礼拝とは

 礼拝は、教会の営みの中心にあります。教会の営みが活気あるものであるために、礼拝を改めて見直してみます。
 (この記事は、2022年1月16日~2月20日まで、週報でご紹介したものです。)

礼拝とは①「神と人の交わり」

 礼拝は、「神と神の民の、出会いと交わり」の出来事です。そのリアリティを捉えるのは、聖霊が与える信仰の目です。
 神は、ダビデを導き、ペテロと語られたように、私たちにも出会い、共に歩んでくださいます。
 主に出会った人々は、心を尽くして主に従い、主だけを礼拝します。神との真実な出会いは、私たちを新たにし、人生を変えます。
 毎回の礼拝で、神との交わりが認められ、恵みが溢れるように祈ります。

礼拝とは②「復活の祝い」

 日曜礼拝は、「主イエスの復活の祝い」です。旧約聖書の安息日は土曜です。教会が日曜を主日と呼んで礼拝を守るのは、主イエスが日曜に復活されたからです。復活を祝う主日の礼拝は、喜び・感謝・勝利の時です。ですから、古代教会は日曜に断食することを禁じました。私たちの礼拝は、悔い改めを経て、復活の喜びと讃美に彩られているでしょうか。
この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です(ネヘミヤ8:10後半)

礼拝とは③「招きと応答」

 「私は今日、教会で礼拝を受けた」という言葉遣いを聞くことがたまにありますが、正しい言葉遣いではありません。私たちは礼拝を「捧げ」、神が礼拝を「受け」られます。礼拝で御言葉を聞くこと、恵みを頂くことは大切ですが、受け身一辺倒の姿勢は、健全ではありません。
 真の礼拝には、「受ける」ことと「捧げる」ことの両方の要素が含まれます。私たちは、神の招きや約束の言葉・現臨在を「受け取り」、讃美・祈り・信仰告白・献金をもって「応答」します。
「…あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)
 自分自身を心から捧げる献身こそ、真の礼拝です。

礼拝とは④「御言葉と聖餐」

 当教会では毎月第一主日に聖餐礼拝が持たれます。ジョン・ウェスレーは「できるだけ頻繁に聖餐にあずかるように」と教えたように、教会は伝統的に聖餐を重視してきました。
 古代から、礼拝は「御言葉の礼拝」と「聖餐の礼拝」の二部構成でとらえられてきたようです。説教は「霊的」で、聖餐式は「形式的なもの」と考えるべきではありません。
 聖餐式では、パンとぶどう液という「モノ」を用います。そのように、神の恵みは私たちの現実の物質的な生活の中にも現れます。神である主イエスが、肉体を持つ人となって来られたのと同じです。パンとぶどう液のような、身近なありふれた生活のただ中に、神の恵み
は現れます。
パンとぶどう液による聖餐は、受肉の神秘を表し、その恵みを私たちにもたらします。
 聖餐式を通して、私たちの現実の生活のただ中に生きて働く主の恵みを、新しくして頂きましょう。

礼拝とは⑤「神の民全体の務め」

 ギリシャ語の「礼拝」(レイトゥルギア)という言葉は、「民」(ラオス)と「仕事」(エルゴン)という言葉に由来します。礼拝は「神の民全体の務め」というニュアンスがあります。
 礼拝は、メッセンジャーや司会者が多く発話しますが、本来は会衆全体の神への奉仕の時です。讃美・祈り・信仰告白を通して、あるいはその他の様々な礼拝奉仕を通して、会衆が主体的に参加して、礼拝をつくり上げます。
 コロナ禍では、讃美は小声になり、礼拝出席にも支障が出て、非対面のオンライン礼拝が増え
礼拝のあり方を再考させられています。礼拝は信仰者一人ひとりの主体的な務めであることを覚えて、コロナ禍の時期でも、創造的・積極的に礼拝を捧げることを求め、共に作り上げてまいりましょう。

礼拝とは⑥「教会活動の原動力・頂点」

 礼拝は、教会の「力の源泉」であり、教会活動の「頂点」です。私たちは礼拝で、神へと向かい、また世に向かって神から遣わされます。
 私たちの生活の場での証しや愛の奉仕は、主日礼拝の延長線上にあります。隣人の心の祭壇で捧げる「第二の礼拝」「礼拝後の礼拝」と言えます。 この世に向かう私たちの奉仕の力は、神へと向かう礼拝から生まれます。私たちが世に遣わされるのは、世界全体が神への礼拝へと向かうためです。
 「主日礼拝」と、生活の場での奉仕と証しによる「第二の礼拝」。二つが調和するときに、信仰生活に命と活力が生まれます。


【参考文献】

・「キリスト教礼拝・礼拝学事典」 今橋朗・竹内謙太郎・越川弘英 監修 「礼拝」「主日」「説教」

・「宣教のパラダイム転換 上」デイヴィッド・ボッシュ著 第六章「東方教会の宣教パラダイム」