1ヨハネ3:1-10「神の子どもとして」

2025年3月16日(日)主日礼拝メッセージ
聖書 Ⅰヨハネ3:1-10、イザヤ35:1-10
説教 「神の子どもとして」
メッセージ 堀部 里子 牧師
わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
Ⅰヨハネ3:1-2
その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
イザヤ35:5-6
おはようございます。受難節第二の聖日の朝を迎えました。寒暖の差がありますが、3月は卒業式や卒園式のシーズンですね。皆さんの中にもご家族や知り合いが、卒園や卒業など節目を迎え、4月から新しい歩みをされる方がいらっしゃるのではないでしょうか。
【東日本大震災から14年経って】
教会では先週、「震災復興を考える会」を午後に持ちました。会を重ねる毎に学びも深まってきています。3.11東日本大震災から14年経ちましたが、震災直後に教会でチームを組んで、何度もボランティアに行ったことを昨日のことのように思い出せます。ボランティアは終われば自分の家に帰りますが、被災された方々はそこでの暮らしがずっと続くわけです。特に福島の方々は地震と津波だけでなく原発事故の被害と風評被害もあり、一番長く避難生活が続いたと思います。
佐藤彰先生:「流浪の教会」
福島原発に一番近い教会の佐藤彰先生は、一年間転々と教会の方々と流浪の旅を続け、最後は奥多摩のキャンプ施設で避難生活を送られました。
想像してみてください。私たちのコイノニアのメンバーが礼拝だけでなく、365日24時間ずっと同じ場所で生活することを。佐藤先生は、メンバー誰か一人くらいは「もう神は信じない。神はよほど私たちが憎いのか、よほどあの福島の地がお嫌いなのか」と牧師に詰め寄ってくる人がいるのではと思ったそうです。もしそうなったら返す言葉もないと思ったと。しかし実際には信徒の方々は「この時ほど神様を感じたことはありません」と言ったそうです。
一瞬にして多くの物を失い、揺すぶられ、家族もバラバラになり、明日もどうなるか分からない中で、自分たちに分かるように神様の模様を見せてくださっていると気付いたというのです。震災を体験したからこそ、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」(イザヤ43:1-2)の言葉をこれほど身近に感じたことはなかったそうです。
また震災後にイエス様を信じる決心をして洗礼を受け、「神の子ども」となった方々も多数いらっしゃったようです。(「流浪の教会 佐藤彰著p.98-118」より)
家族や親族でない限り、何十人かがまとまって移動しながら、一年間一緒にずっと避難生活を送ることは簡単ではないはずです。しかし一人でなく、「神の子」として共に試練の時こそ一致団結をしてお互い支え励まし合い、乗り越えて本当の「神の家族」になれるのではないでしょうか。
【様々な戦いの狭間で】
今朝はヨハネの手紙Ⅰが開かれましたが、著者のヨハネは、ヨハネの福音書も書いた使徒ヨハネです。他の弟子たちが殉教して行く中で、ヨハネは老齢になるまで神の働きをした人です。当時の初代教会は、迫害があり異端の攻撃があり、教会が分裂の危機にさらされていました。そのような状況の中で、ヨハネは初代教会の兄弟姉妹を励まし、助けるために手紙を書きました。神の子として、状況や見えるものに揺り動かされず、正しい信仰生活を送り、真理の内を歩むようにと語りました。
私たちが生きるこの現代社会も大きな戦いがあります。2011年の東日本大震災以降も、日本各地で災害が起こっています。まだ避難生活をされている方々もいらっしゃいます。近年ではウクライナとロシアの戦争、イスラエルとガザのハマスとの戦いが今も続いています。榎本保郎先生は次にようにおっしゃいました。
どうしてこんなことになるのだろうかと現実から考えるのではなく、神の子とされたということから現実を見るのが信仰生活である。この逆転の立場に立っての人生観、世界観を持つのがクリスチャンの生き方である。…イエスの愛、イエスによって私たちがどのようにされたかということが、私たちの生活の基準となり、原動力となり、震源地になることである。
ちいろば牧師の一日一章p.278
家を失い、故郷を離れた者にしか分からない困難と、この困難を体験したからこそ、真理を求めてキリストと出会う人々もいます。また、このような時代だからこそ、クリスチャンとしての存在意義が問われています。
【神の子どもとは】
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。」(Ⅰヨハネ3:1)
神の子とは、イエス様のことですが、ヨハネは私たちが「神の子ども」とされるために、父なる神様が払ったすばらしい愛の犠牲を考えなさいと言います。愛の犠牲とは、神様が地上に送ってくださった独り子であるイエス・キリストを人間の罪ために、十字架に付けて私たちを救ってくださったという愛に他なりません。大切なことは、父なる神とキリストが、私と関係のある方だと知ることです。そしてこのキリストに望みを置くことです。私たちも神を信じることで「神の子ども」となるのです。そして、同じように「神の子ども」となった者たちと、「神の家族」となります。先ず父なる神様の愛を知ること、これが「神の子どもとなる資格」です。
子どもが姿かたちを親に似ていることは当然です。なぜなら親のDNAを受け継いでいるからです。
私が上京してきてすぐの頃の話ですが、道で赤ちゃんを連れた夫婦とお会いしました。赤ちゃんが可愛くて声をかけてしまいました。「お二人にそっくりでかわいいですね」と言ったら、「そうでしょう。私たちの大切な息子となったのでもっと似てくると思います。」とおっしゃいました。よくよく話を聞くと生まれてからすぐに養子として迎え入れた子だったのです。何も知らない私は「お二人にそっくりです」と言ってしまったのですが、本当に似ていたのです。
私たちはイエス様を通して、「神の子ども」とされましたが、更に「神の子」としてキリストに似る者とされていく存在なのです。
「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」(Ⅰヨハネ3:2)

