Ⅰ歴代誌22:5-19「次世代に託すもの」

聖書 Ⅰ歴代誌22:5-19、Ⅱテモテ2:1-2
説教 「次世代に託すもの」
メッセージ 堀部 里子 牧師

バトンを受け継ぐ:photo by Roman Boed, from pxhere.com, CC-BY-2.0

5ダビデは言った、「わが子ソロモンは若く、かつ経験がない。また主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。それゆえ、わたしはその準備をしておこう」と。こうしてダビデは死ぬ前に多くの物資を準備した。

…7すなわちダビデはソロモンに言った、「わが子よ、わたしはわが神、主の名のために家を建てようと志していた。8ところが主の言葉がわたしに臨んで言われた、『おまえは多くの血を流し、大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから、わが名のために家を建ててはならない。9見よ、男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて、周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ、彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。10彼はわが名のために家を建てるであろう。彼はわが子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王位をながくイスラエルの上に堅くするであろう』。

Ⅰ歴代誌22:5,7-10

1そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。2そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。

Ⅱテモテ2:1-2

おはようございます。皆さんは、「自分がやりたかったことを、自分では完成できない」と分かったとき、どんな反応をするでしょうか。一生懸命に準備してきたこと、または長い間願ってきたことや「いつか、こうしたい」と思ってきたことにストップがかけられたらどうでしょうか。神様から「それをあなた自身がするのではありません」と言われたら、私なら「分かりました」と手を引いてしまうかもしれません。

ダビデは、神様のために神殿を建てたいと願っていました。しかし神様は、ダビデではなくその子ソロモンが神殿を建てると告げられました。それでもダビデは「もう私の役割は終わりだ。私には関係がない」とは言いませんでした。むしろダビデは、ソロモンが神殿を建てられるように、材料を集め、必要なものを準備し、ソロモンを励まし、イスラエルの指導者たちにも協力を呼びかけたのです。

今日は歴代誌第一22章のダビデの神殿建築に対する姿から、私たちは次の世代に何を託していくのか、託していくべきなのかをご一緒に考えたいと思います。

1.ダビデは神の"No"を受け入れた

7すなわちダビデはソロモンに言った、「わが子よ、わたしはわが神、主の名のために家を建てようと志していた。8ところが主の言葉がわたしに臨んで言われた、『おまえは多くの血を流し、大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから、わが名のために家を建ててはならない。(1歴代誌22:7-8)

今日の開かれた箇所の中で、ダビデの偉大さは、「自分は神殿を建てられない」ということを受け入れたことです。ダビデには、神殿を建てたいという願いがありましたが、神様の計画はダビデの願いと違っていました。

私が以前いた教会で月刊誌を担当していたことがあります。毎月何人かの方に証しの原稿をお願いし、まとめるという作業をしていました。私の他の奉仕が増えてきて、私が担っていた月刊誌の奉仕を他の方に担ってもらうことになりました。私は引継ぎのマニュアルを作り、流れを説明し、完全にこの奉仕から手を引いたはずでしたが、発行される月刊誌の小さなミスやフォントの違いを探しては、指摘していたのです。その心は「私がここまでやってきたのだ、それを崩さないで欲しい」と考えていました。私の次の担当者はどんなにやりにくかっただろうかと思います。責任を持って働くことは大切です。けれども、教会も月刊誌の奉仕も私のものではありません。神様のものです。だから「私が完成させなければならない」のではなく、「私の役割は終わったが、神様が続けてくださる御業の中で、私は次に何をさせていただけるのだろう」と考えることが大切なのだと気付きました。

ダビデは、自分の夢を神様に明け渡しました。しかし、それは「諦めた」ということではありません。自分はできないことを、神の御業として受け入れ、神の御心を信頼したのです。

2.ダビデは何もしなかったのではない

神様から「あなたは神殿建設をしない」と言われたダビデですが、だからといってダビデは何もしなかったのでしょうか。

「ダビデは言った、「わが子ソロモンは若く、かつ経験がない。また主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。それゆえ、わたしはその準備をしておこう」と。」(22:5)

