愛や厳しさを教える「匙加減」が大切だとおっしゃっていました。

ヨハネがキリストのことを証言し、伝える目的は「交わり」にあると言います。「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(1:3)

人との交わり、神との交わり、そのために神様が人間を創造されました。これが人間のいのちの本質です。「交わり」と訳された言葉は「コイノニア」です。この交わりが信仰生活の本質であり、その結果は喜びです。

私がコイノニアに転任して四年になりますが、コイノニアが交わりを大切にしている教会であることをしみじみと感じて感謝しています。特に共に食事をすること、共に賛美することを大切にしてきた教会なんだなと思います。食べること、賛美をすることは私自身とても大好きなので嬉しいです。この交わりが拡がり続けていくことに喜びを感じます。真の交わりの中心にイエス様がおられ、このイエス様を知ること、知り続けていくことが共同体全体の喜びとなり、交わりを通して全きものとなります。「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためであ」(1:4)。

【神と真の交わりを持つ人の特徴】

5節以降のヨハネの文章から、真の交わりを持っている人はどういう人なのか、大きく二つの特徴を挙げています。

①光の中を歩む

一つ目は、神と交わりがある人は、闇の中ではなく光の中を歩むということです。

光は正しさを、闇は罪や偽りを現しています。ヨハネに敵対する人たちは、「知恵を悟った者はどんな行動しても自由で構わないのだ」と主張するのに対して、神と交わりを持っている人は神様の性質である光の実のりを結ぶはずだと反論します(1:6-7)

②罪を認めて告白する

二つ目の真の交わりの特徴は、自分に罪があることを認めて告白することです(1:8-10)

「罪はない」と言っていたヨハネの敵対者の主張は、「一度も罪を犯したことがない」という意味でなく、「罪に対する責任が私にはなく、それを感じない」ということらしいですが、ヨハネは神様と本当に交わりを持っているなら、むしろ自分に罪があることを悟って告白するのだと言っています。ヨハネは罪を告白して赦しを得ることの大切さを伝えています。

自分に罪があると認め、悪かったと告白し、謝ることは簡単なようで難しいことです。「相手の主張することも最もだけれども、私の主張することも正しいので一言言っておきたい、受け止めてもらわなければ」と私などは思ってしまいます。自分の言葉をぐっと飲み込み、相手の立場に立ってものを言うことが大切になります。その時、心の中で祈りながら言葉を発することで、自分自身と相手の心を守り、後腐れなくすることが多いのでは思います。

また私は過去にそのようにしてこなかったことで、相手の心をどんなにか傷つけてきたかと思うと、心が痛みます。ですから、他者との関係性を築くにあたり、神様の介入と知恵が必要です。イエス様との交わりと結びつきは、世の中が与える楽しみや幸せとは違います。イエス様の中に真のいのちと平安があるからです。このイエス様と結びつき、いのちの交わりがあるなら、あらゆる霊的攻撃や誘惑に直面しても、最終的に打ち勝つことができます。

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:5)

【共同体のいのちの交わり】

今朝は旧約聖書の詩篇133篇も開かれました。133篇はダビデによる都上りの歌です。エルサレムへ共に巡礼をする旅の様子が歌から読み取れるのではないでしょうか。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇133:1)

 巡礼は、一人でなく家族・親族が村や町ごとに共同体が、徒歩で何日もかけてエルサレムを目指しました。共同体には子どもたちも大人たちもお年を重ねた方々もいました。家畜を置いておけず一緒に旅をしたかもしれません。野宿をしながら、火を焚いて男性たちが交代で寝ずの番をしたでしょう。

エルサレムで礼拝を捧げることを思い描きながら、「後少しだよ、頑張ろうね」と励まし合ったのかもしれません。そのような「ともに生きること」がなんと幸せで楽しいことなのだとダビデは喜びの詩を残しています。旅路において、食べ物の確保や寝床をどこにするかも含めて、旅を全うすることは簡単ではなかったと思います。しかし、そこに共に生きるいのちの交わりがあったのです。中心に神を据え、お互いが礼拝者としての喜びを見出していったのではないかと思うのです。

「それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。」(詩篇133:2-3a)

 頭に注がれた油がひげを伝って衣の端まで流れ落ちる様が目に浮かぶようです。頭とひげ、そして衣を一つに繋ぐのが体の上から下へ流れ落ちる「油」です。ヘルモン山とシオンの山々も本来、一つではないのですが、同じ露が天から注がれることで一つとなり、まるでいのちが通う交わりのようになるのです。ダビデは実に比喩を用いて、いのちの交わりの意味を表現しています。

「これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。」(詩篇133:3b)

 神様は光であり、いのちの源です。私たちにそのいのちが見えるように、神様がイエス様を地上に送り現れさせてくださいました。いのちであるイエス様は、人の罪を贖い、きよめてくださる方です。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(1ヨハネ1:9)

イエス様は私たちが、日常の生活の只中であらゆる罪に勝利させるため、そのためにも死に打ち勝ち、よみがえってくださいました。イエス様の復活がないなら勝利もありません。救われた後の信仰生活の歩みの中に、生きておられるイエス様のいのちのことばが毎日必要です。イエス様のことばを通して、永遠のいのちを得ることができるのです。新年度も、このいのちとの交わりを持ちながら、光の中を歩み、このいのちの交わりが皆さんを通して豊かに拡がっていきますように。