【神の子どもにふさわしい行動】
1912年に豪華客船であるタイタニック号が氷山にぶつかって沈没しましたが、その時の乗客の生存率は、子どもが約51%、女性が約74%で、男性は20%だったそうです。体力のある男性の生存率がなぜこんなに低いのでしょうか。それは緊迫した状況の中で、タイタニック号の船長であるエドワード・ジョン・スミスが「Be British!(英国人らしくありなさい!)」と叫んだからと言われています。この言葉に反応して、英国人の男性たちは、自分たちよりも先に子どもたちや女性たちを救命ボートに乗せたからでした。究極の状況で自分の命よりも、女性や子どもたちの命を優先することが、「英国人」としての気高さであり誇りだったのでしょう。もし私たちが人生の嵐に遭った時、船長が「神の子らしくありなさい!」と叫んだなら、どのように行動するでしょうか。
罪の問題
「神の子らしく生きる」ためには、私たちは決して罪の問題を避けて通れません。清さの反対にあるのが罪です。ヨハネは神の子らしい生き方のために、罪の問題を取り上げています。
「彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。」(Ⅰヨハネ3:3-6)
神の子ども(クリスチャン)になったら、罪を全く犯さなくなりますと言っているのではありません。「神を知りながら罪をずっと犯し続けることがもうできなくなる」のです。なぜなら「神の種」がうちにとどまっているからだと。罪に対する自分の中のセンサーが反応して、これは良くないことだと罪の中に留まり続けることが難しくなるのです。だから故意に罪を犯すことを避けるようになります。
「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。」(Ⅰヨハネ3:9-10)
「神の子」の対極にあるのが「悪魔の子」です。「人は罪を犯すしかない存在だ。だから罪を犯す」という考え方から脱皮させられます。罪に対して無力だからといって、努力をしないのでなく、神のこどもと変えられた身分の故に、罪に対抗するのです。
「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:4)
ヨハネは罪は律法に違反することと定義していますが、法を破るというよりも、法がない状態・無法の状態を表しているそうです。無法の状態から不正や汚れた行いが出てくるのだと。この状態を解決するために、イエス様が世に来られました。罪のない方が罪を取り除くためにやってこられたのです。
聞くべき声、言葉とは
ある牧師先生は小さい頃からずっと叱られ、怒られてきたそうです。学校の先生や友人、会社の人たちからも批判や非難を浴びていたそうです。またサタンも「お前には罪がある。お前はこういうことをした。ダメな奴だ」と訴えられ、クリスチャンになっても罪が赦されているはずなのに神様から「まだ足りない。罪を犯している」と叱られている気がしたそうです。
確かに律法は私たちが生きている限り、悩ますかもしれません。「あなたにはまだ罪がある!」と。でも、イエス様が命をかけて代価を払ってくださり、私たちを律法の奴隷から救い出して、「神の子ども」としてくださったのです。
「それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」(ガラテヤ4:5)
一度神の子どもの身分が与えられたら、誰も奪い取ることができません。そして、「神の子ども」とされた者が聞くべき声は、サタンの声でなく神の言葉です。私は外の雑音が大きくなったら、自分で自分に言い聞かせて宣言します。「私は神から愛されている神の子です!こんな私でも、イエス様は命をかけて救ってくださったほどに愛してくださっています!」と。もう後戻りはできません。

少数派のクリスチャンとして
私はいつかイスラム教の国々を周ってみたいと言う夢があります。そこで暮らしているクリスチャンたちと話してみたいのです。夫は「お願いだから、オンラインのバーチャルツアーで満足してくれ」と言います(笑)。現代はネット社会ですので、夫の言う通りネットで様々な情報を手に入れることができます。
先日、YouTubeでイラクのクリスチャンたちの様子を観ました。イラクはイスラム教国家ですが、イラク北部にはクリスチャンの村や町があります。世界遺産になるような教会や遺跡がISISによって破壊され、クリスチャンたちは想像を絶する迫害を受けました。生き残ったクリスチャンたちは国外に逃れましたが、そうした中でもあえて故郷に戻ったクリスチャンファミリーがおられました。彼らへのインタビューで心に残った言葉があります。
「私たちはこの地に戻って来ました。破壊された町を見るのは辛いです。しかし、私たちの内にキリストが住んでいます。この地でクリスチャンとして生きて証しを立て続けていきます」と。
イスラム教国家の中で少数派のクリスチャンとして生きることは簡単ではありません。戦いも大きいと思います。しかし日本でクリスチャンとして歩み続けることも、同じく簡単ではありません。しかし、私たちもこの日本で、「神の子ども」として、世の塩・世の光としての役割を果たしたいと思います。
♪何ができても できなくても 何を得ても 失っても
「神の子」作詞作曲:佐々木愛美
ただ愛されてる 天の父に わたしは神の子♪