ダビデはソロモンが神殿を建築できるように、建築資材と働き手をできる限り集め準備したのです。そして、ソロモンに言いました。

「見よ、わたしは苦難のうちにあって主の家のために金十万タラント、銀百万タラントを備え、また青銅と鉄を量ることもできないほどおびただしく備えた。また材木と石をも備えた。あなたはまたこれに加えなければならない。」(22:14)10万タラントの金は3,750トンにも達する量で、現代のお金の価値で換算するなら約5.6兆円です。ダビデはなぜ、そこまでして神殿建設の準備をしたのでしょうか。出しゃばり過ぎだと思われるでしょうか。ダビデが願っていたのは、「イスラエルに立派な建物を残したい」ということではなく、「次の世代も、神様を礼拝する民として生きて欲しい」ということだったと思います。イスラエルにとって神殿は、神を礼拝する中心でした。だからダビデは「それであなたがたは心をつくし、精神をつくしてあなたがたの神、主を求めなさい。たって主なる神の聖所を建て、主の名のために建てるその家に、主の契約の箱と神の聖なるもろもろの器を携え入れなさい」(22:19)と言ったのです。

ダビデが本当にソロモンに残したかったものは、金でも銀でも石でもなく「神を求める心」でした。

私たちは様々なことに時間やお金、エネルギーを注いで働いても、自分が思った形では実を結んでいないと思うときがあるかもしれません。けれども、それは決して無駄ではないと私は思います。ダビデは神殿を建てることは出来ませんでしたが、ソロモンが建てるための土台を準備しました。私たちも私たちが今していることが、自分の代で完成しなくても、次の人が、その続きを神様のためにできるようにしておくこと、それも立派な働きなのではないでしょうか。

3.ダビデは「神に選ばれた人」を支えた

ダビデには、ソロモン以外にも子どもがたくさんいました。それなのに、なぜソロモンなのでしょうか。Ⅰ歴代誌29:1でダビデは、「わが子ソロモンは神がただひとりを選ばれた者である」と語っています。つまり「私の息子だから」ではなく、「神が選ばれた人だから、その人が神様の御業を担えるようにする」これがダビデの信仰でした。

私たちは次の世代の若い人たちや、子どもたちに「こうなってほしい、このやり方を続けてほしい」と思うことがないでしょうか。でも、彼らには、神様がその人に与えておられる召しがあります。その人たちには、その人たちを取り巻く時代があり、その人たちに与えられた賜物があります。だから私たちは「あなたが神様に従って歩めるように、私はできることを準備します」と言えたら素晴らしいと思います。

ダビデ契約を思い出す

「かつわたしは主があなたのために家を建てられることを告げる。」(17:10)

ダビデが神殿を建てたいと願ったとき神様は「あなたのために、わたしが家を建てる」と言われました。これは建物の家ではなく、ダビデの王家、そしてその子孫に関する約束でした。つまり、ダビデが神様のために何かをするより先に、神様がダビデのために約束してくださったことが出発点だったのです。だからダビデは「こんな私を神様がここまで導いてくださった。その恵みを、次の人にも渡したい」と神様への素直に応答したのではないでしょうか。

4.「受け取った者」が次の人に託す

今日のもう一つの聖書箇所のⅡテモテ2:2でパウロはテモテに次のように言っています。「そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。」パウロは「私から受け取ったものを、あなたの次の人たちに渡しなさい」と言っているのです。私たちが信仰を持っているのも、誰かから受け取ったからではないでしょうか。どなたかが教会に誘ってくれたり、聖書を教えてくれて、祈ってくれたのではないでしょうか。自分の弱さを抱えながらも主に従っている姿を見せてくれた人もいらっしゃるかもしれません。私たちは、自分自身で信仰を立て上げたのではなく、受け取ったのです。だから今度は、私たちが誰かに渡していくこと、これが信仰継承なのだと思います。

家族がまだ信仰を受け継いでいないことを、悲しむ必要はないです。信仰は人に影響を与えることができても、信仰を人が作り出すことはできないからです。信仰は、親から子どもへ自動的に受け渡されるものでなく、神様とその人との間に生まれるものです。だから私たちは、「どうしてあの人は信じないのだろう」と自分を責めるのではなく、その人を神様に託して祈りたいと思います。私の家族も母親以外はまだクリスチャンではありません。祈り続けているところです。

「次世代」とは

教会における「次世代」は、必ずしも子どもたちや若い人だけではありません。教会に来たばかりの人や求道している人、洗礼を受けたばかりの人、青年や子どもたち、または長く教会を離れていた人、今はまだ信仰を持っていない人。そういう一人ひとりも、神様がこれから用いてくださる次世代ではないでしょうか。神様は、私たちが知らないところからも人を起こされます。そして私たちは、その人に福音を渡す役割をいただいています。

私たちが残したいもの。私は「イエス様に救われた」という証しを残したいと思います。例えば「私は苦しいとき、この聖書の言葉に支えられた、失敗したとき、苦しみの中にあったとき、神は私を見捨てませんでした、赦せないと思ったとき、主が私を赦してくださったことを思い出させてくださった、病気になったときも、主はともにいてくださった、祈りがすぐに答えられなくても、主を信頼して歩いてきた。」そういう一人ひとりの人生そのものが、次の人への信仰の遺産になるのではないでしょうか。

私たちの代で完成しなくてもいい

日本の教会は、全体的に目減りしている、若い人や子どもが少ない、奉仕する人が少ないと言われますが、そういう現実を見ると、不安になるのは当然だと思います。ダビデを思い出してください。ダビデも、自分の手で神殿を完成させることはできませんでした。それで彼の人生が失敗だったでしょうか。いいえ。ダビデは、「自分が完成させられないもののためにも、忠実に準備する」という生き方をしました。だから私たちも「私たちの代で救いを完成させないと、全部やらなければ」と背負いすぎることは反対に焦りを招き、躓きを与えてしまうと思います。

私たちは、今日できること、成すべきことを感謝をもってすること、電車を移動しているとき、人と会うとき、職場での仕事の最初に祈ること、また機会があれば御言葉を伝えることや、相手を大切に思い、愛し仕えること。誰かと一緒に協力しながら仕事を委ねること。周りの人が自分たちと違うやり方をするときにも、すぐに否定せず、何よりもキリストを愛して生きる姿を見せること、それが私たちにできる次の人々への日常の積み重ねるべきこと、完成へ向けての「準備」なのではないでしょうか。

【結び】

今日のダビデは、神様から、「あなたは神殿を建てない」と言われました。けれどもダビデは、「では、何もしません」とは言いませんでした。「私が建てることはできない。でも、次の人が建てられるように、私は準備しよう」と言い、神殿建設のための材料を集めて託しました。そしてパウロもテモテに「私から受けたものを、さらに忠実な人々に託しなさい」と語りました。私たちの人生も私たちが受け取ったものを、次の人に渡すために生きています。そしてそれは、御言葉に生きること、一人の人のために祈ること。周りの人の話を聞くこと。一緒に礼拝すること。誰かを赦すこと。礼拝に忠実に通うこと。その一つ一つが、次の人のための建て上げる「材料」になるかもしれません。私たちは、必ずしもすべてを完成させる必要はありません。次の人が、主に従って歩めるように、何かを残せばいいのです。

私たちが次の世代に残すべきものは、「私を救い、愛してくださっている主イエス・キリストご自身」です。私たちの人生が終わった後も、御言葉が残り、祈りが残り、愛が残り、そして何より、キリストが次の世代の心の中で生きて働いてくださることを信じて最善を尽くすことです。

「主よ、私たちの代で全部完成させようとするのではなく、私たちにできる準備をさせてください。私たちが受け取った福音を、次の人に渡させてください。そして、私たちがいなくなった後も、あなたご自身があなたの教会を建て上げてください。」そのように祈りながら、これからの歩みを主にお委ねしたいと思います。